2003.03.23.

ヨハネ伝講解説教 第146回

――14:21によって――

 「私の戒めを心に抱いてこれを守る者は、私を愛する者である。私を愛する者は私の父に愛されるであろう。私もその人を愛し、その人に私自身を現わすであろう」。

 この1節だけで一つの完結した教えであることは、読んで直ちに感じ取ることが出来る。だから、この節を深く読み取るならば、ここからだけで十分な知識と確信と豊かな霊の糧を受けることが出来る。

 しかし、同時に考えて置かねばならないのは、この御言葉を主イエスは前後の言葉と切り離して、教えたもうたのでないということである。21節が浮き上がっているように見られ、あるいは一節一節をバラバラに受け取られていては、この節の教えは十分捉えられないのである。

 第一に、先に教えたもうた御言葉との関係であるが、20節で「その日には、私は私の父におり、また、私があなた方におることが分かるであろう」と言われたことと続いている同じ教えである。

 同じことを別の面から言われたと見て良いのである。すなわち、20節では、御父と御子と信ずる我々との関係が説かれたのだと先に読み取ったのであるが、21節ではその関係の中味、あるいは実体が教えられる。

 譬えを借りるならば、教師が黒板に「御父」、「御子」、「信仰者」という字を三角形になるように配置し、その間の関係を説明するようなものである。それでよく分かった。しかし、それが分かっただけでは、頭の中の整理がついただけである。それは必要な学びであるが、それだけでは生きる力にならない。救いとは別の次元のことである。その中味、それを理解することが我々の生きる力である、そのことを悟るための教えを受け取らなければならない。それは愛である。愛の戒めである。

 次に、21節の教えと、その後の節に続く教えの関係であるが、いずれ先の節へと読み進んで行けば分かることであって、今詳しく述べる必要はない。簡単に触れて置くならば、二つのことがある。一つは、21節の教えの内容がその次にも繰り返される。もう一つ、ユダが問うている問い、「主よ、あなた御自身を私たちに現わそうとして、世には現わそうとされないのは何故ですか」という問いをいとぐちとして、信仰者とこの世との関係また違いが明らかになって来る。

 さて、「私の戒め」と言われるのは、このところ何度も聞いたように、13章34節-35節で与えたもうた戒めのことである。すなわち、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」との教えである。この戒めは15章12節でも繰り返される、「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。17節にも同じことが繰り返される。

 「私の戒め」と言われたのは、「父の戒め」と或る意味で区別し、対置しておられると受け取って良いであろう。父の戒めとは、一般的に言うならば、父がむかしモーセを通じて与えたもうた戒めである。そして、もう一面、父が私に与えた戒めという意味がある。このことを示している聖句が15章10節にあるので、そこを読んで置きたい。今日学ぶ14章21節と深い関わりのある言葉である。「もし私の戒めを守るならば、あなた方は私の愛のうちにおるのである。それは、私が私の父の戒めを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。キリスト御自身が父から戒めを受けておられ、その戒めを守って、祝福のうちにあられるように、キリストから戒めを受けた者らも、それを守るという位置にあって、この両者が対応するのである。

 使徒ヨハネは第一の手紙の2章7節で、「愛する者たちよ、私があなた方に書き送るのは、新しい戒めではなく、あなた方が初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなた方がすでに聞いた御言葉である」と語っているが、主イエスが「新しい戒め」と呼ばれたものは必ずしも新しい戒めとのみ呼ばれなければならないものではなく、むしろ、内容的には古い戒めであると解釈される。この解釈は正しい。

 つまり、簡単に言えば、旧約の戒めは新約の戒めでもあるということである。すなわち、旧約の戒めは、煎じ詰めれば、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛すること」、また「己れを愛するように隣人を愛すること」になる。このように、旧約の戒めを2項目に纏める解釈は、マルコ伝12章28節以下で主イエス御自身がしておられるものである。この戒めはキリストの来臨によって決して破棄されないということは、マタイ伝5章17節18節で教えたもうた通りである。

 しかし、これはまた新しい戒めである、とヨハネの手紙はすぐ続けて言う。それもヨハネの判断ではなく、主御自身「新しい戒め」と言っておられる。古い戒めとは区別されねばならない面がある。

