2003.06.22.

ヨハネ伝講解説教 第154回

――15:12によって――

  「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。

 この戒めが最初に語られたのは13章34節であった。関連する教えは、14章15節でも、15章10節でも学んで来た。今日のところで語られたあと、まだこの後も繰り返される大事な教えである。13章以下この最終の教えの中で、「戒め」については6回に亘って語られている。

 今日はこの12節を学ぶだけで時間いっぱいになるようだが、我々の理解に合わせて、この12節から3つの要目を読み取ってその一つ一つについてやや詳しく考えて行きたい。

 先ず、主が「戒め」と言っておられる事柄に目を向けよう。戒めという言葉は単数である。戒めという言葉は神の民の中では、これまでモーセの律法の意味で用いられて来た。それは複数で語られるのが通例であった。この「戒め」という言葉自体は普通の言葉で、人が人に命令する場合にも用いる。けれども、ここでは、そのような普通の言葉ではない。人の命令は戒めにならない。モーセの戒めはモーセを通して与えられた神の戒めであり、それは人の戒めとはハッキリ違う。その意味で、これまで戒めと言われて来たものは、主イエスが「私の戒め」と呼びたもうものと一致するが、主は御自身の戒めとモーセの戒めをある意味で対置しておられることに、これまで幾度か触れた。

 勿論、モーセの戒めと対置する必要のない面もある。それらのことについて今日は立ち入って論じなくても良いと思う。ただ、ここで少しだけ触れて置くが、主はパリサイ人がモーセとの関係の深さを誇らしげに語るのに対決し、6章で厳しく批判しておられる。「あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下って来たパンを食べる人は決して死なない」。これはモーセが、そしてモーセの戒めが、命を与え得ないことを言われたものである。

 もう一つ、今回の箇所で考えておいてよいのは、今日はそこまで行けないのだが、15節に、「僕」というのと「友」というのとが対比される。神の友という称号を受けたのは、モーセよりもむしろアブラハムである。出エジプト33章11節に「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」とあるが、創世記18章17節には「時に主は言われた、『私のしようとする事をアブラハムに隠して良いであろうか。

アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地の全ての民がみな、彼によって祝福を受けるではないか』」と記されている。ここには友という言葉はないが、その実質が言い表されており、歴代志下20章7節にも、イザヤ書41章8節にも「わが友アブラハムの子孫」という言い方がなされる。このことについては今日はこれ以上は述べない。

新約のヤコブ書2章23節もアブラハムを「神の友」と言う。

 さて、13章34節で、主イエスは「新しい戒めを与える」と言われたが、この言い方によれば、この戒めの意味がいよいよハッキリしている。つまり、古きモーセの戒めと対置されるキリストの戒めである。15章12節で「私の戒めはこれである」と言われるところでも、殆ど同じ響きが聞き取られる。

 「新しい」と言っても、何も新しいものはないではないか。モーセの戒めも要するに愛であったではないか、という人がいるであろう。それは間違った言い方ではないが、読み方が浅い。我々は主がここで「私の戒め」と言われた意図を読み取らねばならない。

 モーセの戒めと内容的に合致するとしても、今、新しい契約を与える時に、主キリストは新しい戒めを与えたもう。古き戒めが破棄されたと言っては誤解を招くから差し控えて置くが、旧約時代と異なる時代が始まったことが指摘される。

 「私の戒め」と言われる時、モーセの戒めでなく私の戒めだ、と言われる面があると共に、父の戒めでなく私の戒めだ、と言っておられる面もあることに気付かせられる。父の戒めは御子によって果たされたことが10節で言われた。それを受けて、今度は私の戒めをあなた方が行なうのだと言われる。内容的に、これを神の戒めと取って何ら間違いではない。しかし、父なる神は御子キリストを通じてこの戒めを与えたもう。

 すなわち、すぐ続いて「私があなた方を愛したように愛せよ」と命じたもうお方が、戒めを与えておられるという点がここでは重要なのである。「愛する」ということに我々の関心が向かうのはもっともなことであるが、その愛はキリスト・イエスから与えられ、彼から受け取るという点が重要である。

 すでに学んで来たように、主は父なる神が御子を愛したもう愛、御子がその弟子たちを愛したもう愛との関連で、弟子たち相互の愛を教えておられる。この愛は人類一般に通用する掟ともなるが、相互の愛は神の愛を世に宣べ伝える使命を持つ弟子たちにとって不可欠である。弟子たち相互の愛とは、使命を帯びて世に立つ者の当然の心得というような意味で聞き取るべきものではない。使徒でない一般信徒には縁のないこと、いうふうに受け取ってはならない。これは、愛の交わりとしての教会の形成を命じたものである。

