2003.02.02.

ヨハネ伝講解説教 第140回

――14:4-10によって――

4節で「私がどこへ行くのか、その道はあなた方に分かっている」と主イエスが言われた時、弟子たちの間にまたまた混乱が起こった。その混乱を代表しているのがトマスの応答である。「主よ、どこへおいでになるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょう」。

 トマスは主の行こうとしておられる所を知らない。それを知らないから、そこへ行く道も分からない、と言う。「その道があなた方には分かっている」と主が言われるのは、どういう意味なのか、と当惑している。トマスについては、11章16節で見たのであるが、「これからラザロを起こしに行く」と主が言われた時、「我々も行って先生と一緒に死のうではないか」と、よく分かっていないらしいことを仲間に語っている。ラザロが起こしてもらえるなら我々も死んで大丈夫ではないか、と軽く考えたようである。この14章でも、同じように、弁えなしに物を言っているという感じがするが、彼個人の性質について議論することは差し控えて置く。

 「どこへ行かれるのか分からない」とトマスが言ったことと関連して、思い起こされるのは、7章32節以下に記されていたユダヤ人の反応である。主が「あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない」と言われた時、ユダヤ人らには、主がどこへ行こうとしておられるのかが分からなかった。いや、何を言っておられるのかも分からなかった。そこで、「我々が見つけることが出来ないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシャ人の中に離散している人たちの所にでも行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか」と互いに論じた。33節で主が「私をお遣わしになった方のみもとに行く」とハッキリ言っておられるのに、それが耳に入らなかったわけである。

 これとよく似た誤解が8章21節以下でも起こった。「私は去って行く。………私の行く所には、あなた方は来ることが出来ない」と言われた時、パリサイ人らは、敵意がこもっていたからであろうが、「自殺でもしようとするつもりか」と受け取ったのである。「私を遣わされた方のみもとに行く」という意味であることは明らかであるのに、それを聞き取ろうとしない。

 最も基本的なことが分かっていない。聞いていても聞けないのである。揚げ足取りのためには聞くし、聞いた言葉は覚えているが、聞くことが信仰であるという意味の聞き方ではない。

 弟子であるトマスもその程度の理解であったのではないか。彼はユダのように裏切ろうとは考えていない。「先生と一緒に死のうではないか」と言ったのは、冗談であったかも知れないが、パリサイ人の悪意は確かになかった。が、主イエスがここを逃れて、どこか知らない外国にでも行ってしまわれる、と思っていたのであろうか。

 とにかく、トマスには主イエスの言われた言葉が分かっていなかったことは確かである。そこで考えて見なければならないが、それでは、我々には、このあたりのことはスッキリしているのか。いや、トマスの混乱にさらに輪を掛けたような混乱が我々の中にあるのではないだろうか。これは、しかし、解決に難しいことではない。これは簡単に整理をつけることが出来る。

 主が言っておられるのは、全く平明なことであった。内容については、すでに、いろいろな所で、いろいろな形で教えられたものと共通している。今ここでは「道」という譬えを新しく用いたもうた。確かに、この言葉は、ヨハネ伝ではここで新しく聞くものである。その新しさにトマスは直ぐには適応出来なかったため、噛み合わない返事をしたのであると見ることは出来る。勿論、それだけでなく、トマスには最も基本的なところでの無理解、あるいは不信仰があったが、その点については、我々には分かっているものとして話しを進めることにする。

 6節で「私は道である」と言われる。これが今日の箇所における学びの核心部分である。「私は何々である」という言い方がヨハネ伝によく出て来ることを我々は知っている。その中でも特に有名なまた重要なお言葉である。そのお言葉を先に聞いていたなら、あるいは、弟子たちが主イエスの言い方にもっと親しんでいたなら、混乱はさほどでなかったかも知れない。

 主のこのような種類の教え方について振り返って見れば、例えば、先に10章9節で「私は門である」と言われた。これは「私は道である」と言われるのと同じ様な、内容的にも似た教え方である。すなわち、「私は門である」と言われる前に、10章の初めから、羊の囲いに設けられている門の機能や意味について語って来られた。だから、「私は門である」と聞いても唐突な感じはなかった。

