2003.06.08.

ヨハネ伝講解説教 第152回

――15:7-8によって――

 五旬節、聖霊降臨の記念の日、この日に相応しい聖書講解は、ヨハネ伝では16章12節から15節であると思われる。しかし、今日そこまでの間を飛び越してしまうには無理があるから、これまでの歩みの続きを学ぶことにする。

 「あなた方が私に繋がっており、私の言葉があなた方に留まっているならば、何でも望むものを求めるが良い。そうすれば、与えられるであろう」。

 何でも求めることが出来るようになるという約束である。もとより、求めるのは御父に対してである。14章14節で「何事でも私の名によって願うならば、私はそれを叶えてあげよう」というお言葉があった。私が叶えてあげる、とは、父が叶えて下さるように私が執り成してあげるというのと同じであるが、必要なものは主である御自身が与える、と約束されたと受け取っても間違いではない。ただし、今は、御父、御子、弟子の順序による繋がりについて、特に教えられているから、この関係が良く捉えられる読み方をして置こう。このことは特に説明されなくても基本的なことだから分かっていると見てよい。詳しい説明としては、後日16節で聞くことである。

 「求めよ、そうすれば与えられる」と主イエスは福音書の多くの箇所で教えておられる。主の教えの基本的なものである。今日学ぶのもその基本にそったことであるが、同じではない。今日のところでは「何でも求めよ」と言われる。

 祈り求めなければならないことについては、神の民は昔から、あらゆる機会に教えられていた。詩篇50篇15節の言葉は信仰者の間で特に親しまれているが、「悩みの日に私を呼べ。私はあなたを助け、あなたは私を崇めるであろう」と神は語られる。神は憐れみ深いから、嘆き求める者の願いを聞きたもう。これは序論、入門と言って良いほどの初歩的な教え、したがって初歩の者も持つ確信である。

 それと、今日聞く「何でも望むものを求めればよい」という教えは、矛盾するものではないが、同じではない。これはキリストと我々とが一つに繋がる境地において始まる新しい状況である。その時が来ているのだと言われるのである。

 「悩みの日に私を呼べ」とは、悩みの日でなければ呼ばないという意味ではないが、悩みの日という状況のなかで、神とその民との関係が深い意味において明らかになるのは我々の知るとおりである。病人は痛みを覚えて癒しを求め、医者は求められた癒しを与えてくれる。すなわち、薬を与え、癒されるための指示を与える。それは当然のことであるから、全く良く分かる。そこでは癒しが与えられるが、それ以外のことは約束されていない。そのような関係において、弟子たちはこれまで、主イエスについて来たと言えるであろう。

 主イエスは「健康な者は医者を要しない」という比喩によって御自身が癒し手であることを示し、多くの人々も癒しを求めて彼のもとに集まった。ところが、今この最後の段階で、主イエスは葡萄の樹と葡萄の枝という比喩によって、御自身と彼に属する弟子との関係を示される。葡萄の枝はいっさいの養分を木の幹から受ける。必要なものの一部を求めて受けるというのではない。

 前回、少しだけ触れて置いたが、譬えとしては葡萄の樹と葡萄の枝の関係だけが語られて、葡萄の幹がどこからその養分を吸い取って枝に送るかについては触れられなかった。そのように、肝心のことは葡萄の樹と葡萄の枝の完全な結び付きであるが、しかし、当然、葡萄の樹が元にある根と完全に結び付き、根が大地にシッカリ結び付いていることにまで思いを拡げておいた方が事柄の理解が深まるであろう。

 葡萄の樹の譬えで触れていないのは、御子と御父との結び付きである。しかし、そのことについてはこれまで再々触れられた。最も端的には10章30節で「父と私は一つである」と言われた。だから、ここでは葡萄の樹と葡萄の枝の関係を主題としなければならない。それでも、このことが明らかになった故に、今や葡萄の樹のその根元と、末端である葡萄の枝との関係も考えなければならない。それは葡萄の樹を通しての結び付きであるが、葡萄の枝は根元に全面依存するのである。それが、「何でも求めよ」ということなのだ。「悩みの日に求めよ」というのと矛盾はしないが、含みは大いに違う。

 主イエスは今まさに弟子たちのもとを去ろうとしておられる。この時、彼らに慰めを与え、力づけて、「あなた方はここ地上に取り残されるのではない。何でも求めることが出来る地位を与えられるのだ」と言われる。すなわち、単に憐れみを蒙る者というだけでなく、完全な贖いを成就したもうたキリストの故に、神の子という地位を確保された者であり、また勝利の主から全世界に遣わされた者という立場である。

 彼らも弱い人間であるから、悩みの日に神を呼び求めなければならない状態はこの後もずっと続いている。しかし、それだけでなく、この世に使命を帯びて遣わされている。彼らは世に取り残されたのでなく、世に遣わされたのである。

