2003.02.16.

ヨハネ伝講解説教 第142

――14:によって――

    「私の名によって祈れ」という命令、それに結び付いた「何事でもかなえられる」との約束、これは信仰者たちが、常時また何事についても、用いることの出来る喜ばしい特権である。だから、我々の間では、祈る時、いつも「イエス・キリストの名によって祈る」という文言で締め括る型が決まっている。我々はその型にはまることが、生命の涸渇した、単なる形式に堕する危険があると気付いて、呪文のように唱えてはならないと心得ているが、この型そのものは、自らの捧げる祈りの有効性の徴しなのだと納得し、この名によって祈る願いを誇りとすることが出来る。

 祈りが空しくなるという試練に遭った経験を、実際に持つ人は稀でないことを我々は知っている。切迫した危機の中で、祈っても祈っても、手応えの感じられない空しさに襲われた時もあろう。さらにまた、祈る前から、もうこの祈りは聞かれないに違いない、と諦めてしまう落ち込みが起こることもある。そういう時に、我々のうちに祈る勇気が奮い起こされるのは、祈りは必ず聞かれ、叶えられる、との主の約束があるからである。この約束があるから、我々は今日の絶望的な世界の中で、勇気を持って生きることが出来る。

 さて、この約束を整理して、二つの面から捉えて置くのは有益であろう。一つは、神がつねに祈りをその民に求め、促し、命令しておられるととともに、その命令には、祈りが必ず聞かれる、との約束を伴っていることである。つまり、祈る必要がない、満ち足りている、と慢心してはならないとともに、祈りを他の何ものに向けることもせず、ただひとえに神にのみ注がなければならない。でなければ、祈らない罪について、裁きを受けねばならない。そして、祈りは、気休め、精神の不安の癒し、あるいは気を紛らわせる小手先の誤魔化しの業ではなく、必ず聞かれるのである。マタイ伝711節にも、ルカ伝1113節にもある「求めよ、そうすれば与えられるであろう」との命令また約束は、我々にとって最も基本的である。マルコ伝1124節にある、「何でも祈り求めることは、すでに叶えられたと信じなさい」は、言葉は違うが意味は近い。主イエスはこのことの根拠として、神が父であられ、求める者に良き物を下さらないことはないから、と教えたもう。一念をこめて祈れば、必ず神に通じる、と言っている教えは世界に多くあるが、そういう期待が万人にあるということは事実であるが、何の確かさもない。

 聖なる神は、罪人の言うことを聞き入れたまわない。そのことは我々が冷静に考えて見れば、容易に了解出来るであろう。もし神が罪人に対して和らぎたまわないならば、罪人の捧げる祈りは聞かれるはずがないのである。和解、仲保、贖罪、というような信仰の教理の要点を無視して、直接祈りの有効性を訴えようとしても、それは無謀である。普通の父親でも、子が魚を求めるのに蛇を与えることをしないように、父であられる神は、まして、父に呼び掛ける祈りを聞きたもうことを信ずべきである、と主イエスは教えたもう。

 もう一つの面は、今日学ぼうとしている教えである。熱心に祈りさえすれば何でも聞かれるというのでなく、祈りには「私の名によって」との限定が付く。二つの面と言ったが、これは二つの事柄でなく、一つの事柄の二つの面として捉えるのが正しい。すなわち、イエス・キリストの「執り成し」によってこそ祈りが成り立つ、という説明のあるなしに関わらず、我々の祈りは、イエス・キリストが人となって我々人類の中に住みたもう前から、我々の主、また首であられ、仲保者であられる、この御子の執り成しによって、祈りは神のみもとに達していたからである。そのことがキリストの来臨によって一層ハッキリした。

 「私の名によって祈れ」と主イエスが命じたもうた記録は、福音書では、ヨハネ伝にしか書かれていない。ほかの福音書でも、イエスの名によって事をなす、という言い方は重要であり、祈りはもとより強調されているが、主は御自身の「名」によって祈れとは教えておられず、ただ、祈れと言われただけである。しかし、だからと言って、ヨハネ伝と共観福音書とが、祈りについて別の本質、また別の守り方を教えていると見てはならない。

 さらに、ヨハネ伝でも、主イエスの名によって祈ることは、今日学ぶところに初めて出て来るのであって、この最後の夜の教えの中に集中的に現われる。すなわち、14章の1314節、15章の16節、16章の26節に繰り返される。ここにしか出ていないということは、余り大きい意味を持たない特殊な教えであるとか、祈りについての教えのうちの特殊な点だということでは勿論ない。むしろ、ここまで来てこそ明らかになるべきことであると示唆している。別の言い方をするならば、ここまで来て、やっと、祈りの持つ意味の深さと確かさが見えて来たのである。