 「私は道である」と言われた場合の扱いも同じである。「私は道である」と言われる前に、「私がどこへ行くのか、その道はあなた方に分かっている」と言われたばかりである。そして、その前に、「私は私の父の家に行く」と言い、「あなた方のために場所を用意しに行く」と言われた。「行く」のは道を行くのである。道という語は使われていないが、十分道の意味は読み取れる。

 さらに、「場所の用意が出来たならば、また来る」と言われる。「また来る」のは、同じ道を通ってである。行ったり来たりするのが「道」というものの機能また意味である。1章の51節で、「よくよくあなた方に言って置く。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのをあなた方は見るであろう」と言われたのもこの交流である。イエス・キリストが神と交わりを持って行き来したもうだけではない。彼を信ずる者もその道を行き来する。神との交わりを持っている。現に我々もこの道を行き来している。つまり、もっと単純に言えば、ここでは「信仰」に関して語られているのだ。

 深遠な理論が語られているのではない。道という比喩が新しいので、戸惑う人があるかも知れないが、初めから教えられていた初歩的な信仰の教えが分かっておれば、引っかかることは何もない。

 ただ、先ほども少し触れたが、トマスが「どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」と言ったのは、この後すぐ、ピリポが述べているのと並んで、かなり深刻な問題発言である。キリストの初めからの弟子でありながら、最も基本的なところをキチンと把握もせず、受け入れてもいないのである。それは要するに、御子に対する信仰が欠けているのである。

 もう一点、トマスは「行き先」と「道」とを切り離して、先ず行き先を捉えれば、そこへの道も分かる、というふうに考えた。これは考えの順序が違うのである。あるいは、順序に拘ることが間違っていると言うべきであろう。

 「私が道である」というお言葉が示す通り、「私である」と言っておられる方が誰であるかが分かれば、その方に随いて行くことが出来る。すなわち、道が分かって、その道を、そのまま行けば、目的地に到達出来るのである。そして目的地とは「父の家」であり、我々のために場所が備えられている所である。

 最も基本的なことはすでに教えられていたと言った。それは第一に御父と御子の関係であり、父が子を遣わしたもうたことである。第二は、漠然と神を信じるのでなく、神から遣わされた方を信じることである。

 この基本的なことが、纏まった形で最初に教えられたのは、3章16節であった。「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。次に、5章のベテスダの池における奇跡に続いての教えがある。「よくよくあなた方に言って置く。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」。6章のカペナウムの会堂における、命のパンについての教えがある。次に、7章における仮庵の祭りにおける論争で、これは8章まで続く。

 9章のシロアムの池における盲人の癒しの奇跡に続く教え、これはシロアム、遣わされた者、が主題になっている。10章には「私は羊飼いである」、「私は門である」の宣言がある。

 今日聞く最も中心的な御言葉は先にも言った通り6節である。「私は道であり、真理であり、命である。誰も私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない」。

 「道である」という点については上に述べたところから、十分でないとしても、かなり説明がついたと言えよう。しかし、道、真理、命を一列に並べることについては、まだ十分呑み込めていない。「道」は、「私は命のパンである」と言われたのと同じような比喩である。だが、真理、命は比喩ではない。

 それで、「私は道である」で切って、すぐ「誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない」と続くなら、スッキリする。この道によらなければ父のみもとに行くことが出来ないのは確かだ。それが正しい読みである。私は道、私は真理、私は命と続いたとして、これで意味がおかしくなるというものではないが、真理と命は道であることを確認するために加えられたと見たほうが良い。

 「道」という言葉は旧約聖書にも多く用いられている。言うまでもなく、もともとの意味は人の歩く道であるが、そこから転用されて、守るべき原則という意味でも語られる。そのような道は神から来るもので、教理や律法こそは道であって、よく覚えて、それに反しないように守らなければいけないものである。イエス・キリストが私は道をあなた方に教える、と言われたならば、それはそれで素直に受け入れられる。

 しかし、ここではそう言われないで、「私は道である」と教えたもう。

 彼が与えて下さった道をシッカリ把握して、実行しようというのは間違いとは言えないが、適切ではない。我々の場合は与えられた道に重点を置くのでなく、与えたもうた彼御自身に注目するのである。

