2003.06.01.

ヨハネ伝講解説教 第151回

――15:5-6によって――

前回学んだところでは、葡萄の樹、葡萄の枝、葡萄園の主人たる農夫、この三つの要素が組み合わされる譬えが示された。そこでは、有名無実になったイスラエルが破棄されるという、救いの歴史の流れの大転換が読み取られた。それに続く5節以下、同じ葡萄の譬えが続くのであるが、今回学ぶところでは、別の面に強調点が置かれ、葡萄の樹と葡萄の枝の関係を集中的に教えられる。

 先には「まことの葡萄の木」と言われた。それに対し、5節では、ただ「葡萄の木」と言われ、木とその枝の関係に中心が移る。「まことの葡萄の樹」と言われる場合は、まことでない葡萄の樹、紛い物の葡萄、本物らしく装っているが、永遠の命に至らせることが決して出来ないものとの対比、また本物と偽物をキチンと見分けるべきことが暗に促されていた。5節では、その点は非常に単純化されている。

 また先には、私に繋がっているけれども、つまり名目的にはイスラエルであるけれども、その中で実を結ぶ枝と、そうでない、実を結ばない枝との対立が示されたのであるが、今回のところでは、一つの枝がホントウに繋がっているのか、いないのか、というところに重点が置かれている。

 前回のところでは、実を結ばぬ枝を切り落とすのは農夫であるが、今回のところでは、そういう枝は枯れてしまい、枯れ枝を処分するのは人々である。ちょうど地の塩の譬えで、味を失った塩は、それ自身ですでに無意味な存在となってしまったから道に捨てられて、人々に踏みつけられる、というのと同様である。そのように踏みつけられることの中にも神の裁きを認めるべきであるが、葡萄畑の主人である農夫が、自らの手で刃物で枝を切り落とすというのと、人々に片付けさせるというのとは裁きの厳しさが違う。

 前回学んだ譬えと切り離し、別の譬えとして学ぶべきだと言うのではない。余計な話しであるが、もともと別であった譬えが、混同されて一つに編集されたのだと解釈する学者がいるが、我々はそういう説明に関心を向けない。一つの話しが続いていると取るべきだと思う。しかし、主イエスがここで特に言おうとされている点が何であるのかを見落とさないように読んで行きたい。

 「私は葡萄の樹、あなた方はその枝である」。――すでに言った通り、ここでは関係の深さ・真実さが示されている。「私が何々である」という宣言をされたことは珍しくないが、それに対応して、「あなた方は何々である」と我々の側を規定する言い方をされたことはこれまでなかったのではないか。そういうわけで、ここでは、葡萄の樹が何を意味するか、葡萄の枝が何を意味するかを考える必要はない。両者の結び付きにこそ思いを集中しなければならない。

 どういう経緯で葡萄の樹と枝の関係になったかについては触れておられない。葡萄の樹の或る箇所に季節になると芽が出て、その芽が伸びて、枝となり、葉が茂り、その枝に花が咲き、実をつけるのが通例である。が、前回、ローマ書11章で見たように、オリブの本来の枝が切り落とされて、野生のオリブの枝が接ぎ木されて幹になる場合もある。まして葡萄では、そのような接ぎ木は当然行なわれたはずである。生え抜きのイスラエルでない異邦人たる我々の場合はまさにそれだ、と言うべきであろう。そのように捉えた方がこの場合分かり易い。

 すなわち、生まれながらに葡萄の枝であったというふうに考えないで、恵みによって今日あるを得ていると受け取る方が、事柄を的確に、また意味深く捉えることが出来る。エペソ書2章11節から13節に言うところを思い起こそう。「だから記憶して置きなさい。あなた方は以前には、肉によれば異邦人であって、手で行なった肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もない者であった。ところが、あなた方は、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となったのである」。

 このエペソ書の言葉の説き明かしを挟むことは今は要らないが、幹と枝の関係が当り前のことであるかのように、何気なしに聞き流してしまうのでない受け取り方が正しいことは言うまでもない。

 葡萄の樹と葡萄の枝の比喩は、その一方的関係を言うものである。枝は幹によって養われるのである。「いや、相関関係があるではないか」という議論は、ここでは単なる混ぜっ返しであるから却ける。すなわち、葡萄の樹から枝をすべて切り落としてしまうならば、樹はやがて枯れる。すなわち、枝が伸び、葉が茂ることによって、太陽の光りはその葉から吸収され、枝を通じて根元まで戻され、こうして葡萄の樹全体を養う、という相互関係があるのは確かだが、この譬えではそういう双方向の働きは扱われていないから、そういう考えを持ち込むならば、解釈は混乱するばかりである。譬えの解釈には限定が必要であると我々は承知している。

