2003.03.09.

ヨハネ伝講解説教 第144

――14:によって――

 「私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方の所に帰って来る」。これが告別の説教の一節だということを我々は良く弁えている。この時の話しの全体に、訣別の意義が様々の形で説かれている。先に1節で、弟子一同に「あなた方は、心を騒がせるな」と言われたのも、前の章の36節で、ペテロに「あなた方は私の行くところに今はついてくることが出来ない」と言われたのも、この章の27節で、「私は平安をあなた方に残して行く」と言われるのも、全て、今別れることに関して語られた言葉である。こうして、16章の初めでは、「私がこれらのことを語ったのは、あなた方が躓くことのないためである」と教えたもう。

 「孤児とはしない」という比喩を借りた言い方も、訣別の後の状態についての信仰の勧めである。あなた方は孤児になるのではないのだ。――「孤児」という言葉は、当時の意味では、父親に死に別れた子で、母親が死んだ場合はそう言わなかったようであるが、譬えであるから、両親に死に別れたと取った方が分かり易い。これは捨て子ではない。親から勘当された子でもない。親たちはその子を愛していたに違いない。しかし、親たちが残された子のために、どんなに心を砕いていたとしても、死が親たちを拉し去った。この断ち切られた状態はもとに戻せない。子たちは去って行った親を思い出の中に呼び起こすことが出来るだけである。

 主が残される弟子たちのことをどんなに心に掛けて下さっても、そしてそれが弟子たちに良く分かっていても、弟子たちにとって主は思い出の彼方にしかいたまわないのであろうか。そうではない。あなた方は孤児のようになるのではないのだ、と言われるのである。先には助け主が送られて来ると言われた。今度は、私が帰って来ると言われる。

 あなた方の私に対する関係は、振り返って、在りし日を懐かしむという、孤児が亡き父母を偲ぶような関係ではないのだ、と主は言われる。「私はあなた方の所に帰って来る」からである。

 「帰って来る」とは、どの事実を指すのであろうか。先にも、3節で「場所の用意が出来たならばまた来る」と言われたが、それは、いつのことか。幾通りかの答えが考えられる。

 復活の日のことであろうか。直ぐに続く19節で「もう暫くしたら、世はもはや私を見なくなるであろう。しかし、あなた方は私を見る」と言われるのは、復活を指すと取るのが最も自然な解釈かも知れない。具体的な出来事を取り上げるならば、20章の19節である。「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めていると、イエスが入って来て、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手と脇とを彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれている。

 こういうことが、8日の後にまた繰り返されたことを、同じ章の26節は言う。復活の当日そこに居合わせなかったトマスも、主と出会う機会が得られた。「8日の後、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスが入って来られ、中に立って『安かれ』と言われた」。

 21章の初めには、またこう書いてある。「そののち、イエスはテベリヤの海辺で御自身をまた弟子たちに顕された」。これが三度目である。「帰って来る」とはこの三度の出来事を指すのであろうか。一応分かるが、十分には納得が行かない。

 次に、「あなた方の所へ帰って来る」とは、御霊においてキリストが来たりたもう、という意味で約束されたことかも知れない。これも考えてみなければならない解釈である。――上に述べた解釈で見た通り、確かに、弟子たちは主を再び見た。だが、ここでも二つ問題があるのではないか。

 第一に、主は弟子のところに来られたが、ちょっと会った顕現であってまた去って行かれた。しかも、去って行かれた次第は、使徒行伝の初めの所に書かれているように、キチンとした再来ではない。使徒行伝に書かれているところでは、御使いが来て主はもうおられないと宣言する。去って行かれたことが具体的に語られていないならば、見えていたのが見えなくなっただけで、来られたことも、現われただけに過ぎず、帰って来られたということではないかも知れない。

 第二に、弟子たちより遥か後の時代に生きる我々にとってはどうかという問題がある。弟子たちが事実を見て証ししてくれたことを、我々は真実として受け入れているが、それだけで満足すべきか。信ずるなら、見なくても見たのと同じだ、ということは確かである。それでも、ここで言われたことがそれだと言い切れるかどうか、疑問が残る。そこで、我々にも当てはまるようにと、助け主、御霊が遣わされて来たから、我々は御霊において主を見る、ということが約束されているとも考えられる。

