2003.05.18.

ヨハネ伝講解説教 第150回

――15:1-4によって――

 「私はまことの葡萄の樹」と主イエスは言われる。これは比喩を用いた説明のよう に聞こえるのであるが、単なる比喩以上のものとして捉えなければならない。「まこ との…」という言葉がそのことに思い至らせてくれる。

 私は命のパンである。私は甦りであり、命である。私は世の光りである。私は門で ある。私は道である。私は良き羊飼いである。等々の言い方で御自身を明らかにして 来られた、その言い方の一つである。

 「まことの葡萄の樹」という言い表わしは、「まこと」でない葡萄の樹との対比を 示している。例えば、葡萄の樹のように見えても、実はそうでない物がある。だが、 その程度のことを「まこと」と言ったのではない。

 また、「私は葡萄の樹のようなもの」、そして「あなた方は葡萄の枝のようなも の」、このようにして両者は互いに密着して生きるのだ、と言われただけでもない。

単に関係の深さを説明するための比喩というのではないということを読み取りたい。

 「あなたの命、あなたの存在は、全面的に私にあるのだ」と主は言われた。

 葡萄畑や葡萄、また葡萄の実から成った物が譬えとして、旧新約聖書によく出て来 ることを我々は知っている。ヨハネ伝では葡萄が引かれるのはここだけであるが、他 の福音書には、葡萄畑の譬えがよく使われている。旧約においてもそうであるが、葡 萄は一般的に神の祝福の象徴であり、神の祝福としてのイスラエルそのものを指して いる場合も多い。イザヤ書5章がその代表的な箇所であると見られる。その譬えの結 びのところで、預言者は「万軍の主の葡萄畑はイスラエルの家である」と言う。神は 喜びをもって葡萄を植えたもうたと言われている。

 葡萄の樹という名前そのものが、聞くだけでも慕わしい響きであったことは我々に も理解できるであろう。雨の余り降らない乾燥地帯において、葡萄は、この国に住む 我々が感じる以上の慕わしい果物である。葡萄の収穫の時期に山々にこだます喜びの 歌は、イスラエルの伝統的な祭りの歌としては採用されていないようであるが、実際 生活においては、仮庵の祭りと結び付いていたと考えられる。そこから、今日聞く教 えは、先に仮庵の祭りの中でなさった説教の続きが何かのことで紛れ込んだのだと説 明する人もいるようだが、そういう説には顧慮しないでおく。

 葡萄酒あるいは葡萄について、これまでヨハネ伝で聞く機会は一度だけあった。そ れは2章である。「イエスはこの最初の徴しをガリラヤのカナで行ない、その栄光を 顕された。そして、弟子たちはイエスを信じた」と書かれている。このカナの奇跡の 記事は、簡単に書かれているので、弟子たちがその時そこで見た徴しについて具体的 に捉えることは難しい。しかし、良質の葡萄酒が沢山出たのでみんなが大いに喜んだ というような他愛もない事件ではなかったであろうと推察出来る。そこでは主の栄光 が現われたのである。

 主イエスがこの時の葡萄酒の意味を語りたもうことはなかったかも知れないが、葡 萄酒の杯を共に飲むことの意味について、後で思い起こされる暗示的なことを何かな さったであろうと思われる。

 それはともかくとして、ヨハネ伝における最後の晩餐の場面で、葡萄酒の杯のこと は一言も出なかった。15章は食卓で葡萄酒を分けて飲む最後の機会であったのではな いか。そのような想像は決して不謹慎ではないであろう。目の前にある葡萄酒を見な がら、「私はまことの葡萄の樹」と言われたと考えた方がその場の情景が頭によく入 る。

 「葡萄の樹」と言うが、樹という言葉が用いられているわけではない。葡萄の樹は 樹木の仲間に入れて貰えないほどのなよなよとした樹である。建築材料にもならな い。細工物にもならない。樹木のない荒野に生活した人、例えばアブラハムのような 人は、マムレのテレビンの木や、シケムの所、モレのテレビンの木のような、目立っ た木の下に天幕を張るのを好んだ。亭々とそびえる樹木は荒野の民にとっても慕わし いのである。それと比べて、葡萄の樹は何と貧相であることか。しかし、その実の豊 かさは、あらゆる果実よりも優っていた。――イエス・キリストは大きい樹木よりも 丈の低い、見栄えのしない、それでいて人々の役に立つ葡萄の樹を好まれたようであ る。

 今日学ぶ比喩によく似た言い表わし、しかも、言い方が似ているというだけでな く、指し示す実質そのものが同じなのは、6章55-57節で聞いた主のお言葉である。

「私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を 飲む者は、私におり、私もまたその人におる。生ける父が私を遣わされ、また私が父 によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう」。――ここ にも「まことの」という同じ形容詞がある。また、「その人は私におり、私はまたそ の人におる」という言葉は、15章では4節の「私に繋がっておれ。そうすれば私はあ なた方に繋がっていよう」と訳されたのと同じ動詞である。

