2003.04.06.

ヨハネ伝講解説教 第147回

――14:22-24によって――

 イスカリオテのユダでない方のユダ、この人の名前がヨハネ伝に出て来るのは、ここ14章22節だけである。主イエスは6章70節で、「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか」と言っておられるが、12弟子、あるいは「12人」と呼ばれる特別な一団がいた。その名前を列挙することを、ヨハネの福音書はしないが、イスカリオテのユダも、そうでない方のユダも、12弟子の一人であったことは確かである。

  イスカリオテでない方のユダについては、ルカ伝が「ヤコブの子ユダ」という呼び方で、6章16節に語っている。ルカはまた使徒行伝1章13節でこの名を挙げている。このユダの名前が挙がるのは以上であって、彼の口から出た言葉についてはヨハネ伝のここだけが記録していて、彼のした事については聖書のどこにも述べられていない。彼の人となりを捉える手がかりもない。

  マタイとマルコの福音書には、12弟子の名を挙げるところに、ヤコブの子ユダは出て来ない。その代わり、マタイ伝10章3節と、マルコ伝3章18節に「タダイ」という名前がある。このタダイがヤコブの子ユダのもう一つの名であることは間違いない。このタダイについても、我々は名前以上のことは何も知っていない。

  影が薄いと言えば、確かに、このユダは12弟子の中で最も影の薄い人物である。このユダは新約聖書の最後から一つ前の書、ユダ書の著者ではないかと見る人がいる。ユダ書の著者については、その書の初めに、「イエス・キリストの僕、またヤコブの兄弟であるユダ」と記されていて、そこから、ヤコブの兄弟ユダとは、ルカがヤコブの子ユダと呼んでいるのと同一人物ではないのかという説も唱えられている。さらに、そのヤコブはイエスの兄弟ヤコブと同一人物であり、ユダはその弟、したがって主イエスの弟ではないかという想像も生まれる。

  主イエスの弟が信仰者となり、教会の枢要な人物になったことは事実であるが、それは後日のことであって、ヨハネ伝7章5節には「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と書かれている。イエスの肉親が弟子団に加わることはこの時にはなかった。

  このように想像を拡げて行くことは出来るし、その想像は慎ましさを失わぬ限り許されると思うが、今日は想像の領域まで立ち入ることをしないで置く。ユダの言葉を聞くのでなく、主イエスの言葉を聞くことが大切だからである。主の御言葉の意味が何かを問うところで、ユダがどういう人であったかは、骨折って明らかにするほどのことではないように思う。

  ヨハネは「イスカリオテでない方のユダ」とだけ言っている。イスカリオテのユダとの混同は避けなければならない。イスカリオテのユダがこういうことを言ったなら、それは取り上げるに価しない、という含みがあるように思われる。だが、どうして他の弟子でなく、彼がここに登場するのか。それは分からない。

  ユダでなくても、誰もが考えつく疑問であった。「私たちには御自身を顕して下さるが、世には顕されない。それはどうしてか」。この疑問は、当然のこととして、世と、世から召し出され、分かたれた者との対比に導く。

  ところが、ここで主は「あなた方は世から分かたれた人々である。だから世とは違うのである」とは答えておられない。このような区分に当たることは、主イエスの言葉の中では「私を愛する」者、そして「私の言葉を守る」者と「私を愛さない」者、そして「私の言葉を守らない」者との対比として示される。

  ユダの疑問は誰にも分かるし、尤もなことと思われるのである。しかし、その疑問から何かが見えて来るかというと、意味あることは何も見えて来ない。我々と世との違い、それは確かに決定的なことであって、我々が世に埋没してしまったり、同化してしまったりしては、キリストに属する者である意味はなくなる。そういう点では我々と世との違いを意識する必要と意義は大いにある。

  「あなた御自身を私たちに顕そうとして、世には顕そうとされないのは何故か」。こういう問いは成り立つのである。しかし、意味がある問いなのか。全く無意味とは言えないであろうが、この大切な時にこの問いを先ず出して来ることは全く的外れである。

  我々、キリストに属する者、キリストから選ばれた者、キリストに随って行く者、キリストを信じる者、その者にキリストが御自身を顕したもう。そして、キリストを信じないし、キリストの後に随いて行くこともない者には、御自身を顕したまわない。こういう事実があり、それが何故起こるのかと問うことは出来る。我々にも出来るし、信仰を持たないこの世の人々にも出来る。

