ヨハネ伝講解説教 第145回
――14:20によって――
「その日には、私は私の父におり、あなた方は私におり、また私があなた方におることが、分かるであろう」。これは簡単な言葉で表明された重要な宣言である。簡単な言葉で語られたために、分かったという感じになって、本当の意味を問うことを止めてしまうような手抜きをしないようにしたい。
「その日」に実現することはこれだと語っておられる。「その日」とは、18節で「あなた方の所に帰って来る」と言っておられるその再来の日であろうか。それは、少し後の16章16節で、「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし、またしばらくすれば、私に会えるであろう」と言われる、そのしばらくの後に会う日である。――それは、暫く別れていたがまた会うことになる、という孤立からの回復だけでなく、「来る」という言葉の含みから言って、窮極の成就の日である。18節ではそういうことを学んだ。
帰って来ると言われる前に、16節では別に助け主を送る、と言われた。助け主の来臨の日かも知れない。これも完成という意味を伴っている。
「その日」という言葉が旧約聖書の中に、預言者の、将来に向かっての言葉の中に、しばしば重要な意味を帯びて登場することを我々は思い起こす。その日とは、その前に話して置いたことを受けて、「今言っていたその日」という意味ではあるが、その含みから見れば、終わりの日を指すことが多い。例えば、イザヤ書2章11節、12節、「その日には、目を上げて高ぶる者は低くせられ、奢る者は屈められ、主のみ高く挙げられる。これは、万軍の主の一日があって、全て誇る者と高ぶる者、全て己れを高くする者と、得意な者とに臨むのである」。その日、万軍の主の日、高ぶる者は低められ、低き者は高められ、逆転が起こる。………審判である。
もう少し実例を挙げて見よう。イザヤ書10章20節以下、「その日には、イスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者に頼らず、真心をもってイスラエルの聖者、主に頼り、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る」。その日は救いの日である。残りの者が帰って来る。「残りの者」という言葉については、今日は詳しく述べないが、救われる者という含みが濃厚に込められている言葉である。そして、それが帰って来る。帰って来るとは、散らされた先から祝福の位置に戻って来ることであるとともに、帰るとは立ち返り、つまり悔い改めの意味を含むのである。
あと一箇所だけ引いておこう。イザヤ書11章10節、「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」。エッサイの根である約束のメシヤが来臨するのが、「その日」なのである。ここに至って「その日」という言葉があかあかと輝き出るのである。
旧約から新約に目を向ければ、例えば、マルコ伝13章の終末の預言の中に、「その日には、身重の女と、乳飲み子を持つ女は不幸である。……その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起こる。……その日には、この患難の後、日は暗くなり、月は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。その時、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」。まさに終末論の語彙である。
「その日」という言葉自体は前に語られた何かの日を指すだけであって、日常の話しの中で使って知っている通り、その言葉に固有な意味があると見ることは出来ないであろう。しかし、神の民の歴史の中で、預言者たちはこの言葉の用いられる文脈の前例を作って来た。そのような経過があるために、「その日」という言葉を聞くと、預言者的な言葉遣いだと考える習慣がついたと言って良いほどである。
今、主イエスが弟子たちとの訣別の説教の中で使っておられる「その日」は、かつて預言者たちが語っていたのと同じ意味、同じ重さのもの、それの目指した目標そのものである。それが、しばらくの後に成就すると言っておられる。
では、「その日」という言葉で主が指しておられるのは、どの日のことであろうか。これは、先に19節で、「暫くすれば、世はもはや私を見なくなるが、あなた方は私を見る」と言われた、その見る日である。これは、16章16節で、「暫くすればあなた方はもう私を見なくなる。しかし、また暫くすれば私に会えるであろう」と言われたことと同じ日を指したものと思われる。
それは何の日か。その日についてこれまで教えられたことは、あなた方は私を見る、あるいは私に会う、ということ。それは3節で、場所の用意が出来たなら、また来ると言われ、18節で「あなた方の所に帰って来る」と言われること。彼の再来、復活、これが第一である。第二に、そしてこちらにより大きい力点が置かれたように思われるのであるが、16、17節で言われた御霊の派遣、聖霊降臨である。この2点が満たされるのは、キリストが復活し、御霊が下るときである。