 また、黙示録320節をここで思い起こす人もあろう。ラオデキヤの教会に言われる、「見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう」。これは教会で行なわれる聖晩餐と結び付けて理解されることである。ヨハネ福音書の1418節がそこまで語っているかどうか、我々の愚かな知恵では、確定的なことは言えない。しかし、無関係でないと言うことは許されるであろう。

 さらに、この来臨は、終わりの日の再臨のことだという解釈もある。これはヨハネの言葉遣いから見て、かなり有力な解釈である。ヨハネ伝の最後の章の22節で、主はペテロに言っておられる。「たとい、私の来る時まで彼が生き残っていることを私が望んだとしても、あなたには何の関わりがあるか。あなたは私に従って来なさい」。私が来る時と言われるのである。

 ペテロは「私に随いて来なさい」と命じられた。「随いて行く」ということの含みとして、キリストが十字架につけられたように、その後に従う者も十字架に架けられねばならないという意味があることも分かっている。その命令に異存があるわけではなかったが、若い弟子のヨハネが随いて来ている。彼はどうなのか、問うて見たくなった。軽はずみな好奇心からヨハネの先行きが気になったのか。ペテロ自身は死を厭っていないが、この弟子は死ななくてもよいのか、という不満を持ったのか。そういうことは今は問題ではない。とにかく、ここで「私の来る時まで」と仰った言い方のうちにある「来る」は、再臨を指すのではないかと考えられるのである。

 今上げた四つの解釈は、どれを取っても事実に当てはまるし、その全部を受け入れても良いが、もっと踏み込んだ受け取り方があるのではないか。

 すなわち、ここでは「帰って来る」と訳されているが、「帰る」という言葉が入っているわけではない。3節に「行って場所の用意が出来たならば、また来る」と言われる時の「来る」と同じ言葉である。「帰って来る」というと、本来いるべき所に戻って来ると取られ兼ねないのだが、キリストは本来この世にいるべきお方ではなかった。彼は本来は父のみもとにあるべきお方であった。だが、そこからこの世に下って「来られた」のである。だから、父のもとに帰って行く。

 我々は聖書によって、神が「来る」お方であることを教えられていることを思い起こそう。モーセの書に、神は御自身を先ず第一に「在りて在る者」と規定したもうた。単に「在る」というのではない。それなら、山がある、大空がある、というのと同列に過ぎない。「在って在る」とは、在るという以上の在り方である。

 それに加えて、同時に神は御自身を「来る」者とも呼びたもう。例えば、ゼカリヤ書210節、「主は言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。私が来て、あなた方の中に住むからである」。イザヤ書354節、「心戦く者に言え、『強くあれ。恐れてはならない。見よ、あなた方の神は報復をもって臨み、神の報いをもって来られる。神は来て、あなた方を救われる』と」。

 神がおられること、それは全ての存在の根源であり、我々が考える全ての考えの出発点である。「私はある」。「私は在りて在る者である」。理論を立てる際に、これらの御言葉を忘れることは出来ない。詩篇第14篇の初めに、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」と歌われる通り、この最も基本的なことを無視するのは愚かである。

 それはそれで重要なことである。神が「在る」と言っていては理屈っぽくなるから、いけない、と考えるのは間違っている。だが、聖書が「神はある」と教えるだけでなく、神は「来る」と、聖書独自の特徴ある言い方をしている点に留意しなければならない。

 では、神はどういう形で来られるのか。エゼキエル書432節には、「その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた」と書かれているが、これは、神が東から来られるという。ハバクク書33節では、「神はテマンから来られ、聖者はパランの山から来られた」というが、テマンもパランも南のシナイの方の地名である。

 東から来られるのか。南から来られるのか。それは象徴的に言われたことであって、あれかこれかを取り立てて論ずるだけの意味はない。とにかく、来られるのである。存在されるとか、座しておられるとかではなく、「来られる」。向こうからこちらに、刻々に近づいて来られる。これを待つのが希望である。

 神が存在するお方であるように、神の御子も「私はある」と言われるお方である。そして、父なる神が「来る」という言い方で、救いと裁きの御業の完遂を言い表したもうたように、キリストも「私は来る」と言われる。新約聖書の終わりにも、「然り、私は直ぐに来る」と言われる。それに対して我々の言う答えは、ただ一つ、「アァメン、主イエスよ、来たりませ」である。