 「新しい」と呼ばれる理由は2点あると思われる。一つは「私があなた方を愛したように」という点である。旧約でも神の愛は十分教えられていた。けれども、神が御子において明らかにされたような愛は示されなかった。すなわち、最後まで愛し通された愛、愛する者のために命を捨てるということを通して明らかにされた事実を踏まえている。

 また一つは「互いに」と言われた点である。相手が誰であっても愛さなければならないのは当然であるが、ここではそのことが命じられているのではない。互いに愛し合う関係、すなわち、愛の共同体としてのキリストの教会の建設に懸かっている。この2点は容易に読み取られる。

 だから、やや単純過ぎる分け方だと言うべきであるが、分かり易く言うならば、父の与えたもうた愛の戒めが適用されねばならない人類一般の共同体があって、その世界の中に、キリストの愛を知った者たちの共同体が始まるのである。キリストは「私は私の教会を建てよう」とマタイ伝16章18節で言われた。勿論、その教会はこの世から分離し、浮き上がってはいない。また、特権的な地位にあるわけでもない。この世に対して果たすべき使命を持っている。

 「私の戒めを心に抱いてこれを守る者」と言われる。「心に抱く」と訳された言葉の「心」という語は原文にはないから、この心ということに囚われる必要はないであろう。戒めを単に知っているというだけではなく、固く守るのであるから、当然、心に抱いているのである。奴隷が課せられた務めを強いられてするのと違って、内的な捉え方をしており、それ故、喜びをもって行なっているのである。

 また、戒めを守るとは、それを暗記しておれば良い、あるいは意味を弁えておれば良いというものではない。戒めには服従が対応するのであるから、戒めを従順に行なうことによって戒めは守られるのである。

 戒めという言葉が窮屈な印象を伴うという感じを持つ人は少なくないと思う。そのような印象が生じたのは、律法主義に対する厳しい批判が必要だったからであるが、本来、律法や戒めは喜ばしいものである。例えば、詩篇119篇の77節に、「あなたの掟はわが喜び」と歌われている。Iヨハネ5章3節に、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」と言っているように、愛と戒めは結び付いていて、戒めを守ることは神への喜ばしい愛である。

 戒めを「守る」ということに、拘束という意味はないということを捉えて置こう。「戒めを守る」という言い方は少し前の15節にも出ていた。そして、23節24節でも、「もし、誰でも私を愛するならば、私の言葉を守るであろう。そして、私の父はその人を愛し、また、私たちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。私を愛さない者は私の言葉を守らない。あなた方が聞いている言葉は、私の言葉ではなく私を遣わされた父の言葉である」。

 ヨハネ伝では、「言葉を守る」という言い方がこれまで何回かあった。例えば、8章51節、「よくよく言っておく。もし、人が私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。ここで言われた言葉を守るとは、約束の言葉を受け入れて、それを信じ続けることである。「守る」という言葉は、安息日を守るとか、羊飼いが羊の群を守るというようなところで使われる言葉であるが、ズッと守り続けるという意味であると取られる。

 「私の戒めを守る者は、私を愛する者である」は、戒めを行なうことが愛の実質であると言うのであろうか。そのように解釈して間違いではないと思うが、人間の知恵は隙間だらけであるから、誤謬の毒ウイルスが入り込む危険がある。例えば、愛の業が大事だと主張することによって、「信仰のみによって義とされる」という原理を埋没させる危険が大いにある。――勿論、その反面、「信仰の義」という旗印を掲げながら、愛の業を見落としてしまう間違いもあることを知らねばならない。

 だから、我々は人間の弱さ、愚かさをよく弁えて、御言葉の解釈を強引に主張することがないよう注意したいのであるが、今言われていることの実行によって問題が起こることはないと考えられる。

 「あなた方は互いに愛し合いなさい」との戒めは単純に実行して差し支えない。ここでは、どう解釈するかの問題はない。互いに愛し合いなさい、と実践的なことを言われるのであるから、その通り実行すれば良いのである。13章35節では、「それによってあなた方が私の弟子であることを全ての者が認めるであろう」と言われた。愛し合うことだけで、それ以上何か難しい条件を満たさなくても、私の弟子である証しは立つと言われるのである。

 そのように、戒めを守ることは愛の現われであり、したがって愛の証しであるが、今日は戒めと愛の結び付きが特に教えられていることを心に留めたい。私の戒めを行なうならば、その者は、私を愛する者である。私の戒めを守れば、それが私を愛することなのだ、と約束して下さる。