 「何でも望むものを求めるがよい」とは、欲望の無制限の肯定ということでない事情については、説明の必要もないと思う。また、これまでことごとに抑制しなければならなかったのが、時代が変わって、何を求めても許されるようになった、ということでもない。ちょうど葡萄の枝が必要な養分をことごとく木の幹から吸収するように、また生まれたばかりの子供が母乳に全面的に依存し、一切の必要をそこから吸収するように、信仰者はキリストを遣わしたもうた父に全面的に依存する。それが今や出来るようになった。

 これまでも実はそうだったのではないか。弟子たちは毎日、共同生活の中で主が祝福して割いて下さるパンを食べていた。このことは6章においてユダヤ人に向けて説明された通りであって、主イエス御自身が天から下った生けるパンであり、信ずる者らはこれをまことの食物として生きる、という教えの中で示されていた。

 これからも同じであるが、目で見るところにおける大きい違いは、キリストが肉体においては在したまわなくなるという点である。しかし、キリストはいなくなるのではなく、14章18節でも言われた通り、「あなた方を捨てて孤児とはしない、あなた方の所に帰って来る」。そして16章16節では、「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし。またしばらくすれば私に会えるであろう」と言われた。――彼は常にともにいたもうのである。しかも、14章2節3節で言われたように、去って行くのはあなた方のために場所を用意しに行くからであって、用意が出来たならば、また来て、いつまでもともにいるという在り方でいたもう。

 そこでは、目に見える姿ではいたまわないから、葡萄の枝が葡萄の樹を通じて根元と結び付くという事情は、信仰者がキリストの「名によって」祈ることなのだ。彼は肉体においてはいたまわないが、名は、彼がいたもうというのと同じ力を持つ。これは新しい事態である。今日学ぶことと重なる主題がこの一連の教えの中に何度も出て来るが、今日、読み合わせておかねばならないのは、16章24節、「今までは、あなた方は私の名によって求めたことはなかった。求めなさい」という言葉である。さらに、それに続いて、26節に、「その日には、あなた方は私の名によって求めるであろう」と言われる。

 イエスの名によって祈る、これは主が見える形においてはいたまわないが、目に見える臨在に少しも劣らぬ確かさと力とをもって共にいたもうから、祈りの執り成しは100パーセント有効だという意味である。

 さて、この7節で、「あなた方が私に繋がっており。私の言葉があなた方に留まっているならば」と言われる。あなた方弟子と、私キリストとの間には、あなた方が私におり、私があなた方におる、という謂わば相互乗り入れのような関わりがある。

「繋がる」という言葉と「留まる」という言葉と聞いた感じはやや違うが、原語では同じ動詞である。

 何でも求めることが出来る条件として、二つの点が上げられる。一つは「あなた方が私に繋がっていること」。これについては前の5節で教えられたことの再確認であると見て良い。次に、第二として「私の言葉があなた方に留まること」がある。これは第一の点と相互乗り入れという面があるが、もう一つ、新しい教えとは言えないとしても、同じ言葉の繰り返しではない。

 キリストと我々との関係、これは譬えによって言うなら、葡萄の樹と葡萄の枝の正常な状態である。しかし、この譬えは、結び付き具合の緊密さや命が通う細やかさの説明には役立つけれども、キリストとの結び付きの実態を表現するものとしては、足りない点がある。葡萄の枝の譬えだけなら、人格的な結び付きが忘れられるかも知れない。信じてこそ結び付くのに、信仰や信頼がこの譬えでは不注意にも見落とされるかも知れない。

 葡萄の樹と葡萄の枝の結び付きを、譬えによてでなく、実質によって示すのは、例えば、3節で、「あなた方は私が語った言葉によって、既に潔くされている」と言われるところである。常々教えられている通り、主イエスと我々との関係の実質は、御言葉を受けていることである。葡萄の樹の繋がりの譬えで示されたことを、御言葉に於ける関係として再確認しなければ、崩れてしまう。

 ここでは、「私の言葉があなた方に留まるなら」と言われる。「あなた方が私に繋がっており」というのに対応する「私があなた方に留まるなら」ではなく、「私の言葉が留まるなら」である。この言い方から二重の意味をくみ取るべきであろう。第一は、私があなた方のうちに留まると言われたのと同じ意味に取る解釈である。ただし、この結び付きが御言葉によってこそ成立するという含みがある。第二は、特に「御言葉が留まる」ことの意味するところを強調して理解する解釈である。

 この両方を見て行くべきであるが、「御言葉が留まる」ということに関しては、言葉を聞いているだけではまだ不十分であるとの指摘がなされていると理解される。では、御言葉が留まるとはどういうことであろうか。先ず思い起こされるのは、マタイ伝13章その他にある種播く人の譬えではなかろうか。