 主が「私の肉」、「私の血」と言われた時、聖晩餐との関連があったと我々は考え ずにはおられないが、今、そのことと「私はまことの葡萄」と言われたことが極めて 密接な関連を持つと考えると、葡萄についてのこの発言は、その場に葡萄酒があった ことを考えさせるキッカケにはなろう。

 さて、1節の後半に「私の父は農夫である」と言われる。これはイザヤ書5章にある 譬えまたマタイ伝21章などにある同類の譬えに結び付く。すなわち、神が労苦して葡 萄を植え育てたもうたのに、その葡萄は葡萄の実を結ばず、ほかの、無価値な、野葡 萄の実しかつけない。そこで、農夫はその葡萄を引き抜いて、葡萄畑を荒廃に任せ る。神は葡萄畑を審判したもう。ヨハネ伝の農夫は葡萄畑を裁くことはしない。

 2節で、「私に繋がっている枝で実を結ばないものは、父が全てこれを取り除き、 実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれを綺麗になさるので ある」と言われる。葡萄畑全体が神の怒りを引き起こし、捨てられるというのと規模 は違うが、葡萄の枝の一つ一つについて審判が始まる。

 実を結ぶか結ばないかが評価の分かれ目があり、枝を残すか切り捨てるかの判断の 分かれ目がある。キリストに繋がっているかどうかこそが肝心のところではないの か、と思われるかも知れない。たしかに、4節以下、「私に繋がって……」という所 で繋がると訳された言葉は大事である。これは「留まる」とか「残る」とか「おる」 と訳され、そこでは鍵になる言葉である。

 しかし、2節の「私に繋がっている枝で実を結ばぬものは……」と言われるところ には、この「留まる」、「残る」、「繋がる」という意味の動詞は使われていない。

だから、枯れ枝がただくっついているようなものもあったであろう。見た目にはくっ ついたように見える。名目はキリストの民と言われている。だがキリストの生命が 通っていない。それは切り捨てられる。

 では、実を結ばない枝とは、名前だけのクリスチャンのことなのか。そのように解 釈しても、必ずしも間違いではないと思うが、「実」とは何なのか。この譬えは先 ず、イスラエルの名を持ちながら、まことのイスラエルでない者たちのことを指すと 取るべきであろう。あるいは、血統から言えばアブラハムの子孫なのだが、信仰とし ては先祖の信仰を引き継いでいない人たちのことである。イスラエルはキリストの日 に備えて整えられているべき選びの民であった。彼らが実を結ばないのは、キリスト の時が到来しているのに、信じないことを言う。名前だけのイスラエルは捨てられる のである。

 ローマ書11章17節に、パウロによって語られたものであるが「ある枝が切り去られ て、野生のオリブであるあなたがそれに接がれ、うんぬん」と言われるくだりがあ る。オリブの樹にもとからある枝が良い実を結ばないので、その古い枝は切り落と し、他から取って来た枝をそこに接ぎ木したというのであって、イスラエルは切り捨 てられ、謂わば野生のオリブのような異邦人が、神の民としての地位を得たと言う。

初代のキリスト者はそう信じた。「私に繋がっている枝で実を結ばないものは、父が 全てこれを取り除きたもう」と言われたのも同じ主旨である。イスラエルは選ばれて いたけれども、実を結ばないので、捨てられ、こうして新しく選ばれた民が加えられ る。ただし、今日学ぶところには、新しい民が加えられるという言葉はない。

 「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをして、これを綺麗にな さる」。豊かに実を結ぶものはいよいよ豊かに実を結ぶのである。農夫の行なうこの 手入れ、また綺麗にするというのが何を言われたのか、当時の葡萄栽培の事情が分 かっていないので、具体的に言うことは出来ない。徒長枝を切り詰めるというような ことであろう。

 ところで、「実」とは何か。一般に、「実」というのは信仰の実、信仰から生じる 実、すなわち愛の行ないだという解釈が広く受け入れられている。それで、ここが愛 の業をいよいよ盛んならしめる励ましを語られたのであると解釈されるが、そう断定 出来るかどうかは疑問である。イスラエルが葡萄の樹あるいは葡萄園として用意され ていたのは、そういう実のためであったのか。イエス・キリストを信じる信仰のため であったと先ほど聞いたが、実とは行ないのことだと見なくても良いのではないか。

信仰から行ないという実が生じ、それが期待されることは事実であるが、信仰の実が 先ず信仰だということはもっと重要ではないだろうか。すなわち、ローマ書1章17節 が言うように「信仰より信仰へ」と取るのが、信仰の本筋ではないだろうか。

 「実」とはまた伝道の成果、信者を増やすことであるという解釈もあって、この解 釈も人気を博している。これも間違っているとは思えないが、強調し過ぎて単に人数 を増やすだけのことならば、それはこの世の規準に乗って、より有力な者になろうと しているに過ぎず、十字架を負って主のみあとに従う道は見えなくなってしまう。