御霊の到来については、二度目に語られた時、すなわち、少し先になるが14章25節から26節に、「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」と言われる。その日に分かるであろうと言われることの実質がある。
その次に御霊の降臨に触れておられるのは15章26節であるが、真理の御霊による証しが語られる。その次は、16章7節から11節までと、12節以下である。「真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう」と言われ、また、「御霊は私のものを受けて、それをあなた方に知らせる」と言われることも今日の聖句と符合すると言って良いであろう。
さて、10章21節で、「私の業を信じるが良い。そうすれば、父が私におり、また私が父におることを知って悟るであろう」と言われたのと同じ言い方がこの20節で用いられる。さらにその少し前、14節15節で、「私は良い羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊はまた私を知っている。それはちょうど、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」と言われたのと、言葉は違うが内容的に極めて近いのである。
主がここで言っておられる第一の点は、父、私、あなた方の関係であり、それは彼の教えの核心部分、その最も奥深いところ、奥義である。第二の点は「分かる」という言葉にこめられている。その日に分かるのである。
「私は私の父におる」と言われるが、ここには「おる」という意味の言葉は使われていない。直訳すれば、「その日、あなた方は知るであろう。私は私の父に、あなた方は私に、そして私はあなた方に、ということを」。
キリストが父のもとに行かれることは、12節の言う通り確かであるし、10節で「私が父におり、父が私のうちにおられる」と言われたのもその通りである。だが、私がどこに行き、どこにおるかを、今この20節で言おうとされたのではない。キリストの存在がどこか、ということではなく、またキリストの御業が何であるかでもなく、彼の関わる関係がどうか、ということが教えられる。彼と父なる神との関係、また、彼と彼を信ずる我々との関係である。
彼がどこに行き、どこにおられるかということについて、今日与えられている聖句は特に語っていない。彼のおられる所は我々が常々告白している通りであって、天に昇って父の右に座し、我々のために常に看り執したもうている。また、告白の伝統的形式とはされていないが、「私は世の終わりまで、つねに、あなた方と共にある」と約束されたことが、真実であり・事実であると我々は確認している。
彼が我々のために如何なる業をされたか、またしておられるか、この後はどうなるか。これについても我々は教えられたしまた経験して知っている。17章4節では、「私は私にさせるためにお授けになった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を顕しました」と言われる通り、地上で果たすべき御業は完遂したもうたのである。羊飼いが羊を率いて、草のあるところ水のあるところに連れて行って養うように、キリストは我々を支配して生かしたもう。また、彼は良き羊飼いが羊のために命を捨てるように、我々のためにひとたび命を捨てて下さった。このことは教えられて分かったものと看倣して良いから、今日はふれない。
その日はしばらく後に来ると言っておられる。御霊が信ずる者に下る日に、このことが実現するのである。これは16章25節で語っておられることとかなり重なっている。「私はこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに父のことをあなた方に話して聞かせる時が来るであろう」。これを聞いて弟子たちは、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません」と応答しているが、31節以下で見られるように、本当は分かっていないことを主は見ておられる。彼らの分かるのはもう少し先である。
今日、20節で学ぶのは、先ず父なる神と御子キリストとの関係である。「その日にあなた方はこのことを悟るであろう」と言われることの内容を、弟子たちはこれまで教えられている。しかし、まだ悟っていない。ちょうど9節でピリポに向かって、「こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのである」と言っておられるところで示されるように、一緒にいても分かっていなかったことである。知るべきことは知らされているが、悟っていないのである。
