ヨハネ伝講解説教 第153回
――15:9-11によって――
9節に言われる、「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである。私の愛のうちにいなさい」。――この御言葉について、説明は何も要らない。全然受け付けようとしない人は別として、この御言葉を読もうとする人には意味が分かっているからである。しかし、「分かった」と感じるだけでは、殆ど意味がないということを我々はこれまでに何度か気付かせられている。そこで学んだことを今この9節を読み解くところで役立てるのである。
分からないから、問い直したり、調べたりしなければならない言葉や事柄はある。
その難しさに気落ちして、御言葉の齎らす祝福を受け取ることを断念する人もいるが、むしろその難しさ故に励まされねばならないと、我々は心得ている。何故なら、一見困難に見えても、そこには多くの場合、素晴らしい宝が隠されていることを我々は経験的にも知っているからである。
それと違って、分かり易い言葉の場合、調べるには及ばないのであるが、もう何もしなくて良いということではなく、分かり切ったと見られるその言葉の意味をさらに掘り下げなければならない。ということは、どうすることなのか。――今日の聖句の中の言葉ではないが、14章25節、26節でこう教えられた。「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを悉く思い起こさせるであろう」。
すでに語られて聞いた言葉、聞いて分かって、受け入れた言葉、それは説明の必要のないものである。では、聞いた言葉が私を生かす力となるかというと、そうでないのである。聖霊によって思い起こさせられることが必要なのである。「思い起こす」とは、思い出の箱を開けて、すっかり忘れていたことを取り出すというのとは違う。
言葉として、お話しとして、聞いて、分かって、頭の中に収められていた記録が、掘り出されるだけでなく、再生されることである。謂わば、古いレコードが発見されただけでなく、再生装置に掛けられて、音になるようなものである。
人は百科事典を買えば、そこに書かれている知識は全部自分の所有であると主張することが出来るかも知れない。しかし、それらの項目を自分でキチンと読まなければ、それは故紙としての価値しか持たない。
同じように、キリストの言葉も、キチンと聞くのでなければ、ただそれだけの物で、命の御言葉ではない。さらに、「分かりました」と言えるようになったなら、それで良い、それで終わり、ということにはならない。むしろ、そこからが始まりである。そこから先は御霊の力によってなされる。したがって、努力して掘り下げるというよりも、御霊の助けを祈り求めなければならない。
今日学ぶ御言葉は、耳新しい教えではない。だから、聞き流してしまうかも知れないが、今言ったようなものとしてシッカリ聞き取らねばならない。御霊の導きのもとにその意味を掘り起こして行くべきである。
「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである。私の愛のうちにいなさい」。
この言葉を部分に分けて、少しずつ読み解いて行くことにしたいが、先ず「父が私を愛された」である。これは、これまで繰り返し教えられたことである。だから、これ以上繰り返し説明を受ける必要はないとしておこう。
次に「私もあなた方を愛した」と言われる。これも聞き飽きるほど聞いたと言っては慎みを欠いた言い方ではあるが、繰り返し聞いて、十分分かっていると感じていることは確かである。今、我々が始めようとするのは、この二つの言葉を組み合わせて、そこにある一貫性を読み取ることである。
我々がキリストに愛されていることについて、知らないと言う人は、キリスト者の中にはいない。これまた語り過ぎるくらいに語られていると不謹慎な言い方をしてしまうほど、ありふれた、紋切り型の口調になっている。
しかし、正しく理解されているか、というと、必ずしもそうではない。頻繁に口にすることによって、キリストの愛に迫られているような感じになっているかも知れないが、人為的に自分自身をそう思い込ませているに過ぎない場合がある。悲しいことであるが、「キリストの愛、キリストの愛」と熱心に説いていた人が、そのうちにフト言わなくなり、言わなくなるどころか、信じもしなくなる、という事実があるのだ。その人にとっては、モノに憑かれていた状態から、憑きが落ちた状態になっただけのことかも知れないが、我々にとっては深刻である。
ヨハネは、第一の手紙の2章19節で、「彼らは私たちから出て行った。しかし、彼らは私たちに属する者ではなかったのである。もし、属する者であったなら、私と一緒に留まっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみな私たちに属さない者であることが明らかにされるためである」と言う。それは、その通りであるから、この言葉に付け加えるものは何もない。
しかし、我々として、そういう結果が出てから、もともと彼はああいう人だったのだと言うだけで済ませられるか、という問いは残る。また、私自身が彼のようになることは決してないと言い切れる根拠を持つのか、という問いも残る。これらの問いの十分な答えになるとは思わないが、我々自身の信仰の修練と自己確認に少なからず益することが、今日の聖句から教えられる。
「キリストの愛、キリストの愛」と熱心に叫ぶことは結構なことである。だが、その言葉を、もっと確かな言葉にするための導きがあることを、見落としてはならないであろう。私がキリストから愛されていることを確かめることが必要なのは言うまでもないが、その確認は、我々の人生経験の範囲内からだけ求めていて良いのか。いや、むしろ、「キリストが父なる神から愛せられた」事実について教えられた言葉を、重要視しなければならない。すなわち、これを当然のこととして、考えなしに受け入れるのでなく、ここで「父なる神が御子キリストを愛したもうた」ことと「キリストが私を愛したもう」という事実とをシッカリ重ね合わせるのである。