 今日学ぶ要目の第二として、「互いに愛し合いなさい」という、戒めの本体に注目しよう。愛とは本来無制限で、開かれたものではないのか、と疑問を感じる人がいるであろう。マタイ伝5章46節で、主イエスは、「あなた方が自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか」と言われた。

 「互いに愛し合う」とは、ある境界線の内側のことである。では、その外側の人は愛さなくて良いということなのか。そうではない。だが、全ての隣り人を愛すべきだということはこでの問題ではない。勿論、全ての人を愛するのである。あなた方を迫害する人を愛せよ、と命じられた通りである。最も遠い者に対しても無関心になれない愛、それを主が与えたもうたことは確かである。

 ここで主イエスが説いておられるのは、そういう一般的な倫理でないことに十分留意したい。隣人を愛する時、その愛に何も反応してくれない人があれば、それを愛するのは無駄だから止めておけ、というのは、対価を受け取って品物を売れ、という商人の論理である。代金の取り立てなしに商品を渡していては破産する。だから、適正な対価を受けとることは正義にかなうのである。

 だが、愛の世界はそれとは別次元にある。愛に答えてくれる人がいてこそ、愛が成立すると相対的に捉えてはならない。答えてくれても良いのだが、答えてくれなくても愛は愛なのだ。答えてくれることを秘かに期待しながら愛を行なうのは、商人が広告するのと同じ性格の行為である。広告そのものは利益にならない。しかし、大きい利益をやがて齎らすかも知れない。たとい利益を齎らさなくても、広告主の名声を高めるという利益がある。だから、与えて何か対価を期待するのをさもしい行為だと言うのは当たらない。愛の世界と次元がことなるのである。名声を秘かに期待して慈善事業をする人の考えもこれである。それが偽善だと決めつけるのは差し控えるとしても、それが愛だと思ったなら、その時、これは偽善になる。

 主イエスが「あなた方は互いに愛し合いなさい」と言われたのは、それとは全然別のことである。外まで愛が拡げられて、それに見合う見返りが得られなくて破産するようなことはするな、と言われたのではない。主イエスの御心をそのようなさもしい心をもって忖度するのは的外れである。

 イエス・キリストは今、死のうとしておられる。彼の死によって贖いが成就された、と我々はよく言うのであるが、同じ事を別の視点から捉えるならば、彼の死によって教会が生まれるのである。愛の共同体である。教会に大きい価値や権威を与え過ぎて失敗した歴史があるから、同じ過ちを繰り返さないよう、慎重に論じたいが、キリストが去って行かれた後、或る意味で彼の身代わりとも言える教会が地上に立つ。すなわち、見える姿ではもはやいましたまわない彼に代わって教会が建つ。この言い方は、慎重に用いなければならないのであるが、見ることの出来ない彼を証しするのが教会である。

 教会では真理が説かれる、と言って何ら間違いはない。教会は真理のためにあって、真理の柱であり、真理を無力化するものと戦うという使命を持っている。そのように受け取って間違いではないが、真理、真理、と唱えることに自己陶酔して、自分の言うことは皆真理であると錯覚することが実際ある。

 主はむしろ「愛の交わり」という形で教会を捉えることを勧めたもう。愛も錯覚のまま捉える人がいるが、愛は具体的に実証されるから、間違いがあった場合に是正しやすい。愛を口で言っても、真実を伴わないならば、比較的簡単に見破られるのである。

 教会はそれよりも信仰告白を立て、それをもって教会の目印とすべきではないか。

あるいは、御言葉が正しく解き明かされるかどうかによって、真の教会であることの証しを立てるべきではないか、と言われる。それは全くその通りである。しかし、神学が充実していても、愛がなければ、鳴る鐘や鐃鉢のようなものである。

 そういうわけで、地上に残される教会の徴しは、実際面から言うならば、愛である。教会が大伽藍を建立しても、諸国家には出来ないほどの大事業を成功させても、「私の王国はこの世のものではない」と言われた方の御意志の実現とは全く無縁なのだ。

 13章34節-35節で、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」と主は言われた。もはや言葉を付け加える必要はない。

 「互いに愛し合う」とは交わりである。相互関係である。結束である。愛の感化力の及ぶ圏内に入れられるというのではない。「責任」という言葉では的外れの解釈がなされる恐れがあるが、無責任な群衆としてそこに入って行くというのとは確かに違う。体の肢々が相互に結び合うように、御言葉を聞く者は愛によって結び合っている。

