ヨハネ伝講解説教 第149回
――14:28-31によって――
30節で主イエスは、「私はもはや、あなた方に、多くを語るまい。この世の君が来 るからである」と言われる。彼は起こるべきことを悉く知っておられた。裁判に引き 行かれるために、大祭司の差し向けた捕っ手の一隊に逮捕される時刻が迫っている。
だから、長い時間を掛けて教えているわけには行かない、という意味である。そうい うわけで、続いて31節の終わりに、「立て、さあ、ここから出かけて行こう」という 主のお言葉が記されている。これは、最後の晩餐の席上でなされた訣別の教えが終 わったことを示すと受け取るほかない。ヨハネ伝の最後の食卓の記事はいま終わっ て、主イエスはここを出て、ゲツセマネに移ろうとしておられる。したがって、今日 学ぶところは、この夜の教えの最後の部分になるはずであった。
ところが、このあと、15章-16章と教えが長く続く。福音書記者は14章の終わりで 筆を止めたのに、他の人が書き加えたのか。しかし、この後を読むと、扱われている 主題から見ても、文章の特徴から見ても、別の人が書き足したとは思われない。
それでは、14章の終わりからどこへ飛んでいたのか。17章の初めであろうか。そこ にはこう書いてある、「これらのことを語り終えると、イエスは天を見上げて言われ た。うんぬん」。そこに繋がっていたのかも知れない。だが、もう一つ、18章の初め も似たような言葉になっている。「イエスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと 一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた」。こちらに続けた方が自然かも知れない。
こうなると、我々の頭は混乱して、知恵を絞っても決着が付けられない。
14章の終わりで一旦終わってゲツセマネの場面に移ったのに、福音書記者本人、ま たは他の誰かがその後になって書き足したのではないか、という単純な解釈では割り 切れないものが残る。「これらの言葉を語り終えると、うんぬん」という言い方が17 章でも18章でも繰り返されるところを見ると、ヨハネ伝の主の最後の教えは、一気に 書き上げられたのでなく、一旦締め括られたことが何度もあったことになる。
そのような切れ目が幾つもあることは、事実として認める他ない。だが、教えの内 容を読み取って行く時に、これらの段落を強調しても、殆ど意味がないということ に、読み進むうちにますます深く気付かせられる。そこで、31節の次に一つの区切り があるということ以上は深入りしないでおく。
さて、28節に入る、「『私は去って行くが、またあなた方の所に帰ってくる』と私 が言ったのを、あなた方は聞いている」。
「あなた方は私の行く所に来ることは出来ない」と13章33節で言われた。そこでは 去って行くことだけを言われたものである。「私は去って行くが、またあなた方の所 に帰ってくる」という言葉は、14章3節で聞いたものである。去るということと、 帰って来るということ、この二点を結び付けておられる。去ることについては13章33 節でも言われたが、14章12節で言われ、帰って来ることについては18節で言われた。
この後、16章5節以下と16節以下でもまた去って行くことに触れておられる。去って 行くこととまた来ることは結び付いているが、今は去って行くということについて繰 り返し教えられる。
今日、28節以下で学ぶのは、去って行くことの意味である。弟子たちは主と別れる 時が迫っていることを感じ取って、不安で切ない思いになっている。だから、彼らを 勇気づけるために、主が去って行かれることが、どういう意味のあることかを先ず教 える必要がある。先に14章2節で、私が去って行くのは、父のみもとに、あなた方の 行くべき場所を用意するためである、と教えたもうたが、今回は別の観点から教えた もう。
すなわち、次にこう言われる、「もし私を愛しているなら、私が父のみもとに行く のを喜んでくれるであろう」。私が去って行くことを、あなた方は自分自身のために 喜ぶだけでなく、私のためにも喜ばなければならないという主旨である。先に14章の 初めで見た、あなた方の行くべき場所を用意するために去って行くというのは、確か に大事な一面である。あなた方の救い、あなた方の栄光のために、私は去る、と言わ れたのだ。今度は、私自身のため、という意味である。
「もし、私を愛しているなら、私が父のみもとに行くのを喜んでくれるであろう。
父が私より大きい方であるからである」。
我々が、自分自身というところに力点を置くならば、自分の行くべき場所が天に用 意されることについて、喜ばずにはおられないであろう。キリストの死によって、天 の門が開かれ、天に永遠の住みかが用意されるのである。我々の救いに目を向けると 言ったが、決して間違ったことではない。それに目を向けない人が多すぎる。聖書を 読んでも、自分の救いから逸れた方向に関心を向ける人が多い。だが、主御自身の栄 光のために喜ばねばならないというもう面はもっと重要ではないか。
