2003.05.04.

ヨハネ伝講解説教 第148回

――14:25-27によって――

 今や、主イエスの告別の教えのうち、最も重要な箇所に差し掛かった。聖霊が与え られるという約束を学ぶのである。

  「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである」。その通 りである。弟子たちが召された初めの時から今まで、イスカリオテのユダが去って 行った後についてだけ見ても、主は次々と教えて来られた。しかし、全く新しい教え と言えるほどのものは、この夜、ここまでには語られていなかった。それらはこれま での教えのただの繰り返しとは言えない。これまでに聞いた以上に心に沁みるお言葉 であった。だが、全く新しいものではなかった。

  「これらのこと」と主イエスが言われるのは、特に今語りつつある御言葉をさした ものと見て良い。それは、主なき後の弟子たちの心細さを慰め、励ます言葉である。

 後で学ぶ27節の言葉にそのことが良く示されている。

  「あなたがたと一緒にいた時」と言われるのは、ヨルダンの向こうのベタニヤ、バ プテスマのヨハネのところで、ヨハネの言葉に促されて弟子たちが来て出会って以 来、共に歩んだ日々を指す。その時どういう教えを語っておられたか、ヨハネ伝では ついぞ読まなかったではないか。ヨハネの福音書では、主が特別な機会に出会った特 定の人々、すなわち、対立的なパリサイ人や、接近して来たが去って行ったニコデモ や、サマリヤの女などに教えたもうたことは記されているが、弟子たちに教えを授け たもうた記録は余りなかった。しかし、弟子たちに対する教育を重んじておられたこ とは確かである。それについては共観福音書によって知ることが出来るのである。

  その時に言っておられたことが、最後の夜に、うんと凝縮した形で示されたのであ る。教えは繰り返されていた。

  すでに聞いたとはいえ、もう良く分かっているから、これ以上聞かなくても良い、 と言ってはならない。繰り返し聞くべきである。救いに必要な教えは、そう多くの項 目に亘るものでないことを我々も知っている。それを反復して聞くのである。我々が 世界を知り尽くそうとしたならば、生涯を通じて学び続けても、まだ見ていない所が 沢山残る。それならば、救いに関しては、まだ門口にも達しないうちに世を去らなけ ればならないということになるのか。

  確かに、我々は生涯を通じて歩き続けたとしても、救いについて学び尽くせない。

 では、御国に入ることは出来ないのか。そうではない。救いはこちらから到達するも のでなく、向こうから来るものだからである。自らの達し得たところが極めて低い水 準である現状に悲観する必要はない。

  もう一つ見て置かねばならないのは、我々が生涯に亘って学ぶべき救いの道は単純 だということである。その単純なことを繰り返し学ぶのである。繰り返せばそれだけ 学びは深くなるのであって、無駄に繰り返すのでないことは分かっているが、まだ初 歩的なところを歩んでいる。そうであるとしても、目標に全く遠いということではな い。すなわち、捉えられているという面から言えば、すでに捉えられたという確信が ある。しかし、繰り返して学ぶことは大切である。

  では、そのような教えをシッカリ捉えれば良いのか。そうでないという事実に気付 かねばならない。教えを受け、それを保つことは必要であるが、もう一つ、聖霊を賜 るということがなければならない。

  教えの学びは一生懸命にしているし、自分でも相当進歩したつもりでいるが、全く 空しい状態にいる場合があるということを、我々は主イエスのパリサイ人批判のうち に容易に読み取ることが出来る。そこから、さらに踏み込んで、我々は自己自身を顧 み、自分もパリサイ人と同じく、学びは多少人より真面目にやって来ているが、思い 上がりや思い込みが強くなっているだけで、葉ばかり茂る無花果の木のようになって いるのではないか、と反省しなければならない。

  その状態から脱出する決定的な道が今日教えられる。御霊を賜るということであ る。教えが与えられて、それを繰り返し学ぶことと、聖霊が教えることとは、謂わば 車の両輪のように、二つで一組である。聖霊を受けたから教えは要らないと言っては ならないし、教えを深めたから聖霊は要らない、あるいは聖霊を与えられる事実を、 事実としてでなく一種の教え、学び事にしてしまってもならない。

  26節にこう言われる。「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされ る聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを、ことごとく 思い起こさせるであろう」。

  この1節に、学ぶべき多くのことがギッシリ詰め込まれている。少しずつ噛み砕い て行けば良いのではあるが、25節と26節を対比させながら読むことは大事である。す なわち、教えられることと、御霊を受けることである。

