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ヨハネ伝説教 第14回

――1:30-34によって――

 「ヨハネはまた証しして言った」と32節の初めに書かれている。32節からの証しは、前の証しに続いていると見るべきであるが、また一面、別の証しである。先のは「これこそ世の罪を取り除く神の小羊」という証しであった。それと勿論無関係ではないが、今度は「この方こそ神の子である」という証し、これが結論になっているように受け取られる。その結論に向けてのものであるが、「私は御霊が鳩のように天から降って彼の上に留まるのを見た」という証し、また「ある人の上に御霊が降って留まるのを見たなら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である」との示しを神から受けていた、という証しである。
 「世の罪を取り除く神の小羊」という証しは、「この方こそそれである」という根本的な定言であるとともに、彼によってなされる贖いの方式を示すものであった。すなわち、彼が世の罪を負って、罪人に代わって償いを果たし、それによって罪の赦しが現実となり、罪人は義とされる、という贖いである。この証言がどんなに大事であるかは、この言葉が教会の中でしばしば使われていることを思い起こすだけでほぼ納得出来るであろう。
 今日学ぶヨハネの証しはそれと違って、「この方によってこそ御霊が我々に降る」ということを言う。先の証言と比べて、重要さにおいて劣るとは決して言えないのであるが、前者の影に隠れてしまって、目立たなくなっているのが実情ではないか。しかし、事柄の重要性については説明の必要もないのではないかと思う。我々は皆、御霊を受けることを待ち望んでいる。そして、ハッキリ言わなければならないが、御霊についての我々の理解と確認は、往々にしてアヤフヤである。だから、「一介のキリスト者であります」と言う時には歯切れが良いが、「では、信者になった時に御霊を受けたのか」と訊ねられるとタジタジとなるばかりか、信仰が揺らぐ場合すら少なくないのである。
 自らの罪について理解し、その罪がキリストによって担われ、彼の死が我々の罪を我々に代わって償ったことを理解する。それを踏まえた上で聖霊について理解する。こういう順序で、我々が自分自身の罪と信仰による救いと、信仰についての知識を確認することは当然だと言って良いだろう。それが基本的である。だが、第一の段階に止まってしまう、あるいはそこを堂々めぐりしている危険がないとは言えない。堂々めぐりから脱出して、新しい人として生きる、とか、御霊の結ぶ実を追い求めるということにならない先に、精力を消耗してしまうというような実情があるのではないだろうか。
 例えば、使徒行伝19章の初めに書かれていることだが、パウロがエペソに行って、信者たちに「あなたがたは信仰に入った時に聖霊を受けたか」と訊ねると、彼らは「いいえ、私たちは聖霊なるものがあることも知りません」と答えた。彼らは「イエスがキリストである」と教えられて信じた。それでも、聖霊については教えられていないから、信じてもいなかった。
 この記事を読んで、自分もそれに近いのではないかと身につまされて感じる人は少なくないのではないか。聖霊なるものがあることは、今日の教会では、教えられて、知識としては知っている。しかし、そういう言葉とか概念を知っているだけで、意味を深く理解することは出来ていず、聖霊の現実、事実としての聖霊、私自身にとっての聖霊の働き、私が聖霊によって生きていることについては何も知らないし、何も心に響かないということはあるかも知れない。
 この弱点がサタンの試みに利用される。この搦め手から様々の禍いが侵入する。「お前はクリスチャンだと言うが、聖霊を受けていないではないか」と切り込まれると、返事の出来ない人が多く、個々人の心が掻き乱されるとともに、教会が掻き乱されるということがある。このような問いは教会の弱点や手抜きについて反省を促す利点があると言えなくないが、殆どの場合、掻き回すだけで終わって、建設的なものを齎さない。問題の取り上げ方が間違っているからである。
 実際、御霊を強調しているが、単なる自己満足の騒乱状態に過ぎない聖霊派がある。彼らがキリスト者でないと決めつけることは差し控えておくが、一人一人己れの十字架を担って主のみ跡について行っているであろうか。「私に向かって主よ、主よ、という者が、ことごとく天国に入るわけではない」と言われた御言葉が彼らの間でシッカリ教えられているのであろうか。
 ヨハネ福音書はこのように間違った路線にそれて行くことがないように、バプテスマのヨハネの立てた最初の証言を我々にシッカリと聞き取らせる。すなわち、イエス・キリストが世の罪を負う神の小羊であるだけでなく、我々に聖霊のバプテスマを与えるお方、また聖霊を約束されるお方であることを今日学ばなければならない。