  「復活のキリストが現われたもうた」と弟子たちは言う。信仰者たちはみなそう言う。言うのは弟子だけである。世の人たちはそれを信じない。人はみな死んで世を去って行く。せいぜい思い出が残るだけだ。死人が復活して姿を顕すなどということはない、と言い切る。あなた方には顕されたかも知れないが、我々には顕されていないではないか、と彼らは言う。

  この世の人がそういうことを問うて来て、我々がそれになにがしかの説明をもって答えることは出来るし、その答えで問うた人が或る程度分かることはある。彼らを信仰の世界に引き入れることは出来ないとしても、少なくとも、我々が信じている事実を虚偽だとか妄想だと言って打ち消すことはしない。

  そこでは、信じる者と信じない者、世から選び分かたれた者と世、この両者の関係は平行線を辿るばかりだが、共存する。あるいは、信じる者と信じない者の「棲み分け」が出来て、衝突しないようになる。共存の理論付けもなされる。そういう現実がある。だが、そのことについて説明が出来るということに、どれほどの意味があるであろうか。それは信仰のない人の側でも了解することの出来る棲み分け理論である。

  そこに関心を持ち過ぎ、共存関係の説明ばかりしていて、どういう意味があるのか。今日の教会には、この時のユダの問いに自分で答えている理論造りが盛んになり過ぎているようである。

  ここにはまた、もう一つの問題が結び付く。ヨハネ伝の伝える事実の中で、我々に忘れ難い感銘を与えるものの一つに、最後の章に出て来る主イエスとペテロとの応酬がある。ペテロは主から、「私に従って来なさい」と言われ、その道を行くことが殉教の死に至ることも示され、それに全面的に同意した。しかしその直後、ペテロには主イエスの愛しておられる弟子が随いてくるのが気になった。そこで、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねる。

  この問いの中に何ら不従順や不満は含まれていないと見て良いであろう。自分は殉教の道を行く。それは自分として当然の事であって、全く異存はない。しかし、この人はどうなのか。彼も殉教するのか。それとも生き長らえるのか。――主イエスは「あなたに何の関わりがあるか。あなたは私に随いて来なさい」と答えたもう。ペテロは関係のないことに関心を持ったのである。

  ユダが「世には御自身を顕そうとされないのは何故ですか」と問うたのも、関わりのないことへの関心、好奇心である。

  主がそれに答えて、「もし誰でも私を愛するならば、私の言葉を守るであろう」と言われたのは、あらぬ方にそれていたユダの関心を然るべき方向に引き戻すものである。自分たちと世とを平行の位置に並べて、どちらにも分かる理論で違いを論じ、違いをお互い認め合おうとする。そういう論じ方が成り立たないわけではないが、同じ地平に引き下ろすことの出来ない、全く別の世界のことだという側面を忘れているのではないのか。

  こちらは、キリストを愛し、キリストの言葉を守る世界である。あちらの世は、キリストを愛してもいず、キリストの言葉を受けてもいないし、それを守ろうともしない。キリストが御自身を顕されるのは愛の世界のことなのだ。愛しても愛しなくても、真理は共通するのであるが、そうでない面もある。

  主の答えたもうたこの答えでは、もっと高い所に目を向けさせることにはなっても、ユダの問いに答えたことにならないではないか、との疑問が新しく生じるかも知れない。そう考えるのは適切でない。主は愛ということの中に答えがあると示しておられるのである。ただし、理論的な答えではなく、実践的な答えである。

  キリストを愛する者にキリストは御自身を顕したもう。ということは、キリストを愛する者は、愛が高まって行くうちに、キリストの姿が見えて来るということなのか。キリストの姿が顕されないのは愛が足りないからだということなのか。――これは不信仰な者の批判的な見解である。事実はどうであったか。

  例えば、パウロがキリストを愛しも信じもせず、むしろ、キリストを信じる者を地上から根絶させることが自分の使命だと信じて、迫害を実行するためにダマスコまで行った時、城門に行き着く前に、復活の主の栄光の姿を見て、打ちのめされた。それでは、愛はなくても良いのか。予め愛していることが条件になっているという意味では、確かにその必要はない。しかし、パウロがキリストを愛さなかったと理解してはならない。彼はキリストを愛して、その他の一切の物を糞土のように看倣したのである。キリストが示されることと、キリストを愛することとは結び付いている。

  こちらから愛さなくても、キリストから注がれる愛は豊かであるから、その愛に包まれて、彼を見ることが出来る、というならば、嘘ではない。しかし、そう語るだけで全てであると思うならば、嘘になる。絵に描いた餅であって、本物ソックリであっても、食欲をそそることまでするとしても、単なる観念であって現実ではない。