  「助け主」については、14章16-17節ですでに語られた。「私は父にお願いしよ う。父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さる。それは真 理の御霊である」。――「私は去って行くが、私の去った後、父は別の助け主、すな わち、私が助け主であるように、私の代わりのもう一人の助け主を派遣して下さる。

 つまり真理の御霊である。私が真理であるのと同じく、御霊が真理として来て、私は 去って行くけれども、御霊はいつまでもあなた方と共に留まるのである」と言われ た。その教えとかなり重複した部分があるが、新しいことも語られる。すなわち、 「父が私の名によって遣わされる聖霊」と言われる。

  「助け主」とは力を与えて助けるお方と言う一般的な言葉であるが、教会の中で使 われるのは聖霊についてだけ言われるものになっている。しかし、14章16節で「別に 助け主を」と言われるように、キリストも助け主、聖霊も助け主と呼ぶことが出来 る。

  聖霊についてもこれまで教えはあった。しかし、最後の教えの中でこれまでになく 詳しく教えられている。時が来ないと教えても意味が余りないのである。このことを 暗示する言葉として、7章39節には、「これはイエスを信じる人々が受けようとして いる御霊を指して言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられな かったので、御霊がまだ下っていなかったのである」と注釈している。

  さて、聖霊の降臨であるが、聖霊がどこかに定まりなく拡散し、あるいは漂ってい るのを、呼び寄せるということではない。父が御自身のみもとから遣わしたもうので ある。それは、父が子を遣わしたもうたのと並行した「派遣」として理解すべきであ る。遣わすということは、ヨハネ伝では非常に重要な言葉で、キリストも遣わされ、 御霊も遣わされ、弟子たちも遣わされる故に使徒と呼ばれ、そして、我々信仰者も遣 わされた者として生きる。これらの派遣を結び付けて理解しなければならない。

  イエス・キリストについてユダヤ人は「あれは何者か」と言って、様々に議論し た。その中には好意的な見方をする人もおり敵対的な人もいたが、それらの人たちに 主がしきりに言われたのは、御自身が父から遣わされたということである。かれら は、このことを捉えなかった。人のことを批判してはおられない。クリスチャンと言 われる人たちの中に、聖霊について把握できていない人がいる。彼らは聖霊が約束に したがって派遣されたということを受け入れていないから分からない、分からない、 と言うのである。

  自分自身の生き方について分からないと感じる人も、自分がキリストに属する者と して遣わされたことを把握すれば、自分の生き方が決まる。――派遣というテーマは それまでにする。

  御子が肉体を持つ存在として父から遣わされたことは、誰の目でも見えたことで、 分かり易いと思われている。一方、聖霊が遣わされてきても、世はそれを見ることも 受けることもない。聖霊が遣わされることは分かり難いのだ。だから、御子が遣わさ れたことを把握して、それに基づいて聖霊の派遣を捉えるようにと我々は勧められ る。

  聖霊は見えないから、分かり難いと思われる反面、分かり易いと感じている人は必 ずしも少なくない。聖霊はどこにもいて、特定の方法で接近しなくても、それを感じ ることが出来ると思われているからである。そういうつかみどころのない物があるか もしれない。しかし、Iヨハネ4章1節が「全ての霊を信じることはしないで、それら の霊が神から出たものであるかどうか、試してみよ」と警告する通りである。ヨハネ がそこで「神から出たかどうか」と言うのは、その霊の品質というよりは、神から遣 わされたかどうかという意味であって、神から湧き出て来たとか、神性を帯びた物が 神から注がれて来るという意味ではない。

  譬えを引くなら、一つの国から他の国に、信任状を携えた大使が派遣されるよう に、父はハッキリした使命を帯びさせて、聖霊を遣わしたもう。ちょうど父が御子を 遣わされた場合と同様であると理解すれば良い。

  聖霊が限定された目的を持っておられる、と聞いて、意外な感じを受ける人がある かも知れない。聖霊は無限定に自由な働きをされるのではないかと言う人がいる。確 かに、御霊は我々人間の思いや、我々の理解によって枠にはめられるものではない。

 我々の思いを越えた御霊の自由な働きを信じなければならない。だが、聖霊が自由だ ということは、つかみどころがないという意味ではない。掴み所がないのを逆用し て、自分の好き放題に御霊の性格と働きを空想してはならない。御霊は父のもとから キリストの名によって遣わされるのだ。これは限定である。

  「私の名によって遣わされる聖霊」と言われる。先に引用したヨハネの第一の手紙 で、「イエスを告白しない霊は神からの霊ではない」と断言する通り、キリストの派 遣と聖霊の派遣は似ているだけでなく、独占的とも言うべき関係で相互に結び合って いる。そのことをこの26節では「私の名によって遣わされた」という言い方で表わ す。