キリストの栄光を見落とさないために必要なのは、キリストへの愛であるというこ とは良く分かるであろう。主イエスを愛すべきである、と要求されていると理解して も良いであろうが、要求とか命令というよりも、我々が主を愛するのは当然なのだ。
それは、先に見たこと、主が我々のために場所を用意しに行かれることから手繰って 行くならば、ハッキリ見えて来る。
すなわち、キリストが我々の住む所を用意するために去って行かれたこと、それ は、我々のために命を捧げたもうたことであるが、それは我々を愛したもうからで あった。そのように、主から愛されたならば、我々も主を愛するのが当然ではない か。
その愛についてもう一つ触れて置かねばならないのは、21節以下でも聞いたことで あるが、「私の戒めを心に抱いてこれを守る者は、私を愛する者である」と言われて いるところである。主を愛する者は主の戒めを喜んで守るのである。
主が父のもとに行きたもうのを、我々が喜ばざるを得ないのは、「父は私より大き い方だからである」と説明される。主は大いなるものとして復帰されるのである。
御自身と父との関係を、大小の比較というたとえで説明された。確かに、イエス・ キリストはこの地上に来て、いと小さき者となり、小さき者とともに歩みたもうた。
これが大事な一点であることを我々は知っている。彼は弱き者の病を負い、ますます 小さき者になりたもうた。しかし、それが知るべき唯一のことではない。彼が大いな るお方であることも知らなければならない。
御父と御子の関係、これは遣わす方と遣わされる方の関係である。その限り、遣わ す父は大いなるもの、遣わされた御子は小さいものである。しかし、遣わされるの と、遣わすのとは逆であり、区別されるというだけのことではない。「父と私は一つ である」と言われ、区別は出来ないのである。だから、御子は御父と同じく大いなる 方である。遣わされて、地上に来ておられる限りでは、小さき者としてしか知られた まわなかったけれども、大いなる者でありたもうというもう一面を見落としてはなら ない。
キリストの死は、そのように見落とされ勝ちな一面、キリストの栄光を、見落とさ ないようにと注意を呼び起こす機会である。彼は大いなるお方のもとに行かれる。
キリストの死は十字架の死であって、最も低くなって下りたもうた方の、苦痛と汚 辱に満ちた最期として知られている。これも確かに大切な理解である。彼は低くなり たまい、最も低き人よりさらに低くなり、蔑まれる刑死人となりたもうた。この点は どんなに強調しても言い過ぎることにはならない。だが、もう一つの栄光の面を見落 とさないように心掛けなければならない。
これまで、再々注意を促されて来たことだが、ヨハネ伝では、キリストの受難と死 は、栄光を剥奪された者というよりも、大いなる者、栄光の地位への復帰、上昇とし て示されている。高く挙げられることなのである。彼は大いなる者のもとに昇り、大 いなる者として復権される。それ故、このことを喜ばなければならない。
彼が大いなるものとして、復活において御自身を顕したもうたことは、キリスト者 ならば、誰でも認めている。彼の決定的な偉大さを認めたくない人は復活を認めない し、復活の証言も拒否する。そうすると、人間イエスの苦難と死しか捉えられない。
その面だけ見ても感動的なので、信じたくない人々はそれで満足しきっている。そこ では永遠の生命も、信ずる者の甦りも、義とされることもなくなってしまう。確か に、これはキリスト教ではないが、そのことは今は問題にしない。
ヨハネ伝の受難の記事を学ぶのであるから、キリストの十字架の死が栄光であると 教えることを我々は素直に受け取らなければならない。確かに、ヨハネ伝で養われた 目で、他の福音書の受難の記事を読み直すなら、キリストの十字架の死が栄光の意味 を帯びていることが良く見えて来るであろう。十字架が敗北で、三日目の復活に至っ てやっと勝利が見えて来るというのでは、説明には役立つとしても、現実の信仰生活 を勝利者の生活として確立することは出来ないであろう。
「今、私はその事が起こらない先にあなた方に語った。それは、事が起こった時に あなた方が信じるためである」。
前もって知らせて置く必要があると主は言われる。後から説明を加えて、納得させ ることは出来る。しかし、先ず語られて、語られただけでは信じられなかったが、事 が起こった時、信仰が成立する。このことは13章19節でも教えられた。そちらの方が もっとハッキリしている。「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言っ ておく。いよいよ事が起こった時、私がそれであることを、あなた方が信じるためで ある」。14章の方で、あなた方が信じるため、と言われるところが、13章では「私が それであると信ずる」と言われる。何を信じるかがハッキリしている。