 ここでは、道はよくよく心に刻んで身につけるというようなものではない。そこを通って御父に達するための筋道である。救いに至る道である。

 次の7節には、本文をどう読むかという問題がある。写本が幾通りかあって、訳文が違って来るし、意味が違って来る。しかし、写本の違いは今日は取り上げないで、日本語になったものを単純に読んで行き、釈義をする段になって、必要ならそれを参照することにしたい。

 「もし、あなた方が私を知っていたならば、私の父をも知ったであろう」。これが、新共同訳では、「私を知っているなら、私の父をも知ることになる」となっている。

 写本の違いなのである。どちらが正しいかは、今、とても問題にしておられないし、黒白をつけねばならない性質のことでもない。

 大事なことは、「私によらなければ父を知ることは出来ない」という点である。言い換えれば、「私を知ったなら、父を知ったのである」。それは、「すでに知った」と言っても、「知るであろう」と言っても、大した違いではない。つまり、我々の神認識は、まだ完全でないという面と、すでに知ったという面との二つを備えているからである。

 「しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

 これを「今から」と訳しているものがあるが、今から後そうなるという意味に取ってはいけない。既に父を見たというのと矛盾する。今とは今そうなっているという意味である。では、その今とは、いつのことか。13章31節に「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」と言われたその瞬間である。キリストの苦難の始まった時である。それまで見えなかったものが、この時から見えるようになったと言っておられるのである。これまで、キリストと一緒に生活し、行動し、その間に彼を知って、そこに父から遣わされた御子であることを確認した、という意味に取ることは間違っていないと思う。9節に、「こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか」と言われた御言葉が示す通り、これまでの長い期間の接触を通じて、キリストを通じて父を知るということが行なわれていなければならなかった。

 しかし、人の子としての主イエスの日常的な立ち居振る舞いの中に神が十分に明らかにされたもうたと見るのは正しくない。「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されたその今を見なければならない。

 「ピリポはイエスに言った、『主よ、私たちに父を示して下さい。そうして下されば、私たちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのである。どうして、私たちに父を示してほしいと言うのか。私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか。私があなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて、御業をなさっておられるのである』」。

 これまでの教えの総括と言って良いであろう。二つの重点がある。一つは、私を見た者は父を見たのである、との宣言である。これは見ることである。繰り返し教えられたが、1章18節が特に有名であろう。「神を見た者は」まだ一人もいない。ただ父の懐にいる独り子なる神だけが、神を顕したのである」。

 もう一つは、「私があなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。

 父が私のうちにおられて、御業をなさっているのである」。これは聞くことに関するものである。キリストの御言葉において、それを聞くことにおいて、神の御業に接するのである。キリストは神を見ることの出来ない人々に、言葉をもって神を説明したもうたのではない。キリストの言葉は説明ではなく、その御言葉そのものが神の業なのだ。その言葉において救いがなされる。

 さらに付け加えて学びたいのは、キリストが世を去りたもうた後も、御言葉の業が継続して救いを行なうということである。我々はそのような業が現に我々において行なわれていることを知っているではないか。

 次の機会に改めて学ぶのであるが、12節で主イエスは「私を信じる者は、また私のしている業をするであろう。そればかりか、もっと大きい業をするであろう。私が父のみもとに行くからである」と言われる。これは、主が世を去りたもうた後の信仰者の働きのことを言われたものである。それは私が今しているより、或る意味でもっと大きい場合もあるのだと励ましておられ、その大いなる業を成し遂げるために、私の名によって祈れと言われる。

 この働きとは所謂「奇跡」、力ある業、また愛の奉仕の業を指していると理解されることが自然であろう。その意味もあるが、今日学んだ10節との関連で、キリスト者たちがキリストの語りたもうた業を引き継いで、キリストの言葉を語って行くという含みを読み取ることが示唆される。その業をなして行くに当たって、助け主、すなわち聖霊が送られるという16節の約束も、この意味に結び付いたものとして読むべきであろう。我々がキリストの御言葉を語る時、キリストの言葉であるから、それは「自分から」話す言葉ではなく、御父が我々において御業をなしたもう、そのような言葉である。だから、そこに救いが事実としてあるのだ。

 

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