  「私の名によって遣わす」とは、第一に、遣わされた者が私の名を帯びており、私 の使命を担い、私の言うことを言い、私のすることを私に代わってする、という意味 である。IIコリント3章17節で、「主は御霊である」と言い、18節で「霊なる主」と 言うところにこのことが端的に言い表されている。

  第二に、私の名によらなければ、聖霊は遣わされなかったという事情を見なければ ならない。我々がどんなに必要に迫られても、聖霊自身がその必要を嗅ぎ取って我々 のもとに来るわけではない。我々の主であるキリストが、父に願って下さる時、父は キリストの名のゆえに聖霊を派遣したもう。したがって、このことは、我々が聖霊の 派遣を求める時、キリストの名によって遣わしたまえ、と祈らなければならないこ と、また、その祈りもキリストの名によってなされることに結び付く。

  「聖霊はあなた方に全てのことを教える」。キリストが教えたもうた。聖霊はその 業を引き継いで教えたもう。聖霊は全てのことを教え、キリストが言われなかったこ とも補って下さるのか。そうではない。

  直ぐに続けて、「また私が話して置いたことを、ことごとく思い起こさせる」と言 われる。この「思い起こさせる」という点が重要である。教えを付け足すのでなく、 教えられたことを思い起こさせる。

  「思い起こさせる」という言葉を我々は過日、主イエス・キリストの受難を記念す る期間の中で何度か学んだ。「思い起こす」、「思い起こさせられる」、「記念す る」、という言葉は、救いそのものではないし、信ずることそのものでもないが、そ れらと極めて近い関係にある。主の晩餐のたびに「私の記念としてこのように行な え」と言われる。これは単に過去を偲ぶという程度のことではなかった。思い起こす という言葉の深い意味は、神が我々を思い起こしたもうことについて思いめぐらせる ならば、気付かせられる。

  私が話して置いたこと、それは謂わば心の底に埋もれていたのだ。ちょうど、畑の 中に宝が隠されているようなものであって、そこに宝があると分かったなら、人は全 財産をはたいてその畑を手に入れる。しかし、畑をせっかく手に入れても、宝を掘り 出さない人がいるかも知れない。

  キリストが話されたことは思い起こされ、生きた言葉となる。人間が聞き方に心す ることによって、それを生きた言葉にする、というのではない。聖霊がそれをなした もうのである。

  次の節に入る。「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与え る。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせる な、また怖じけるな」。

  これも慰めに満ちた言葉であることは言わなくても分かるであろう。「平安を残し て行く」という言葉が深遠で確実な響きを持つように感じない人はいないのではない か。

  「平安」とは「平和」といって良い言葉である。今日の世界の重苦しさの中で我々 がしきりに考えかつ憧れるのがこの平和である。

  主イエスがユダヤの慣習通り「シャローム、平安」と言う言葉を挨拶に使っておら れたことは確かである。復活の主は弟子に出会って、先ず「平安」と言われた。それ は復活の主が発したもう第一声として最も相応しい。しかし、死に赴きたもう主がや はり「シャローム」と挨拶された。「平安」を残して去って行かれるのは、「平安」 を携えて再来されるに劣らず感動的ではないだろうか。

  この夜、復活の朝と状況が違って、主は引き渡されたもう。十字架に向かいたも う。しかし、その際の別れの挨拶は「平安」であった。それは、「平安をあなた方に 残して私は去って行く」という意味である。私が悩みの中に入って行くから、あなた 方も私と一緒にしばらくは不安と苦痛を忍ぶべきだとは言われない。あなた方に残さ れるのは平安なのだ。

  二番目の言葉、「私の平安をあなた方に与える」は、あなた方に残されるのが真の 平和である理由はここにある、ということなのだ。すなわち、それは世の与える、あ るいはまた世が求めて夢見ている平和ではなく、私が残して行く平安だからである。

  「私が与えるのは、世が与えるようなものではない」。………キリストの平和はこ の世の平和と別物である。この世が描き出す平和がある。それを架空のもの、偽りの ものとして敵視することは要らない。世は平和がないことを嘆いて、それを喘ぎ求め ているのだ。彼らは平和を知らないから、知らないものをヤミクモに求めている。同 情したい。ただ、それに調子を合わせる必要はないのだ。我々は主の差し出したもう 平和の現実性を直視しよう。

  大事なことはこの点である。我々には主から平和が彼方の憧れの映像としてでな く、ここに現実に差し出されている。それは「私の平和」と呼ばれ、架空の理念では ない。

  それ故に、今日、主の死を記念する礼典において、我々は主の平安を目の当たり 見、それを確認するのである。

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