先に10章30節で「私と父とは一つである」と教えたもうたが、今日学ぶのもそれとほぼ同じである。また、14章9節で「私を見た者は父を見たのである」と言われたが、それも同じである。教えられていたが、分かっていなかった。それが、その日には分かるようになるのだと言われる。
分かっているつもりで、分かっていなかったことが、本当に分かるようになる。そうなるのがその日である。
「私は私の父に」と言われる。では、その逆に、「父は私におられる」と言えるのか。それは言える。大きいものの中に小さいものは包み込まれるが、小さいものの中に大きいものは包み込まれない、という意味ではない。この節の後半に、「あなた方は私におり、私はあなたがたにおる」と言われるのと同じように、「私は父に、父は私に」と言えるのである。それが簡略化されているのは、後半に重点があるからではないかと推定されるのである。
後半では、「あなた方が私におり、私があなた方におる」と、キリストと我々信仰者との結び付きが丁寧に語られる。「父と私は一つである」という言葉で言い表されるような結合が「あなた方は私におり、私はあなた方におる」ということなのだが、これはキリスト教信仰の真髄であって、別の言葉で言えば、IIコリント5章17節の「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全ては新しくなった」である。
ヨハネ伝では、キリストとの交わりについては、これまでこのことはそう頻繁には教えられてはいない。これに近いことを言われたのは6章56節である。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人におる」。
「私の肉を食べ、私の血を飲む」とは、キリストに与って生きることの具体化された象徴であり、キリスト教会においては、聖なる晩餐の礼典の中で確認されていることがらである。
ヨハネ伝15章4節では、「私に留まっておれ、私もあなた方に留まっていよう。枝が葡萄の木に留まっていなければ、自分だけでは実を結ぶことが出来ないように、あなた方も私に留まっていなければ、実を結ぶことは出来ない。私は葡萄の木、あなた方はその枝である」うんぬんと言われる。これも似た教えである。
キリストから素晴らしい教えを聞いて感銘を受け、深く理解することや、彼のみあとに従って行くことが大事であるのは言うまでもないが、キリストは単なる教師、牧者、指導者であるのみならず、私の命の源であられる。私が彼にあって生き、彼が私にあって生きたもうその命を生きなければならない。
良き羊飼いが羊を導き養うように、主イエス・キリストが我々を導き養いたもうと理解するのは有益なことであり、ここからさらに良き羊飼いは羊のために命を捨てることも確認しなければならない。しかし、この譬えはそこまでしか深入りすることは出来ない。羊飼いと羊とが一体となって生きるというような譬えは奇妙なもので、真髄を表し切れないであろう。
かつては比喩で話したが、もはや比喩では語らない時が来ると主が16章25節以下で教えられることに先ほど触れたが、比喩によらないで理解に達するようにしなければならない。その日が間もなく来る。すなわち、譬えや比喩によらず、御霊によって悟りに達するのである。
さて、父なる神とキリストとの関係が教えられる時、キリストと我々との関係が結び付くことに留意したい。「私がキリストにあって、また私がキリストにあって生きる」ことが我々の信仰の踏み込まなければならない境地であるが、主にあって生きるということが内面で自己満足しているだけの境地になってはならない。
キリストと私との関係はつねに父と御子キリストとの関係と結び付いている。先に6章56節の御言葉、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私におり、私もまたその人におる」を聞いたのであるが、この御言葉は次の御言葉に続いているのである。「生ける父が私を遣わされ、また、私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう」。
言い換えれば、私とキリストとの命の交わりを成り立たせているのは、父と御子との交わりなのである。つまり、父と御子の交わりが救いの根源なのである。交わりと言ったことは愛と言い表したなら、もっとハッキリするかも知れない。15章9節、「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである。私の愛のうちにいなさい」。だから、我々はその根源にまで深入りしなければならない。そこをシッカリ把握しないならば、救いの確かさは掴めない。
20節の聖句からハミ出すことになるが、ひとこと触れておいて良いと思われるのは、御父と御子の交わり、あるいは父と御子の相互の愛の輪、御子と信ずる者の交わり、あるいは御子と我々との間の愛の輪、それに繋げて捉えて置かなければならないのは、信仰者同士の交わり、相互の愛の輪、すなわち、主イエスが「私は新しい戒めをあなた方に与える。あなた方は愛し合いなさい」と命じられた交わりである。この三つの輪が繋がらなければ命と力は湧き出ないのである。