2003.02.09.

ヨハネ伝講解説教 第141回

――14:11-12によって――

  11節、「私が父におり、父が私におられることを信じなさい」。これは5節から言われて来たことの結論である。同じことがすぐ前の10節でも言われた。「私が父におり、父が私におられることを、あなた方は信じないのか。私があなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私の内におられて、御業をなさっているのである」。この教えは、地上の御生涯の終わりになって教え始めたものではなく、以前から繰り返しておられた。父なる神とキリストとの一体の関係、ここに救いの道があるということがイエス・キリストの教えの眼目である。

  それは「私は父におり、父は私にいる」という関係の説明ではなく、それを「信ぜ」よとの命令がここで与えられるのである。理解出来れば良いというのではない。信じなければならない。信じることによって、父と子の関係の中に、信じる者も組み入れられるのである。そこに救いがある。そこまで入って行かなければ、一人の教師の学説であって、真理ではない。ただ、教理についての知識があるというだけである。

  「私は父におり、父は私にいる」、この教理の理解も必要である。鵜呑みにするのでなく、理解して、知識として明白にし、確信しなければならない。ユダヤ人はこのことで躓いた。神は神であって、人間は人間である。ナザレのイエスは人間である。人間としては素晴らしい品位と能力と知識を持つことは彼らも認めるのでらる。しかし、私は父におり、父は私にいる、と言われると、ユダヤ人は命がけで反発した。主イエスが「私に躓かぬ者は幸いである」と言われたのはまさにこの点である。そのことも学ばなければならない。しかし、今日はさらに信じることに入って行かねばならない。

  知識があるだけでは無意味なのか。そうではないではないか。我々のこれまでの生涯の中でも、幾度か経験されたことであるが、知らなかったことを新しく知ったその時、世界が大きく変わるのである。少なくとも変わったと感じたではないか。

  ただし、その時に起こった人生の変革が、ずっと生涯の間じゅう持続するかというと、必ずしもそうではない。いっときの感激が、どんなに努力しても、だんだん薄れて、消えて行くことがある。心に刻みつけられたから決して忘れない、と感じていたが、感覚で捉えている限りは極めて不確かなのである。しかも、そういう事件があったという記憶そのものが失なわれることがある。素晴らしいことを知っても、知っただけでは、やがて忘却によって消え失せる。思い出すことさえ出来なくなる。あるいは、辛うじて思い起こすことは出来るが、振り返って懐かしみ、思いにふけり、また思い描くだけにとどまって、事実が再現されるのではないから、力にはならない。だから永遠の救いに至らない。

  知っているだけの世界と、信じている世界の違いがここにある。だから、「信じなさい」と主イエスが言われることの重要さが理解されなければならない。「父と私は一つである」、「私は父におり、父は私にいる」と知るだけ、分かるだけでは、川の対岸から見ているのと同じであって、現実から隔たった所に立って観察しているだけである。

 絵を見ているのと同じである。実物ソックリに描かれているかも知れないが、実物ではない。

  現実に踏み込むこと、その中で生きること、これが「信じる」ことである。今、我々に向けて語られているのはそのことである。

  だが、今日学ぶ聖句では、「信じなさい」と言われるだけで、「信じる」ということの説明はなされていない。信じるということの理解に関して大きく前進させて貰えるのは、少し先の14章26節である。そこに至って、深く学ぶ予定であるが、今聞いていることとの関係が大きいから、今日も少しは触れて置かねばならない。「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを、悉く思い起こさせるであろう」と言われる。

  この26節の言葉全体に亘って触れることは、11節を学んでいる今としては出来ないが、「聖霊が全てのことを教え、私が話して置いたことを悉く思い起こさせる」と言われる。これが今日学んでいる「知ることと信じることとの違い」を解く鍵である。

  教えられて、完璧に学習したとする。実際は完璧な学習は出来ていない場合が殆どなのだが、仮に出来たとしておこう。それでも、譬えて言えば、教科書がスッカリ分かって、試験に満点を取った場合でも、ただそれだけのことでしかないように、キリストの言葉がスッカリ分かったとしても、ただそれだけである。例えば、「忘却」ということがよく起こる。そうなると、分かっていたことが全部消えてしまうのである。そうような実例について、教会生活の経験が幾らかある人なら、言われなくても分かっているであろう。人生のある時期、一時的に信仰者として彼なりに充実感を味わいつつ活動した人が、燃え殻のようになっている場合がある。