では、事が起こるとは何を言うのか。それは十字架の死という一点にだけ絞るので なくて、十字架から復活への一連の事件を一つの出来事として捉えて良い。しかし、 十字架の死それだけで我々を信じさせることは出来るのである。いや、信じさせるべ きである。十字架の死を見て、単に感動があるだけでなく、信ずべきであるとヨハネ 伝は描いているのである。すなわち、単にその死が如何に悲劇的であったか、その中 で主イエスが如何に毅然としておられたかを描くのみでなく、その点はむしろ簡略に 抑えて、聖書の預言の成就としてゴルゴタの場面を描く。
ヨハネ伝の十字架の記事、19章の39節には、他の福音書には見られない記事とし て、こういう言葉が書かれている。「それを見た者が証しをした。そしてその証しは 真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなあ た方も信ずるようになるためである」。事が起こった時、信じる、とはこういうこと なのだ。
30節に入って行く、「私はもはや、あなた方に多くを語るまい。この世の君が来る からである。だが、彼は私に対して何の力もない」。
時が迫って、この世の君が来るから、もう長い話しはしておられないのだ。ここで 終わらなければならない、と言われる。そう言われたのに、この後、なお二つの章に 亘ってかなり長い教えを語りたもうのはどういうことか。それには我々はうまく答え られないが、解決をつけなければならない難問とは思わない。
「この世の君」、これは通常、悪魔ないしサタンを指す言い方である。それでは、 サタンが間もなくここに来るというのか。ここで主イエスの言われたのは、ユダに案 内された捕っ手が間もなく私を逮捕するということで、18章3節から6節に亘って書か れている。ではユダがサタンなのか。主は6章31節で言われた。「あなた方12人を選 んだのは私ではなかったか。それだのに、あなた方のうちの一人は悪魔である」。
13章2節では、「夕食の時、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、 イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、………」と書かれていた。
ユダその人を悪魔と呼ぶのは、彼が悪魔の役割を演じているという意味であって、 悪魔そのものだと言うのではない。悪魔という呼び方がイスカリオテのユダ以外の人 に向けられたこともある。8章44節では、ユダヤ人、それも主イエスに対して好意的 なユダヤ人に、「あなた方は自分の父、すなわち、悪魔から出て来た者であって、そ の父の欲望通りを行なおうと思っている、うんぬん」と言われた。
ここで、ユダのなす裏切り行為が、悪魔の業と言われるのは、悪魔にしか出来ない 悪辣さや悪知恵を指している。人間にはここまで悪いことは出来ない。だから、13章 に悪魔がユダの心に計画を入れたのだと説明したのである。
「だが、彼は私に対して何の力もない」。大事なのはここからである。キリストの 死は悪魔への屈服ではなかったし、一時的にもせよ悪魔の攻撃に打ちのめされていた ということでもない。10章18節で、「誰かが私からそれを取り去るのではない。私が 自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、また、それを受ける 力もある」と言われた。キリストの御旨のままに彼の贖罪の御業が行なわれたのであ る。
それは「父がお命じになった通りのことを行なう」のだと言われる。父が命じ、子 が従うという点で、御子には意に反しても従わねばならない苦衷があったのではない かと受け取る人があろうが、ヨハネ伝を読む場合は、そういう読み込みはしない方が スッキリする。主イエスが「この杯を取り去りたまえ」と三度繰り返して祈り、最後 に「私の思いではなく、みこころがなるように」と祈られたゲツセマネの苦しみの場 面は、ヨハネ伝に書かれていない。その苦しみの祈りを考慮することによって、讀み を深くすることが出来るのは確かであるが、ヨハネ伝では十字架の死の栄光を強調し ているのであるから、その主旨を混乱させる読み方をしては拙いのである。
父がお命じになった通りに従う、と言われた服従は、奴隷が主人に服従するそれで はなく、子が父に従う従順であって、それ故にここでは父に対する愛が強調されるの である。奴隷的服従は恐れの服従であるが、子の服従は愛である。愛は悦ばしいので ある。父と私は一つ、と言われたのと、父の命じたもうたことを実行するというの と、必ずしも同じでないように感じられるかも知れないが、命じられ、従うのは、む しろ救いの成就されて行く秩序を示したものである。
最後に、「立て、ここから出掛けて行こう」と言われる。ここには暗い影はもはや 何もない。苦難はなお続いて行くが、謂わば凱歌が奏され始めるのである。
マルコ伝の14章41節から42節に掛けて、「時が来た。見よ、人の子は罪人らの手に 渡されるのだ。立て、さあ行こう」と語られたのと同じ調子を読み取ることが出来る であろう。雄々しい、晴れ晴れとした、勝利の響きがある。その勝利の中に我々も加 えられるのである。