 なおまた、「求めよ、そうすれば与えられる」との単純な命令と約束、これは上に挙げた第一類の中にあったが、同じものがヨハネ伝1623節の「あなた方が父に求めるものは何でも、私の名によって下さるであろう」という御言葉の続き、23節にも出ているのである。要するに、二系統の教えの伝承が別々にあったと考えてはならない。

 こうして、今日の13節の学びに入って行く段になった。先ず、「私の名によって願うことは、何でも叶えてあげよう」と言われた主の言葉を、唐突な、脈絡なしに語られたことと見てはならない。これは12節の御言葉に続くものである。「よくよくあなた方に言って置く、私を信じる者は、また私のしている業をするであろう。そればかりか、もっと大きい業をするであろう。私が父のみもとに行くからである」。このことと繋がったものとして、13節を聞くのである。

 先の12節で学んだ通り、主イエスは世を去るに際して、弟子たちに、御自身の事業の継続を命じ、職務を委託し、またその命令遂行に必要な約束を伴わせたもうた。「あなた方は私のする業を実行することが出来るのだ。いや、もっと大いなる業さえすることが出来るのだ。私の名によって祈るならばそれが出来るのだ」と言われる。13節は先の命令と約束の続きであると見ることによって良く分かる。ここだけ切り離して、祈りの有効性を強調しても間違いではないが、主の御業を受け継ぐことと結び付けて理解する方が遥かに分かり易いであろう。

 ずっと後になるが、1711節で主イエスは、父に祈って、「私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります。聖なる父よ、私に賜わった御名によって彼らを守ってください」と言われる。今から後、弟子たちがイエスの名によって祈りを捧げる状況がどんなものであり、主イエスがそれをどんなに思い遣りたもうたかが、この御言葉によって捉えられる。

 キリストは世を去って行かれ、弟子たちは世に残る。或る意味では引き離され、別々の地平に置かれるのである。その孤立化は弟子たちにとって心細い限りであった。しかし、主は「あなた方は心を騒がせないようにせよ」と14章の初めで先ず教えたもうた。そして、その理由として、先ず「私が去って行くのは、あなた方の住まいを整えるためだからである」と言われ、「あなた方にはむしろ幸いなのだ」と言われる。また、「あなた方は決して孤児になるのでなく、別の助け主、すなわち聖霊が与えられる」と約束される。

 次に、前回学んだように、私が不在になったこの世に、あなた方が残るのは、私の業を或る意味で引き継ぐためであるということが、12節から解明された。この事項に含まれている積極的な意味を読み落としてはならないのである。世に残るとは、取り残され、置き去りにされるという意味ではなく、使命があってここに踏み止まることである。それは遣わされることの一面であるということを我々はすでに理解している。

 その使命とは、居残った以上、何かをしないワケには行かない、という程度の消極的なものではない。いわば、主イエスの足跡をただ保存し、名所旧跡の番人兼案内人がするように、彼の過去の業績の思い出を語り伝えることではなく、「私のしている業をする」と主の言われたこと、積極的な働きである。だから、「イエスの名において」このことを行なうのである。残されてボーッと立って時間稼ぎをしておりさえすれば満足な勤務になるのではなく、働きをしなければならない。働きをし続けるためには、祈り続けなければならない。無人衛星が打ち上げられて、以後自動的・機械的に情報が送られて来るような関係を考えてはならない。

 「名によって」という言葉は、聖書の至る所に出て来るものであるが、ヨハネ伝でもこれまでに屡々聞いたことがある。おもに聞いたのは、主イエスが「父の名によって」来られ、「父の名によって」業をなしたもうというくだりであった。543節で主イエスは、「私は父の名によって来たのに、あなた方は私を受け入れない。もし、他の人が彼自身の名によって来るならば、その人を受け入れるのである」と言われる。また、父の名によって業をなす、ということも言われた。10章の25節ではこう言われる、「私は話したのだが、あなた方は信じようとしない。私の父の名によってしている全ての業が私のことを証ししている」。

 それらの所で言われた「父の名によって」という言葉、これを今度は、弟子たちが「イエスの名によって」世に遣わされて来て、「イエスの名によって」語り、「イエスの名によって」業を行なう、というところに転用するのである。「私を信ずる者は、私の業をするであろう」と12節で言われたのは、こういうことなのである。

 このような業が意識されて行われた実例は、使徒行伝の中に多く見ることが出来るが、恐らく我々にとって最も印象深く覚えられている場面は、36節から8節であろう。生まれつき足の利かない乞食が、宮の「美しの門」の傍らで、物乞いをしていた。彼は何か貰えるかと期待してペテロを見詰めていると、「ペテロが言った、『金銀は私には無い。しかし、私にある物を上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、踝とが立ち所に強くなって、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして、神を讃美しながら、彼らと共に宮に入って行った」。これが御名によって行なわれた業の典型である。