  今は、このことに関連して、忘却と想起、忘れることと思い起こすことについて、主イエスの御言葉を聞くのである。主は御自身の名によって父のもとから聖霊が遣わされ、それが私の教えて置いたことを悉く思い起こさせる、と約束してくださる。これは非常に重要な御言葉である。

  「思い起こす」という言い方には欠陥があって、思い起こすという語彙では十分言い表し切れない要素がある、ということを我々は知っている。だから、思い起こすとは後ろ向きの姿勢なのだと多くの人は考える。その判断は間違いではない。しかし、後ろ向きがいけなくて、前向きなら良いということなのか。そうでもない。前向きという掛け声は威勢が良いけれども、前向きになった時、何が見えるか。我々に見えるものは僅かしかないではないか。キリストが再び来られること以外に、確かなことは何も教えられていない。勿論、キリストがまた来られるという約束は、それだけで絶大な意味を持っているから、その鍵一つでどんな扉も開けられると我々は確信している。しかし、やがて来たりたもうそのお方は、かつて一度来たりたもうたお方である。かつて来たりたもうたことを思い起こしている者にのみ、彼に期待することの意味があるのだ。

  それにしても、「思い起こす」という言い方の不十分さ、その意味の消極的な限界を我々はもどかしく感じる。そこで、気付かなければならないが、主イエスが聖霊が「思い起こさせる」と言われた時のその「思い起こさせる」は、人々が普段、「思い出」とか「回想」とか「追憶」というような言葉で言い表している事柄と非常に違うのである。

  振り返って懐かしむことは、ストレスの解消に役立つかも知れないが、それだけである。人間には自然治癒力というものが備わっていて、或る程度までの病気や怪我は自然に治る。傷ついた心に対して、思い出の懐かしさは自然治癒力を発揮する。しかし、自然治癒力ではどうにもならない「死に至る病い」というものがある。それの癒しは自然のなかで浮かび上がる思い出からは出て来ない。主が言っておられる「思い起こさせる」御業に頼らねばならない。比較して良い悪いを論じるべきでなく、比較にならないほど違うと言うべきであろう。

  「聖霊は私が話しておいたことを悉く思い起こさせる」と主イエスが言われるその御業は、思い出してはまた忘れ、忘れてはまた思い起こすというような自然的な営みの繰り返しの一部を切り取ったものではない。聖霊の思い起こさせる働きは、忘却に対する圧倒的な勝利である。別の言い方をすれば、過去を呼び起こして現在とすること、今も過ぎ去って行こうとするものを、過ぎ去らせないように引き留めること、過去になって行こうとするものを現実として在り続けさせる、そういう業である。

  ここで11節に戻ってくる。「もしそれが信じられないならば、業そのもによって信じなさい」。――どうしても、信ずるところまで行かせなければならないという主の熱意と気迫が感じられる。信ずるとは、本来は言葉で語られたことを聞いて受け入れることである。その信仰が出来ないなら、業を見て信ずるという方式でも良い。

  では、その「業」とは何か。それは御子が今この地上でしている業と見るほかない。

 5章36節で言われた。「私にはヨハネの証しよりも、もっと力ある証しがある。父が私に成就させようとしてお与えになった業、すなわち、今私がしているこの業が、父の私を遣わされたことを証ししている」。業とは証しなのだ。証しすべき何かを指し示している。例えば、バプテスマのヨハネについて、ヨハネ伝1章7節は、「この人は証しのために来た」と言った。バプテスマのヨハネの業はキリストを示すだけで、彼自身の力を示すことではなかった。彼は何一つ奇跡を行なわなかった。

  さて、主がここで業と呼ばれたのは、平たく言って、奇跡である。奇跡についてヨハネ伝はそれほど力を入れて説いていないと見る人があろう。すなわち、他の福音書では、主イエスは民衆との接触のなかで、日常的に奇跡を行なっておられ、我々もそれをその通りであったと思っている。

  ヨハネ伝は、最後の21章の最後の節で「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もし、いちいち書き付けるならば、世界もその書かれた文書を収め切れないであろう」と言う通り、主イエスのなしたもうたことは大幅にカットしてある。そして、幾つかだけ、象徴的な意味を持つ事件だけが記録される。

  これまでヨハネ伝で見て来た奇跡は、単なる驚くべき業、異能、超能力者的な業ではなく、説教と結び付いて、御自身の何者であるかを証しする業であった。奇跡そのものはそんなに珍しいものではない。悪霊祓いや神癒などは古代の社会にはよく見られたものであった。主イエスがその種類の奇跡を行われ、それと併せて福音の説教を聞かせたもうたというのも一つの読み方になろうが、ヨハネ伝ではその時の説教と内容的に一致した奇跡だけが取り上げられている。それは単なる超能力ではなく、御自身が父から遣わされて来ているという説教と結び付けてこそ意味のあるものであった。