 彼は「来たるべき者」と呼ばれたもうた。バプテスマのヨハネが、ヘロデの怒りを買って囚われ、獄中にあって死を待っていた時、思い残す只一つのことは、この方がキリストであるかどうかであった。そこで彼は弟子を送って、「来たるべき者はあなたですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」と確かめさせている。彼が「来たるべき者」であることが確かめられさえすれば、ヨハネは死んでも満足だった。すなわち、彼はこの方を証しするためだけに生まれて来たからである。そのように、「来たるべき者」として約束されていたお方は、確かに「来られた方」であったし、また、終わりの日に「来る」と約束された方である。

 そのように見て来る時、19節で「私はあなた方に来る」と言われることの意味が強く迫って来る。それも、ただ「来る」ではなく、あなた方のもとに「来る」と言われる。我々はこの言葉をどう解釈するかでなく、こう語りたもうたお方を全幅的に受け入れることを躊躇ってはならない。

 19節に入るが、「もう暫くしたら、世は最早私を見なくなるだろう。しかし、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きるからである」。

 「もう暫く」という言葉を我々はこれまでに何度も聞いている。そして、この後も何度か聞くのである。13章の33節に、「子たちよ、私はまだ暫くあなた方と一緒にいる」と言われる。これは残り時間が僅かだという意味に取って良いであろう。このあと一緒にオリブ山に行かれて、そこで主イエスは逮捕され、弟子たちは散り散りになり、主と弟子は引き裂かれてしまう。あとほんの僅かの時間しかない。しかし、もっと前、恐らく前年の仮庵の祭り、すなわち、この6ヶ月前、733節で、「今暫くの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く」と言われた。弟子たちはまだ時があると思っていたが、主にとっては半年前も今夜も同じであった。

 1616節では、「暫くすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし、また暫くすれば私に会える」と言われ、これに引き続いて弟子たちの間で、暫くすれば、とはどういうことかとの議論がかわされた。

 その状況は或る意味で今日も我々の間で続いていると言うべきである。すなわち、我々が痛みと悲しみに打ちひしがれている時も、この悲しみが暫くの間だけのものであることを思い起こさなければならない。イザヤ書2620節に、神は語りかけておられる、「さあ、わが民よ、あなたの部屋に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、暫く隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる」。

 同じ主旨で歌われるのは、詩篇355節の「その怒りはただ束の間で、その恵みは命の限り長いのである」。                                       

 一方、我々がこの世の楽しみを味わう機会があったとする。それが必ずしもいけないと言うわけではないのだが、それが暫くのものであることは弁えていなければならない。つまり、時は縮まっているのである。

 「世は最早、私を見なくなる」。確かに、その通りである。世の人々の目にはキリストは見えなくなった。

 「しかし、あなた方は私を見る」。――主はトマスが「自分は主の復活を見るまでは信じない」と言っていたことについて、現われたもうて後に、「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」と諭したもうた。彼は見なくても、他の弟子が、自分は主を見たと証言したのを聞いたなら、信ずべきであった。聞いても信じない者は使徒として失格だと言えるのではないか。

 8日の後、主が再び現われたもうたのは、一つにはその日が週の初めの日だったからである。しかし、もう一つの意味として、見ていないトマスに見せるためということがあったと考えられる。すなわち、トマスは主の復活を見て証言するという使命を持つ使徒である。彼にその使命を果たさせるために、主は一週間遅れて御自身を示したもうた。

 パウロはIコリント91節で「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか」と言うが、使徒であることの資格として、復活の主を見たことがあるという条件が要求されたのである。見ることと遣わされることとの結び付きがある。2019節以下の一週の初めの日の夜の記事で、弟子たちが主を見て喜んだと記される直後に、「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と語られたところからも分かるのである。

 ここで「見る」と言われるのは、単に肉の目で見ることだけでない、ということも読み取って置きたい。すなわち、霊的な意味で見ること、把握し、受け入れること、それによって生きることである。そのことは19節の最後の部分で教えられる通りである。

 したがって、今、我々が主を見ていないことについて、これを致命的欠陥とすることは出来ない。見ないで信ずる者であるならば幸いだと主は言って下さった。

 この19節の最後の部分として、「私が生きるので、あなた方も生きるからである」と言われる。――あなた方は私を見る。見ることが出来る理由は、あなた方が生きるからである。しかし、あなた方が生きるのは、私が生きるからである、と教えられるのである。これはキリストの復活に与ってキリストと共に生きる者が、キリストを見ることを指す。

 我々の生きるのは、我々のために死んで、我々のために甦りたもうたキリストに与るからである。

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