 使徒行伝のこの出来事の続きを見ておくことも有意義である。エルサレムの議会はペテロとヨハネの大胆な話し振りを見、彼らが無学の只びとであるのを知り、また癒された人が傍に立っているのを見、これが神の力によるものではないと言い返す勇気がなく、苦肉の策として、今後、「イエスの名によって」語ることは一切あいならぬと判決を下した。「イエスの名によって」なされることは、大いなる奇跡だけでなく、むしろ御言葉の宣教であるということを、ユダヤ人たちは知って、それがなされることを恐れたのである。

 そのように、ペテロとヨハネの用いたナザレのイエスの「名」は、口先で唱えられるだけの名でなく、力を振るうものであった。また借り物でなく、拾い物でもなく、弟子たちの確実に持っている物であった。確実に持っていると言えるのは、信ずる者にその名が与えられるからである。

 また、「主イエスの名によって」と言う時、彼の名に対する全幅の信仰を持っているという意味が先ず含まれていることは言うまでもない。

 この節では、「私の名によって願うことは、何でも叶えて上げよう」と言われる。すなわち、「私が叶えて上げる」と言われた。キリストの名で行なわれる業をキリストが叶えて下さるのは当然である。一方、1516節では、「あなた方が私の名によって父に求めるものは何でも、父が与えて下さる」と言われる。また、1623節では、「あなた方が父に求める物は何でも、私の名によって下さるであろう」と言われる。では、キリストが叶えて下さるのか。父が御子の執り成しの故に叶えて下さるのか。それを大きい違いと見る必要はない。厳密に言うならば、父に願って、父が叶えて下さるのである。しかし、1030節で、「私と父とは一つである」と言われたように、区別は必ずしもつけなくて良いのである。コリント前書1524節で「国を父なる神に渡される」と言われている終末の日までは、御父の大権は復活と昇天の御子に移されているのである。

 以上のように学んだので、「私の名によって祈る」と言われたことの意味の深みと広がりがかなり良く分かって来た。

 一般に考えられているところでは、「名」というものは、借りて使うことも出来そうであるが、本当はいけない。本気で主イエスを信じてもいない者が、イエスの名を借りて悪霊を追い払おうと企て、大いに恥をかいたという事件が使徒行伝にあるが、本来、名はその人だけしか使うことが出来ないものである。他人の名で信用させて、詐欺を行なおうとし、そのために名が用いられることもあるが、確かな委託なしで名を借りて使うことは犯罪である。我々が「イエス」という名を用いるのは、そっと合い鍵を手に入れて扉を開けるとか、他人のパスワードによって情報を盗み取るような、誰でも、如何なる目的のためでも、使うことが出来るものとしてではない。

 ところで、「何でも叶えて上げよう」と言われたのは、それが主イエスの名によって、その名のために行なわれるから、願いが叶うのである。無制限に願うことが何でも叶えられると言う保証でないことは明らかである。ただし、こんな私事まで願ってはいけないと自制し、遠慮し過ぎるのは、率直さがなさ過ぎる。神の栄光のみが輝き出て、我々はボロボロになることがあったとしても、厭わないことが大切であるが、人間としての暮らしに必要な物を祈り求めても悪いことではない。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることは祈りの基本的要素なのである。我々がキリストの御業を行なうために必要な付属物があるのだ。

 さて、13節の終わりに、「父が子によって栄光をお受けになるからである」と付け加えられている。これは子である私がそれを叶えてあげよう、と言われたことの解説である。すなわち、13節のことばは、これまで見て来た論法に照らして言うならば、「私の名によって願うことは何でも、父が叶えて下さる」と言った方が整合性があると見られ、疑念を持たれるかも知れないから、「私が叶えて上げよう」と言われたことの解説が入ったのである。すなわち、御父が御子によって栄光を受けることこそ相応しいのである。

 御子の業は御父の栄光のためである。これが御子の理解の根本原理である。弟子たちの祈りが叶えられて、彼らによって大いなる業が行なわれて、神に栄光が帰せられる。それは、大いなる業を行なった弟子のなした業とも言えるのであるが、御子の力を先に見るようにと教えられるのである。

 願いに「名によって」という制限がついているのは、願い方の限定であるだけでなく、願うべき事柄の限定でもある。それが、主イエスの御名に相応しいことであるなら叶えて頂けるのである。それが叶えられる時、父が御子によって栄光を受けたもうのである。

 次に、14節に進むが、「何事でも私の名によって願うならば、私はそれを叶えて上げよう」と言われる。これは13節の繰り返しである。余分の繰り返しであると見た昔の写字生がここを省略した写本もある。しかし、間違って反復したとは見ないで置く。13節よりもっと明確に言われたからである。

 私の名によって願うのは、父なる神にである。それなら、父が叶えて下さると言うべきであろう。しかし、今、「私がそれを叶えてあげよう」と言われる。御子だけがそれをなしたもうというのではなく、父がなしたもうと言う場合もあるが、今は特に御子のなしたもう業を見、御子の栄光を見るように促されるのである。

目次