  さらに、ここで考えて置かねばならないのは、10節で見たように、「私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか。私があなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私の内におられて、御業をなさっているのである」と言われたことである。キリストの御言葉はキリストの内にある神の業である。御言葉と御業が結び付いている。

  12節に入って行く、「よくよくあなた方に言っておく。私を信じる者は、また私のしている業をするであろう。そればかりか、もっと大きい業をするであろう。私が父のみもとに行くからである」。

  ここから新しい区切りに入る。新しい段階に移ったのである。これまでは父が御子においてなしたもう業について教えて来られたのであるが、今度は、あなた方、弟子たちのなす業について語りたもう。これは宣言であるとともに、約束である。あなた方は私のしている業をする、と先ず厳かに言われる。次に、それが或る意味ではもっと大きい業であると付け加えたもう。キリストの御業、あるいはキリストにおける神の御業が弟子たちによって継続して行なわれ、それは発展するのである。

  新しい段階に移ることの理由が、12節の後半に示される。「私が父のももとに行くからである」。もっとも、理由はそれで終わっているのではない。17節まで続くと見なければならない。

  父が御子を遣わしておられる、という状況は今終わる。御子は遣わした方のもとに帰られる。それは、今までに繰り返し説かれたように、栄光の座に昇られることであるとともに、地上においては、御子が不在になるという時代に移るのではなく、御子が弟子たちを遣わされ、地上における御子の使命は弟子たちに引き継がれるということである。

  弟子たちの派遣がハッキリした形で表明されるのは、20章21節以下である。「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす』。そう言って、彼らに息を吹き掛けて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう』」。復活のキリストが、復活者としての栄光のうちに、派遣者としての権威をもって遣わし、御自身の業を地上で継続させたもう。

  今、「弟子たち」と呼んで来たが、主イエスはこの12節で、「弟子は」、とも「あなた方は」とも言われない。「私を信じる者」は、と言われる。ここには二つの意味があると思われる。一つは、キリストを信じる者なら誰でもという意味、すなわち、今、私の前にいるあなた方だけでなく、この後、世代が幾代も入れ替わるであろうが、どの世代の者でも、私を信じる者は、という意味がある。

  もう一つ、キリストから遣わされて主の業をなす者が、どういう人でなければならないかが示されている。それは「私を信ずる者」である。「信ずる」という言葉は、10節でも11節でも使われたのであるが、12節の「私を信ずる者」という場合の「信ずる」は、同じ信ずるという動詞を使っているが、ニュアンスがやや違う。すなわち、12節にある「私を信ずる」は、キリストとの間の人格的な関わり、つまり献身である。「キリストが私において生き、私がキリストにおいて生きる」という関係である。10,11節の信ずるは「私が父におり、父が私にいる」こと、この教理条項を信ずる、すなわち、そのことをまこととして受け入れるという言い方なのである。

  信ずる者のなす業は、福音を宣べ伝え、罪の赦しを宣言し、悪霊を追い出し、病人を癒す業である。さらに、主は「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と言われたのであるから、キリストを信じる者はキリストの教会を建て上げるのである。キリストの御業が継続されるのであるから、彼らの語ることは昔話、思い出話の類ではない。「あなた方の赦す罪は誰の罪でも赦される」。すなわち、罪の赦しの権限をキリストから託されるのである。「見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された通り、弟子たちは主の不在の言い訳をして廻るのではない。

  「そればかりか、もっと大きい業をするであろう」。――キリストの御業よりもっと大きいことを弟子たちがするのであろうか。そうではないのではないか。例えば、ラザロの甦りのようなこと、シロアムの池で目を開かれた人、五千人の給食、カナの婚宴の奇跡、それら以上のことは出来なかった。「弟子は師にまさらず」と言われた通り、弟子の業の方が主の業より偉大であるとは言えないであろう。

  しかし、福音宣教の世界的拡大という意味では、弟子たちの業の方が大規模である。

 このこととの関連で、次の13節の祈りに関する御言葉も聞いて置かねばならないのであるが、次回に譲る。それにしても、祈りなしで事業がドンドン拡大して行くというような場面を空想してはならない。

  さらに、その次には、真理の御霊が与えられることが語られるが、これも今、一度に頭に詰めこんでも消化不良になるかも知れない。「よくよくあなた方に言って置く、私を信じる者は、また私のしている業をするであろう」。この現実が始まったのである。

 

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