 葡萄の樹は大地に根を下ろし、大地から吸い上げた水分を枝に送り、その水分が葡萄の実に蓄えられ、実った後には葡萄酒という形に変わって人々を養う。葡萄酒のことまで持ち出すのは余計なことのように思われるかも知れないが、前回少しだけ触れたが、この箇所は最後の晩餐における葡萄酒の杯との関連で語られたと考えられる節がある。だから、触れて良い。では、ここでは葡萄の樹が根を下ろす大地は何なのか。それについてこの譬えでは、強調されていないし、それが何であるかを考える必要に迫られているわけでもない。しかし、触れて置くことは決して無駄ではない。一粒の麦が地に落ちて死ぬという譬えが示すように、葡萄の樹であるキリストは、御自身からの養分をもって枝を養いたもうと考えて良い一面はある。だが、彼が父から一切の恵みを受けて、それを枝に届けたもうと考える方が遥かに有益な場合もある。なぜなら。彼は御父からそのために遣わされて来たからである。

 17章7節で主イエスは、御父に祈って、「いま彼らは、私に賜わったものは全て、あなたから出たものであることを知りました。何故なら、私はあなたから頂いた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、私があなたから出た者であることを本当に知り、またあなたが私を遣わされたことを信じるに至ったからです」と言っておられる。彼は遣わされて来て、賜物を施したもうのである。上から下への一方向だけをここで読み取らねばならない。

 5節の御言葉はさらに続けて言う。「もし、人が私に繋がっており、また私がその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなた方は何一つ出来ないからである」。

 先に一方的な関係を見たのであるが、ここでは双方向の関係が語られる。「人が私に繋がっており、また私がその人と繋がっておれば」と言われる。人がキリストに結び付いているなら、それはキリストがその人と結び付いておられるという意味であり、新しいことが付け加えられたのではない。しかし、「人が私に」というところでは人が主語であり、そのことをもっと正確に言うためには、「私がその人に」と御自身を主語として語られるのである。

 「実」ということに強調点が置かれる。ここで、ベタニヤからエルサレムへの道の傍らにあった実のない無花果の木を主イエスが呪って枯らしたもうた事件を思い起こして良いであろう。葉が茂って、如何にも実り多くあるように見えたけれども、実がなかった。だから、呪われて枯れた。葉が茂っていることは見た目には良い。しかし、主はその見た目の良さを嫌いたもう。

 「実」という比喩から、実利的・物質的な着想にずれ落ちてはならないと自戒すべきことにも触れて置こう。主が無花果の実を求めたもうたのは春であった。それは無花果の実りの季節ではなかった。だから、実がなかったのは当然である。しかし、主イエスが理に背いて、無理難題を要求したもうたというのではない。無花果というものは、葉の出た当初から、実を着けている。小さくて、未熟で、食用には適しないが、実があることはある。つまり、主は実が成熟しているかどうかは問われない。葉だけを茂らせていることを断罪したもうたのである。

 今聞いている譬えでは「実を豊かに結ぶ」と言っておられる。だから「豊かな実でなくても良いのだ」と取ってはならない。しかし、その実とは何か、という問題がある上に、「豊かな実」は約束として語られていることであって、これを遂行すべき命令と取ったならば間違いになるという点に注目しなければならない。

 しかし、教会の中には、世間の企業の業績主義と同じものが蔓延って、目に見える業績を誇ったり、追い求めたり、大きい実りに慢心したり、成果の少ないことに恥じ恐れて卑屈になったりする歪みが起こることがある。当然、そこでは、恵みの約束は全く眼中にないし、この譬えの中心主題であるキリストとの交わりは完全に忘れられて行く。

 「私から離れては、あなた方は何一つ出来ない」。これは単純なことであるから、シッカリ身につけて置こう。キリストを慕っているが、彼との間は切り離されているという場合がある。譬えを用いるなら、舞台の上で芝居が行なわれ、観客がそれを見て感動している場合、劇の主人公との一体感を味わっているかのようであるが、その一体感は幻想なのである。劇場から出て行けば、多少の余韻が胸中に残ることはあるとしても、それだけのことである。

