2003.03.02.

ヨハネ伝講解説教 第143回

――14:15-17によって――

 「もし、あなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである」。――15節で主イエスがこのように言われたので、唐突な感じを受ける人がいるかも知れない。前との繋がりはどうなのか。次の節ともスムーズに繋がらないのではないか………。しかし、すでに見て来たように、主はこのところ、一連の御言葉によって、彼らに「派遣」されることの意義を教えておられる。そこを掴むならば、唐突な、あるいは不自然な感じはなくなるであろう。

  直ぐ前の14節で「何事でも私の名によって願うならば、私はそれを叶えてあげよう」と言われたのも、さらにその前、12節で「私を信じる者は、また私のしている業をするであろう。そればかりか、もっと大きい業をするであろう」と言われたのも、派遣された状況下のことである。主が去って行かれるとは、弟子たちの側から言えば、この世に残されることであるが、それはむしろ、派遣された事態として捉えなければならないという教えである。

  派遣された者は、単に、命令だから、好むと好まざるとに関わらず、あたかも操り人形のように行動するというだけの理解ではいけない。キリストからの派遣には忠実に従わなければならないが、機械的な忠実さは主の好みたまわぬところである。キリストから遣わされた人は、キリストを信じ、信仰によって主と結び付いていなければならない。その信仰の故に大いなる業を行なうことが出来る。

  「信仰」という言葉が、一般的な意味のほかに、特殊な意味で用いられる場合があることを我々は知っている。一般的な意味は、我々が良く使っているように、この信仰によって義とされ、また救われる。しかし、そのほかに特殊な意味もある。マタイ伝17章20節で、主は「もし辛子種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなた方に出来ない事は何もないであろう」と言われた。では、我々が山に向かって「あそこへ移れ」と言っても、山を動かすことは出来ないのであるから、我々には一粒ほどの信仰もなく、救われることもないということになるのであろうか。

  そのように取ってはならない。ここで言われている「信仰」は、派遣された者に授けられる特殊な賜物のことである。派遣と切り離して、「信仰があれば何でも出来る」と軽率に考えるのではない。パウロはIコリント13章で、「山を移すほどの大いなる信仰があっても、愛がなければ無に等しい」と言っているが、これは特殊な意味の信仰について言ったものであって、義とする信仰をおとしめるために言ったものではない。

  キリストからこの世に遣わされた者は、キリストから遣わされたことの証しを立てなければならない。それを行なう力がこの信仰である。ただし、これはあくまで、イエスを主と信じる信仰、もっと分かり易く言うならば、イエス以外の者を決して主とは認めないという確信なのであって、単なる超能力と見るのは全くの間違いである。

  それに続いて今日学ぶのは、キリストから遣わされた者が、キリストを「愛する」ということである。キリストを信ずることも、キリストを愛することも、遣わされた者にとっては当然の務めで、新しく教えられるまでもないのであるが、基本的な事項であるから、繰り返されねばならない。

  「もし私を愛するならば」とは、「私から遣わされたあなた方は、当然、私を愛している」という含みで語られている。仮定の条件を語られたのではない。24節に、「私を愛さない者は私の言葉を守らない」と言われるが、これは15節の言い方を逆にしたものである。愛さない、言葉を守らない、ということには当然、刑罰が伴うが、刑罰を強調することによって守らせようというのではない。

  遣わされる、すなわち送り出されるとは、距離的には離れて行くことではあるが、関係が薄くなって行くのではなく、遣わしたもうた主に対する愛はむしろ深まって行く。そういう関係である。人と人との間の愛は、離れているとだんだん薄れて行くものである。しかし、主イエスから遣わされた者は、主を愛し続け、その愛はいよいよ成長して行く。そして、「私を愛しているなら、当然、私の戒めを守るのだ」と言われるが、我々はそのお言葉に対して、「ホントウにそうです」と答える。

  ヨハネ伝の終わりの章に、非常に印象的な事件が記録されている。主イエスはペテロに、「私を愛するか」と三度も尋ねたもうた。ペテロは一旦は脱落した弟子であるが、主からこのように問われる時には、「愛します」と答えるほかなかった。しかし、それは本心でもないのに偽って言った答え、あるいは、今はそう思っていても先でどうなるか分からないのだが、取りあえず、余儀なくそう答えた、という答えでなかったと我々は理解している。ペテロが答えるたびに、主イエスは「私の羊を飼いなさい」と同じ委託を繰り返された。このやり取りのうちに含まれている内実は簡単には語り尽くせないから、他日もっと詳しく学ぶことにするが、今は、主を愛することと、主から遣わされることとの結び付きを読み取っておきたい。14章のこの後しばらく、愛についての教えが続くのである。愛の重要さが分からなければ、主がここで言っておられることは捉え切れないであろう。