キリストが私を愛したもうことは、叫ばれている機会も多いだけに、実感をもって捉えられているように思っている場合が少なくない。ところが、父なる神が御子キリストを愛したもうという段になると、教理としては当然そうなると納得する人は多くても、観念の上だけの納得で、確信、感謝、実感をもって捉えられていない場合が多いのではないか。今日は私に対するキリストの愛と、キリストに対する父の愛の二つを、重ね合わせ、また一貫させることを教えられる。そうする時に、我々の信仰はかなりハッキリした、またシッカリしたものとなる。
「私の愛のうちにいなさい」という御言葉は、よく分かる、有り難いことばだと感じている人は多いと思う。だが、その「私の愛」、これは、父が私を愛されたように私があなた方を愛したその愛だということを、我々が確実に捉え、告白している、その愛である。これが9節で与えられる教えである。
ここにはさらに、もっと大事なことが示されている。「キリストが私を愛したもう」ということは、確かに最も重要な事項である。これを忘れてならないのであるが、その本来の意味をすり替えたままにしてはならないのである。すなわち、誰か誠意ある人、あるいは人間的な愛情のある人が、私を愛してくれたことを譬え、あるいは実例とすることによって、キリストの愛の理解が出来たとする。それはそれで良いのであるが、そのあと、譬えをそのままにして置いてはならない。
人が私を愛してくれたという人間の間の出来事を譬えにして、愛が分かったとは、キリストの愛を人間の次元の事柄に置き換えることであるが、これは説明のためには許されるとしても、分かったと思うだけで終わらせてはならない。分かったという、観念の上のことでなく、それによって生きる者とならねばならない。
誰それさんが私を愛してくれた、ということを手引きとしてキリストの愛に目覚めることは、あって良いことではあるが、それは譬えであって、若干似ているとはいえ実物ではなく、実物の説明である。神がキリストを愛したもうという事実と結びつけてキリストの愛を悟らなければならないのである。キリストの愛についての理解をそこまで引き上げなければならない。
これは神の世界の事柄であるから、人間界の比喩からもう一度、神の世界に戻して、我々自身も神の世界に入って行って、把握し直すことが必要なのである。キリストが私を愛して下さることは、この世の生活経験の中である程度分かる。あるいは分かるキッカケが掴める。それを深めなければ、確実で堅固な把握にならない。だから、父なる神が御子キリストを愛したもうことの確認をしなければならない。
こうして、「私の愛のうちにいなさい、留まりなさい」との御言葉が与えられて、それに服従する時に、私の信仰理解は確乎たるものとなる。
その次の10節、「もし私の戒めを守るならば、あなた方は私の愛のうちにおるのである。それは私が私の父の戒めを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」という御言葉は文章の形としては、前の節と同じである。これは戒めを守れとの勧め、いやむしろ命令のことばであって、次の11節でも、その次の12節でも、これに関連したことが命じられている。
キリストが父の与えたもうた戒めを守りたもうたことと、我々がキリストから与えられた戒めを守ることとの一貫性が強調される点、前の節と似た形である。我々において、キリストを愛することと、キリストの戒めを守ることが一つであることは、14章15節、21節ですでに繰り返された。
キリストが父の戒めを守ったことと、彼が父を愛したもうたこととの結び付き、同一性は、そのままの言葉では、これまでのところに出ていなかったが、かなり近い意味の言葉で、10章17節で「父は私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである」と語っておられる。御子が命を捨てるのは服従の極致としてである。戒めを守ることも要するに服従である。
主イエスが御父を愛してその戒めを守りたもうたことと、我々が主を愛してその戒めを守ることとを重ね合わせる時、主キリストのなしたもうたことこそが我々のなすことの基礎、基本、あるいは支えになっていることが明らかになる。
戒めを守ること自体は、それほど重要ではないと見られることが多い。すなわち、戒めを守る行ないによって、贖いを獲得するわけではないからである。使徒パウロがローマ書やガラテヤ書で心を尽くして説得しているように、戒めでなく信仰である。
それでも、主から戒めを与えられたのであるから、守らなければならない。そういう時に、余り意味がない、味気ないことであるけれども、守らねばならないから守るという、かなり消極的な姿勢になるであろう。
そうならないように、主は御自身の模範と救いの事実そのものとを示したもう。それが次の11節で教えられる喜びの教えである。
「私がこれらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにも宿るため、また、あなた方の喜びが満ち溢れるためである」。
「私の喜び」と言われ、次に「あなた方の喜び」といわれる。この二つが共に満ち溢れる。その二つのことの一致はたまたま起こったものではない。私の喜びがあるから、あなた方の喜びがある、という意味が読み取られるのである。私に大いなる喜びがあるから、それが満ち溢れてあなた方にも及ぶ、と取って良いであろう。
語られている言葉は平易であるが、語られている喜びが充実感を持つわけではない、と思う人は少なくないであろう。だから、我々は聞いた言葉をただ心に収めるというのでなく、大きい喜びとして受けなければならない。
では、どういうふうにして受け取るのか。ここではキリストの喜びと、我々の喜びが深い関連を持つものとして並べ上げられるのであるが、さらに、この上に、父の喜びを重ねるならば、充実した喜びが読み取られるのである。
父の喜びという言い方は、ここに出て来ないのであるが、8節に「私の父は栄光をお受けになるであろう」と言われた。この「栄光」という言葉を今だけでよいが「喜び」と讀み替えることは出来るであろう。父のみこころが御子によって行なわれ、御子の弟子たちも御子のみこころを行なって、父に栄光が帰せられることは、父の喜びである。
こうして、父の喜び、御子の喜び、そして我々の喜びが揃うこと、これは確かに福音であり、福音の堅固さ、また豊かさである。
その喜びが説明を聞いて分かったというだけではいけない。喜びは溢れるものとならなければならない。キリストとの結び付きが、喜びの共有として描かれているのである。