 あるいはまた、教室の中でキリストについて、またその言葉についての講義を聞いていることを譬えにしても良いであろう。キリストの語りたもうた御言葉に感動して、今、眼前で主が語っておられるように感じることがあったとしても、実際は主と離れており、向こう側に眺めている、という場合がクリスチャンの中に多いのではないか。思い起こした時には、主について行こうと発憤するが、その気持ちはなかなか続かないで、もとに戻ってしまう。同じ事が延々と繰り返される。

 それではいけないのだ。一生懸命に生きているとしても、キリストと距離を置いたところで懸命に生きるのは、努力としては大変なものであるとしても、実りはない。キリストから離れて、キリストから自立して、自分の力で最善のことを努めたとしても、葡萄の樹から離れた枝である以上、葡萄の実を結ぶことは決してない。

 葡萄の樹に結び付いた葡萄の枝になるとは、簡単に言えば、私が私のものでなくなり、キリストのものとなることであり、その変革である。学んで行くうちに少しずつ向上して、キリストに近い者になって行くということではない。ある時、一挙にその変化が起こる。「私におれ」と主キリストは言われるからである。

 「人が私に繋がっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれを掻き集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。

 キリスト者はキリストの命に与って生きるのであるから、謂わば送電線で常時電気を送られている町のように、送電線が切れると全ての火が消える。人の住んでいる町もさながら廃墟のように感じられる。

 キリスト者がキリストと離れてしまうならば、自然的人間としては生きているとしても、キリストにある真の命はない。それでは、さながら廃墟のようになった人間とは、神の前でそう見られるだけなのか、人前でもそう見られるのか。あるいは、同じことになるが、終わりの日に裁かれるのか。それとも、終わりの日を待たずに、この世でも焼き捨てられるのか。

 ここは議論の余地のあるところではあるが、地の塩の場合を考え併せることによって決着がつく。すなわち、塩は味を失ったなら、その時すでに意味を失っている。終わりの日を待たずとも、投げ捨てられる、と考えるのが正しいのではないか。

 キリストに結び付いて生きているのでなければ、地上の生命はなお続いているとしても、永遠の生命はない。そして、永遠の生命がないことは、直接には表れて来ないとしても、隠し通すことは出来ない。人の目からも、焼き捨てられるに価するものと見られるのである。

 そのように解釈する一つの有力な根拠は、すぐ次に出て来る。「あなた方が私に繋がっており、私の言葉があなた方に留まっているならば、何でも望むものを求めるが良い。そうすれば与えられるであろう」。この7節は次回に学ぶことになっており、今は簡単に触れるに止めるほかない。この祈りの勧めは遠い先のことについて語られたものではない。この世の命に関して言われた約束である。だから、「外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれを掻き集め、火に投げ入れて、焼いてしまう」との警告はこの世において行なわれる裁きを言うのである。

 我々がキリストに繋がっているということが、願望や期待でなく、現実であることが重要である。その現実が現実として捉えられていなければならない。では、どのように捉えているか。

 ここではその繋がりの理由説明はない。事実が事実であり、現実が現実である確かさの宣言が行なわれるだけである。だから、我々は理由がどうなっているかという説明に、ここでは触れないで置く。その理由について学ぶのは別の機会にゆずって良い。

 この教えを与えたもう時、主イエスが葡萄酒の杯、あるいは瓶を取り上げておられたのではないかと考える余地が大いにあることについて先にも触れた。確かな記録でないことを想像しているだけだから、十分控え目に扱わなければならないのであるが、それにしても、今日我々はこの礼拝の中で聖晩餐を執行するのであるから、今聖書から学ぶことと、聖晩餐の礼典で示されることが重なって来るのは当然である。これらを切り離して受け取れ、と言う方が危険である。

 それではどうなるか。葡萄酒が飲まれて、私の体に入って行くようにして、キリストが私におられ、私がキリストにおることが味わわれるのである。

 そういう感覚的なことを言われても十分納得できない、と言う人があれば、それでも良いであろう。我々は専ら御言葉の訓練を受けており、そういうような感覚的訓練は受けていないのだから、馴染まないのが当然である。

 しかし、7節で学ぶことであるが、「あなた方が私に繋がっており、私の言葉があなた方に留まっているならば」と言われる言葉は素直に聞かなければならない。キリストの言葉は私の内に留まっているのだ。その言葉が全てを示し、確信させてくれるであろう。

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