  ところで、「私の戒め」とは何か。先ず思い起こすのは、13章34節で聞いた教えである。「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」との命令である。「私を愛する」ということと、「あなた方が互いに愛し合う」こととは、よく対応していて、一方が欠けたならば、他方は立ち行かないのである。

  しかし、それだけではない。というのは、ここで「私の戒め」と言われるものは複数になっているからである。また、主の戒めを互いに愛し合うことに限ると、確かに具合の悪いことが生じる。例えば、仲間内で愛し合うが、他の人を顧みないという取り違えが起こりかねない。

  21節に「私の戒めを心に抱いてこれを守る者は、私を愛する者である」と言われる。意味は15節とほとんど同じである。また、主イエスがここで「私の戒め」と言っておられることを、その後で23-24節では「私の言葉」と言われる。もっとも、ここでは私の言葉は単数として扱われているが、言葉という時、複数か単数かは問題にはならないであろう。

  「愛」と「戒め」の深い関係を忘れる人が割合多いのではないかと思う。暖かい愛と冷たい戒めは馴染まないと感じている人もいる。愛があるなら律法はいらないと教えている人もいるようである。しかし、それらは間違っている。神は最も基本的な命令として、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛すること」と、「己れ自身を愛するのと同じように隣り人を愛すること」を与えたもうた。その二項目で我々のなすべきことは尽きていると言うことは出来るが、分かったつもりで実際には分かっていない場合が多い。そこで、もっと細かく、具体的に、どうなすべきかを教えなければならない。そこで、十の戒めが与えられた。戒めがあってこそ愛は具体化するのである。だから、主を愛する者は戒めを守る。

  では、主が「私の戒め」と呼ばれたのは何々か。その一つ一つを取り上げることは無意味ではないが、多くの言葉を語らなければ中途半端になってしまう。では、どういうふうに扱えば簡潔に理解出来るか。主は先に「新しい戒め」と言われたが、古い戒めと比較してそう言われたわけである。古い戒めとは、モーセの律法である。それが破棄されたとは言われない。むしろ、マタイ伝5章17節以下で言われたように、それらの戒めがキリストにおいて全うされることが重要である。「私の戒め」と言われるのは、私において守られ、私において全うされる戒めのことである。

  ヨハネは第一の手紙の2章7節で、「愛する者たちよ。私があなた方に書き送るのは、新しい戒めではなく、あなた方が初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは。あなた方がすでに聞いた御言葉である」と言うが、これが福音書のここでの主の教えの主旨を良く言い表したものと言えよう。

  今15節で聞いた主の言葉と重なり合うのが、先にも少し触れたが、23-24節である。「もし誰でも私を愛するなら、私の言葉を守るであろう。そして私の父はその人を愛し、また、私たちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。私を愛さない者は、私の言葉を守らない」。

  16節に入る、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」と言われる。

  これは15節の続きである。キリストから遣わされた者が戒めを守って職務を行なって行くとき、助け主が与えられて、その職務が果たされるとの約束である。ここで三つの点を教えられる。

  第一は、御子である主が、父に願って、御霊を使徒たちに与えたもう約束である。聖霊の派遣に当たっての父なる神と御子の役割が示されている。この聖霊の派遣ということについては、最後の食卓での教えの中に四度繰り返されて、次第に厚みを増し、豊かな教えとなる。今回学ぶ御言葉は全てを語り尽くしてはいない。次には、14章26節で教えられ、その次に15章26節、次に16章13節である。それらの教えを今、一つに纏めることはしない。聖書本文に出て来る順序に学んで行けば良いであろう。

  聖霊は父なる神からのみ来る、ということが第一に教えられなければならない。神の霊と人間の霊はどこまでも別である。人間の霊が何かの機会に神の霊になるということはない。人間の霊が神の霊と触れ合って、聖なる霊になるというのでもない。神から、キリストの執り成しによって、御霊は我々に遣わされる。したがって、聖霊は、父なる神と、キリストから来る、と言っても良い。そして神の霊は、御子の名によって、信ずる者のうちに住まう。