  キリストの恵みがどんなに慕わしく描かれたとしても、それで宗教的陶酔感を与えることさえしても、絵に描いた餅に過ぎない場合はある。そこには命も力もない。

  そこで主イエスは、御自身を愛するということを、さらに現実的に示すために、「私を愛する者は私の言葉を守る」と言われる。前回、私の戒めを守るという御言葉について学んだのであるが、今回学ぶ「言葉を守る」は同じことと取って良い。その戒めとは、互いに愛し合いなさいである。

  24節の初めに、「私を愛さない者は私の言葉を守らない」と言われるが、これは「私を愛する者は私の言葉を守る」という言葉を逆に言ったものである。「私を愛さない」、「私の言葉を守らない」、と「その人に私自身を顕さない」は連鎖をなすのである。

  「言葉を守る」は「戒めを守る」とちょっと違うと考えたい人がいるなら、そう考えても良い。戒めとしての言葉だけでなく、手足を使って実践すべき言葉だけでなく、思い巡らすべき教えの言葉、それを守ることを含めても支障は何もない。

  23節の後半は、「私の父はその人を愛し、また、私たちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と続く。

  キリストを愛する者は、キリストから愛される。これまで何回か注意を促されたことだが、ヨハネ伝のこの所で学んでいる愛は、相互関係の愛である。キリストは愛するに価しない我々を愛したもうたのではないか。その通りである。我々がキリストを愛して、彼の愛を勝ち取ったのではない。しかし、我々が愛さないで、キリストから愛されるままにしているということでないのは言うまでもない。我々が捧げる愛は、我々の受ける愛と比べて、余りにも貧しく、同格のものとして対応すると考えてはならない。しかし、キリストは御自身の愛の故に、我々の愛を受け入れ、御自身の愛に繋げて、一つの相互関係あるいは円環を作って下さる。

  こうして、父なる神が御子を愛し、御子が御父を愛するという最も基本的な円環が出来、この円環をモデルとして、我々と我々の主なる御子キリストとの愛の円環が出来る。そして、今度は我々の間で互いに愛し合うという円環を作って行く。

  この関係の中で、キリストの父である神と我々との愛の関係も当然成り立つ。私が父におり、父が私にいる、と言われたところから、当然、御子を愛することは御父を愛することになる。だからまた、御父は御子を愛する者を愛したもう。

  その次に、「私たちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と言われる。「私たち」と言われたのは、父と子である。御子を愛する者には御父と御子がともに住みたもう。それこそ窮極の祝福である。

  すでに旧約の昔から、神は人とともに住む日の来ることをさまざまの機会に約束しておられた。例えば、エゼキエルにエルサレムの宮の幻を示した時、神は言われた。「人の子よ、これは私の位のある所、私の足の裏の踏む所、私が永久にイスラエルの人々の中に住む所である」。43章7節の言葉である。

  この約束を受けて、ヨハネの黙示録21章3節は言う、「見よ、神の幕屋が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭い取って下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものがすでに過ぎ去ったからである」。これが、主によって「私たちはその人の所に行って、その人と一緒に住むであろう」と言われたことなのだ。

  旧約では神が人と共に住むと言われ、神と神の子が人と共に住むとは言っておられないが、すでに学んだ通り、父なる神と御子は一つなのである。だから、キリストと共にあるならば、それは神と共にあることである。キリストの民はキリストと共にあることについてシッカリ教えられている。キリストの言葉を守る人はキリストにあって生きる人である。それは遠い先のことではない。いや、先のことではなく、今のことである。

  24節の後半部分は御子が父なる神と一つであるという意味で言われたものであり、これまでにも再々聞いた言葉である。7章16節で「私の教えは私自身の教えでなく、私を遣わされた方の教えである」と言われた。14章10節でも、「私があなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて、御業をなさっているのである」と言われる。

  キリストは神の言葉であり、それを父なる神は地に遣わしたもうた。それゆえ、キリストの言葉を聞く者は神の言葉を聞いているのである。さらに、神の言葉を聞く者はそれに留まるのでなく、神と共に、またキリストと共に住まうのである。このことは我々についても言える。「信じる」と言っているだけでなく、神および御子と共に生きているという現実があることを捉えていなければならない。

  それを神秘的な体験のように考えてはならない。神とキリストを愛し、キリストの言葉を守り、その戒めを守る人に、神とキリストは共に住まいたもう。

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