 互いに愛し合うということは肉的な、この世的な愛の場合にもあるのではないか。なるほど、主イエスは「あなた方は自分を愛する者を愛して何になるか。そういうことは取税人でもするではないか」と言われた。家族の間に互いの愛がある。それは麗しいと見られる場合があるが、露骨な排他的な利益追求の組織に容易に陥ってしまうものである。

 キリストの教会が自分たちの利益ばかりを求める団体になるとは考えられないかも知れない。だが、自分の利益確保をした上でなければ、他の人の利益のために奉仕しないという限界の中にはまり込み易いという場合があることなら分かるであろう。教会が仲間内で愛し合うが、外部の人に対しては攻撃的になるという場合もある。

 しかし、愛し合うとは、愛し合ったほうが都合が良いからそうするというのでなく、キリストの戒めへの服従としてあるのであり、またキリストが我々を愛してそのために命を捨てて下さったという事実とその力によって私のうちに現実化したものであるから、利益擁護の本能とは関係がない。屁理屈を言う人はいるとしても、我々のために命を捨てたもうたお方の戒めを守るときに、相互の利益を図り合うことが主の戒めだと曲解する人はまずいないであろう。Iヨハネ4章10節が言うように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある」。

 「私を愛する者は私の父に愛されるであろう」。これは、キリストを愛する者にキリストの父が報いを与えたもう、という意味ではない。愛の業の功績を父なる神が評価して、それに見合った報いを授けたもうということはない。すなわち、我々が己れ自身を顧みるならば、自分のなす業が、たとい良き業と言われるものであっても、神の前にとうてい立ち得るものでないことは分かるはずである。

 報いるに価しない業に、神はおそらく励ましという意味を込めて、「報い」と呼びたもう祝福を与えたもうのである。こうして、キリストの与えたもうた戒めに従う者に、愛をもって報いたもう。

 前回も20節で学んだ通り、御父と御子、御子と信仰者、そして信仰者同士の間には、愛し愛されるという関係がある。それにさらに加えて、父なる神とキリストの民の間にも、愛し愛される関係が成り立つ。これは図式として頭に入れるだけでは、頭に入ったとしても単なる観念があるだけである。

 それが観念でないことの証拠は、一つには、キリストへの愛がキリストの与えたもうた戒めの具体的な実行にあり、第二に、父が愛して下さることをキリストが確かな約束として教えたもうからである。

 ピリポが「主よ、私たちに父を示して下さい」と願ったことを先に8節で学んだ。父についてはもうかなり深く学ぶことが出来た。今度は実際に見せてもらいたい、と彼は言ったのである。その求めに対して主イエスは「私と父とは一つである」と教えたもうた。父なる神が見えなくても御子がいますから良いのだ、と答えてそれで全てであると言うのではない。

 「神を見た者は一人もいない」とヨハネ伝は1章18節で言う。だが、見えなくても良いのだから我慢せよと言うのでない。神を見ていなくても神から愛されていることの確かさは掴んでいるのである。

 「私もその人を愛し、その人に私自身を現わすであろう」。

 キリストを愛して、その戒めを守る者を、父は愛したもうが、キリストも愛したもう。これも、すでに見たように、報いを返すために愛したもうと取るべきではない。愛とは価なしに愛することである。主が先ず我々を愛したもう。主を愛するなら、その者を愛するに足る者と評価したもうというのでは全くない。

 「その人に私自身を現わすであろう」。「現わす」とは姿を現わすことである。この言葉は聖書には余り多く使われていないが、同じ意味の語はしばしば語られる。これは、復活の主が弟子たちに現われたもうた事実を言うものと思われる。主は甦りたもうただけでなく、御自身を信ずる者に現わしたもうた。キリストの復活が信ずる者の心の中で起こったとか、キリストが信ずる者の心の中でいつまでも生き続けたもうということとすり替えてはならない。復活者と信仰者が同一化するのでなく、彼は弟子たちと対面したもうのである。

 その後の時代の信仰者には、肉の目では見えなかったかも知れないが、霊的にはありありと示され、対面し、確認されたもうたことであり、それが復活して生きていますことの現われである。意味から言えば、主を見るのと同じである。主を思うのではない。主が現われたもうのである。

    

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