 主イエスは、父なる神の愛、御子キリストの愛を説いて来られて、次に教会の愛を教えておられる。父なる神の愛と、御子キリストの愛が、同質のものであることは言うまでもないが、それと比べて、教会の愛は大分品質が落ちるのではないかと疑問を感じる向きがあるであろう。たしかに、教会の愛が天国さながらのものであると言う人がいたならば、その言い方は誤解を起こすと警告しなければならない。

 しかし、「教会は人間の集まりに過ぎない」と言う者があれば、その誤りも是正されなければならない。人間が好き勝手に集まったものではない。「我は教会を信ず」と我々は告白している。人間の交わりに過ぎず、その中にはあらゆる忌まわしいことがある、そういうものを信じている、と我々が言うのであろうか。

 確かに、数々の忌まわしいことが教会のなかにある。そのような相応しくないことをしでかした人は、教会の外に放り出さねばならないと言っているならば、自分自身を放り出さねばならないことになる。教会に完全な意味の聖潔を要求していると、何も残らなくなる。完全は約束されていることであって、その約束を信じ、受け入れていなければならないのであるが、それはすでに獲得された現実ではない。

 キリストが完成の日を目指して働きたもう。すなわち、人間が新しく生まれるということを真実に実現したもう。我々は信仰によってそれを捉えるから、約束されたことは、ある意味ですでに捉えたと確信する。そして、そのようなものを目指しつつ愛をもって教会を建て上げて行く。

 人間の集団に過ぎないのであるから、愛することが出来なくて当たり前ではないかと開き直ってはならない。互いに愛し合いなさいとの戒めは真剣に守られなければならない。それを守り行なう力が足りないと言うならば、祈らなければならない。「私の名によって祈りなさい。祈りはことごとく叶えられるであろう」と約束されたのはこのことのためにある。

 互いに愛し合う共同体は、神が御子を遣わすことによって示したまい、御子が命を捨てることによって示したもうた愛を、さらに証しするための器である。そのような器が出来上がるように我々は励まなければならない。

 第三の要目に移るが、ここでは「私があなた方を愛したようにあなた方も……」という指示に注目する。直ぐ前の9節で、「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである」と言われたことを思い起こし、それに今学ぶ御言葉を重ねるようにすれば良い。そこにある一貫性を読み取らねばならない。その一貫性は、あなた方が愛し合うことによって完結するのである。御父と御子の業の伸展を教会が受け持つのである。それ以上には救いのための処置はなされない。

 「私が愛したように」とは、二つの意味を併せて語られたものと考えられる。すなわち、「私があなた方を愛したこと、それが、あなた方の愛する根拠・源泉となる」という意味と、「私が愛したのを典型・模範として、それに見習いつつあなた方は愛し合いなさい」という意味である。

 だが、人はキリストから愛されたように他の人を愛することが出来るのであろうか。そのような戒めを実行することは不可能ではないのか。――これは一見もっともらしい理屈である。だが、我々の主は我々の負い得ない重荷を負わせて、我々を苦しませたもうであろうか。

 キリストが我々を愛したもうことが我々の愛し合う根拠・源泉であると言ったことをシッカリ思い起こしてもらいたい。例えば、我々の前に一つの精密な機械を置いて、「この通りの物を作って見よ」と言われても、それは無理難題だと辞退するのが当然であろう。しかし、主はそういうことを言われたのではない。

 主は我々に愛を注いで下さった。譬えを言うなら、親が子供に金を渡して、この金で何々を買って来なさい、と言うようなものである。それは子供にとって初めての経験であるかも知れないが、出来るのである。命令だから服従しなければならないのは当然であるが、無理であっても実行せよというような意味ではない。

 それでは、全く自然に、自由に、何にも拘束されないで、それをやり遂げるというのか、というと、そうではない。キリストが何をなさったか、どのようになさったかを見ながら、あるいは思い起こしながら、それをする。見習うべきキリストの姿が見えなければ、我々は忽ちに困惑してしまう。

 10節で、「もし私の戒めを守るならば、あなた方は私の愛のうちにおるのである。

それは私が私の父の戒めを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」と教えられたことも、この12節の学びを深めるに役立つであろう。「愛する」ことと「戒めを守る」こととは一つと言って良いほど結び付いている。また、御子が父を愛する愛は、御子が父の戒めを守ることによって具体化される、と言われ、キリストもまた戒めを守ることを愛に結び付いた、その単なる証しでなく、愛の具現化として行ないたもうたことが示される。

 キリストが成し遂げたもうた業、それを或る意味で引き継ぐのが互いに愛し合う共同体の建設である。それがキリストの勝利を引き継ぐのである。

 

目次