 実とはだから、一般的に言って、キリストにある成長、キリストに向けての成長、 あるいは霊的成長が語られていると取るべきであろう。

 その実りを豊かにするために「綺麗にする」、つまり宗教的にいえば「潔める」と いう言葉であるが、農業用語として、実りを良くするための措置にも使われたのであ る。注目しなければならないのは、何によって潔くなるのかである。御霊によって か。そうではない。言葉によってである。「私があなた方に語った言葉によってあな た方はすでに潔い」と言われる通りである。

 したがって、信じたのち、父なる神によって潔くされて、なお進歩して行くべき者 と、御子御自身によって、すでに御言葉をとおして潔められている者とを類別してお られる。キリストが来られた時、彼と出会って信じたユダヤ人がいた。そういう人が 多いとは言えないが確かにいた。一方、キリストの言葉に導かれなければキリストを 信じることが出来ない人もいた。この類別は特に取り上げるほどの問題ではない。大 事なのは次にある。

 「あなた方は私が語った言葉によって既に潔くされている」この御言葉が大事であ る。ここから直ちに思い起こされるのは13章10節である。「イエスはシモン・ペテロ に言われた『すでに体を洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身が綺麗なの だ』」。すでに体を洗ったとは洗礼を受けたという意味である。一度、洗礼によって 罪が赦されたなら、洗礼を繰り返さなくても良い。しかし、悔い改めは繰り返さなけ ればならない。

 こんどは「私が語った言葉によってあなた方は既に潔くされている」と言われる。

潔くされているから、もう潔められる必要もないし、御言葉を聞かなくても良い、と いう意味ではないが、言葉によって潔められている。

 言葉による潔めとは、言葉による罪の赦しが与えられたことである。我々もその言 葉を聞いたのである。それが福音である。復活のイエス・キリストは、弟子たちに出 会って「あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪はその まま残るであろう」と言われた。これは使徒たちに罪の赦しの福音を全面的に委ねら れたことを明らかにする言葉であった。彼らは罪の赦しの福音を携えて全世界に出て 行くのであるから、本人自身も罪の赦しを受けているのである。

 潔めという言葉から、潔い性質のものに御霊の力によって変えられて行くのではな いかと考える人がいるかも知れない。確かに、御霊によって我々が変えられるという 面はある。しかし、主がここで言われるように、言葉による潔めから入って行かねば ならない。そうでないと混乱し、その混乱からなかなか抜け出せなくなる。罪の赦し の言葉を受けたことの確認から入らなければならない。

 つぎに4節、「私に繋がっていなさい。そうすれば、私はあなたと繋がっていよ う」と言われる。

 繋がるとは、留まること、おること、動かず離れずに密着すること、居続けること であり、深くまた固く結び付くことである。「私に留まっておれば、私はあなたのう ちにいてあげよう」と条件付きの約束の交渉と取られるかも知れないが、条件が求め られているのではない。主が私のうちに留まりたもうから、私も主の中に留まると解 釈するのは間違いではないが、言葉の意味としては少しズレると思う。ここでは私が キリストのうちにあるのと、キリストが私のうちにおられるのとが、また、という言 葉で結び付けられるのである。同格という言い方ではまだ問題があるが、同時的に確 認し、決断すべきである。

 それでは、こちら側が積極的にキリストのうちに入って行かなければ、いつまでも 深い意味の交わりには到達できないのか、というとそれも違う。我々に対する呼び掛 けを聞いたならば、それに応じる他ないではないか。そういう時が来るのである。

 私がキリストに留まり、キリストが私に留まる。これがヨハネ伝における中心的 メッセージである。これは最も平凡に言うならば、キリストを信じること、彼を受け 入れることである。留まるというのはその中に入り込んで行く内面的なことであると ともに、ひとたび決めたところにあくまで留まって志を変えない堅固さである。私の 側だけでそのように固着するのでなく、主も私に固着して下さる。

 このことの確認のために、主は御自身の体を私に差し出し、「取って食べよ」と言 われ、また御自身の血を示す葡萄酒の杯を差し出して、「皆この杯から飲め」と言わ れる。これを受けることによって、キリストわがうちにいますことが全く確かになる のだ。それゆえに、主を受ける我々は同時に己れ自身を主に向かって差し出すのであ る。

 「枝が葡萄の樹に繋がっていなければ、自分だけでは実を結ぶことが出来ないよう に、あなたがたも、私に繋がっていなければ実を結ぶことは出来ない」。葡萄の樹 は、樹としては最も弱く卑しい、貧弱なものであるが、そこから伸びている蔓や枝は もっと貧弱である。その枝自体では何も出来ない。幹から切り離されると見る見る枯 れて行く。しかし、それ自体としてはまったく無力であるとしても、幹に繋がってお れば見事な実を結ぶことが出来る。あなた方もそうなのだと言われる。

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