 種播く人が播こうとして出て行く。畑に着いて種を蒔きはじめる。道端に落ちた種や、石地に落ちた種があった。これらはそこに留まることが出来なかった。芽を出す前に枯れたり、鳥が来てついばんでしまう。しかし、この譬えは、失敗した例に焦点を当てているのではなく、良き地に落ちた種が豊かに実ることを説明したものである。

 御言葉が留まるのが、御言葉を聞いた正常な場合である。御言葉を聞いて、ああ良い言葉だと幸福感に満たされることは結構だが、持続しない場合がある。御言葉はいわば命の糧であるから、繰り返し受けなければならないのは確かである。ただし、それは麻薬中毒者が薬の切れたときに慌てて薬を補給するような取り入れ方をするのではない。摂取し続けなければならないのではあるが、安定感がある。その安定は慣習として定着するというのでなく、霊的成長と結び付く。

 種を播く人は御言葉を播くのだ、と主御自身が注釈しておられる。この譬えの中の言葉は「ロゴス」であり、ヨハネ伝15章7節の言葉は「レーマ」で、意味は大まかに言えば同じと見て良いが、微妙な違いがあることはある。しかし、今は連想から引き出したのであるから、語彙のニュアンスの違いは全く問題にならない。

 主イエスがここで「私の言葉があなた方に留まる」と言われたのは、言葉を聞き続け、また受けた言葉を良く覚えているというだけのことではない。ただ留まるだけならば、播かれた種が確かに播かれた地に残っているけれども、芽を出さぬままであるのと同じかも知れない。今学ぶ譬えでは、「実を結ぶ」ということがしきりに繰り返されるのであるから、芽を出さぬままでも留まれば良いという取り方はする余地がない。「留まる」は「実を結ぶ」の意味まで含むと理解すべきである。さらに言うならば、16節には「実を結び、その実がいつまでも残る」と言われるように、実までも留まるのである。すなわち、空しい実を結ぶのではない。

 「御言葉が留まる」とは、御言葉が御言葉としてそこに在り続けることであって、御言葉の本来の力と働きが持続して行くことである。すぐ前の3節では、御言葉によって潔められるということを聞いた。そして、そこでは潔められるとは、豊かに実を実らせることと結び付いていた。

 今ここで「言葉が留まる」という言い方について、もう一つ読み取って置かなければならないのは、御言葉を守り行ない続けるという意味である。御言葉は命を齎らす。すなわち、救いを齎らす。その救いは信仰によって受け止められるものであるが、御言葉によって信仰が生じるだけではなく、戒めを守るわざもこれに伴って御言葉から生じる。

 主の最後の教えの中で「戒めを行なう」ことが大きい重要性を持つことを我々はすでに教えられた。「私の言葉があなた方に留まっている」とは、具体的に言えば、主の戒めを守っていることである。さらに具体的に言うならば、13章34節で言われたように、「互いに愛し合う」ことである。

 8節に入る。「あなた方が実を豊かに結び、そして私の弟子となるならば、それによって私の父は栄光をお受けになるであろう」。

 弟子ということについては8章31節で、「もし私の言葉のうちに留まっておるなら、あなた方は本当に私の弟子なのである」と言われた。この時は御言葉に留まらないユダヤ人に対して語られたのであるから別個のことであるが、言葉に留まるのが弟子である。

 この節は、葡萄の枝が葡萄の樹に繋がって良き実を結ぶならば、葡萄の樹の根元が栄えると言うようなものだ。御父から御子、御子から弟子へと養分が送られて行く一つの方向のほかに、もう一つ、御子から御父へ、また弟子たちから御父への方向がある。栄光を帰する方向である。ここに比喩は用いられていないが、用いるとすれば葡萄の枝がシッカリするとき葡萄の根もシッカリするというイメージを描いて良いであろう。

 主イエスはすでに、御自身によって父なる神に栄光が帰せられることを屡々語っておられる。今や、それが拡大されて、「あなた方によっても、父は栄光をお受けになる」と言われるのである。

 あなた方によって父が栄光をお受けになる、とはどういうことか。難しく考えなくて良い。今、御子によって父が栄光を受けたもう、そのことの拡大があると言ったから、御子によって父が栄光を受けたもうとはどういうことであるかを考えて見れば良い。

 13章31節に言われた。「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神御自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう」。これは、御子が務めを全うして神の栄光を顕し、同時に父なる神が御子に栄光を授けるという結び付きを典型的に示す聖句である。

 同じように、キリストの弟子が神の御心に服して課せられた務めを行なうなら、それは或る意味でキリストの御業への参加であり、その服従の業によって神に栄光が帰せられる。この方向に生きる者には、求めることは全て与えられるのである。

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