  神の霊は宇宙にも。また地上至るところに満ち満ちており、自由な活動をしているが、それが人の中に入る事も定着することもないし、人が満ち満ちた御霊のなかに溶け入るということもない。御霊はただキリストの名によってのみ来るのである。キリストが来られるのと、御霊が来られるのと、来る方式としては同じではないが、同等の効力を持っている。

  第二に、「別に助け主を送って……」と言われるところは、もう一人の助け主を遣わすという意味である。つまり、第一の助け主の他に、第二の助け主が来る。それは第一の助け主が世を去った後に、その代理として、来られる。

  「助け主」、「パラクレトス」という特徴ある言葉がある。これは「慰め主」とも訳され、その訳語も好まれて広く行き渡っているようであるが、慰めという言葉は、日本語では、悲しむ人に悲しみを一時的に忘れさせるけれども結局何も変わらないという程度にしか受け取られない嫌いがある。ここに用いられる言葉は励ましとか、力づけという意味である。現実に力を与えるのである。

  ちょうど、御子が御父のもとから遣わされ、「私を見た者は父を見たのである」と言われたのと同様な関係が、御子と聖霊の間にある。パウロはIIコリント3章17節で「主は霊である」と断言する。御霊を持つ者は主を持つのである。だから、キリストが去って行かれた後も、御父と御子が遣わしたもう聖霊によって、弟子たちは取り残された者のように窮迫することはない。

  第三に、聖霊はいつもあなた方と共にいる。これはキリストがその任務を完了した後は天に帰って行かれるのと違う、ということを言うのである。御霊はいつまでも共にいてその御業を続行したもう。キリストはその職務を果たすために、定まった時に、人となって世に下りたもうたのであるが、聖霊は最後まで留まってその業を果たしたもうのであって、只一度贖いを果たしたもうた御子のように、人となる必要はなく、最後の時まで霊のままであって、目に見える形をとりたまわない。

  「それは真理の御霊である」。真理の御霊という呼び方は15章26節でも用いられる。少し前に6節で、主は「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私に依らないでは、父のみもとに行くことは出来ない」と言われた。その「真理」である。キリストが真理であるというのと同じ意味で、御霊は真理である。また、この真理である御霊によるのでなければ、誰も父のみもとに行くことは出来ない、という意味がある。Iヨハネ5章6節では、「証しをする者は御霊である。御霊は真理だからである」と言う。

  「真理の御霊」と呼ばれる理由はそれだけでない。これは真理の証しをする。今ヨハネの書簡で見た通りである。26節には「聖霊はあなた方に全てのことを教え、私が話して置いたことを悉く思い起こさせる」と言われるが、教えられた真理でもそのまま身に付くのではなく、思い起こさせられることによって確乎たるものとなる。

  Iヨハネ4章6節では、「我々は真理の霊と迷いの霊との区別を知る」と言うが、真理の霊と自称するが、実は迷いの霊にほかならず、それを信仰者は見分けることが出来ると言うのである。すなわち、イエス・キリストが肉体を採って来られたことを告白する霊は正しく、告白させない霊は偽りである。

  「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなた方はそれを知っている。何故なら、それはあなた方と共におり、またあなた方の内にいるからである」。

  この世にとって、御霊は全く意味のない、せいぜいお話しとして口に上るだけの空想物である。御霊は見えないし、理解を越えているからである。見えなくても信ずるという道を知る人には、見えなくても確かな事実であるが、信じない人には見ることが一切であるから、見えなければ何もない。しかし、あなた方にとって、内にいます御霊は現実であり、真実である。空想でなく現実として把握されている。だから、あなた方はそれを実際に知っている。

  「何故なら、それはあなた方と共におり、あなた方の内にいるからである」。

  御霊について解説せよと言われても、無理な人はいるかも知れない。求められたなら、解説すべきであろう。特に教える務めにある者は、それが出来るようにして置かなくてはならない。しかし、説明が出来ないからといって、分かっていないことにはならない。言葉で他の人にうまく説明することは出来なくても、聖霊の事実について確信を披瀝することなら出来ると言う人はいる。その人は御霊がともにいたもう事実を確認しているからである。

 

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