 さて、ヨハネは33節に「私はこの方を知らなかった」と言うが、前回31節で見たように、ナザレのイエスについて何も知らなかったという意味に取る必要はない。「知らなかった」というのは、「イエス・キリストについての私のいっさいの認識は、私が生来の能力によって獲得したものではなく、神から啓示されたものである」という意味である。
 ヨハネは自分の使命感や自分の着想で、ヨルダンにおける説教とバプテスマの実践を始めたのではない。学びと思想を深めて、先人の到達出来なかった所に達して、キリストの到来の真近であることを予告したというのでもない。ヨハネにどのようにして使命が与えられ、それを遂行する方式が指示されたかについては、神による指示があったという以上のことは分からない。それを探る資料もないから、ヨルダンに現われて活動を開始するまでのヨハネについて探求することは止めておく。
 しかし、分かっていることはある。神は預言者を召す時、何を、どこで、どう語るかまで、かなり細かく指示を与えておられる。それを我々は旧約の預言者の記録から知っている。だから、ヨハネの場合もそうだと考えて良いであろう。「ある人の上に御霊が下って、留まるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である」。この言葉はいつどこで与えられたかを穿鑿することはしないが、活動を始める前に与えられていたことは確かである。
 聖霊のバプテスマによる新しい世界と、新しい人間が、イエス・キリストによって来る、という点がヨハネのこの証言の眼目であるということを理解したい。 「聖霊のバプテスマ」という言葉は、聞き慣れた言い方ではないが、旧約では、聖霊が降ることこそ救いである、と繰り返し教えられた。例えば、エゼキエル書37章の預言である。枯れた骨の散らばった平野の幻が語られる。この平野はバビロンに囚われた人々のキャンプのあった地であり、「枯れた骨」は囚われ人らが自らをそれになぞらえたものである。枯れた骨は、御言葉に命じられると、組み合わさって人体となるが、まだ生命はない。そこに神の息、すなわち聖霊が入る時、これらの人体は生きて、立ち上がり、大いなる群衆となった。つまり、イスラエルの回復である。
 また、同じエゼキエルの36章24節以下にこう言われる。「私はあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなた方の国に行かせる。私は清い水をあなたがたに注いで、全ての汚れから清め、またあなたがたを全ての偶像から清める。私は新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。私はまた我が霊をあなたがたの内に置いて、我が定めに歩ませ、我が掟を守ってこれを行なわせる。あなたがたは私があなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、私はあなたがたの神となる」。霊のバプテスマが示されている。
 例えばまた、イザヤ書11章の初めには、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる」と預言される。エッサイの株から出るメシヤには御霊が降り、聖霊が留まらねばならない。そして、御霊が降る時、救いは全うされることを32章15節以下に言う。「しかし、ついには霊が上から我々の上に注がれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる。その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑に宿る。正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」。イザヤ書からもう一つ引こう。44章3節、「わが僕ヤコブよ、私が選んだエシュルンよ、恐れるな。私は乾いた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを注ぎ、わが霊をあなたの子らに注ぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」。もっと引用することが出来るが、これで十分であろう。
 ヨハネは水のバプテスマを行なうが、それはそれ自体で完結した意味を持つものではなく、聖霊のバプテスマを指し示すものであることを読み取らねばならない。聖霊のバプテスマとは、単に恵みに満たされるという曖昧な意味ではない。ヨハネ伝3章の3節で主イエスはニコデモに示して、「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われたが、その一つ先の5節で、「よくよくあなたに言っておく、誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と言われた。すなわち、水と霊によって生まれることは水と霊によるバプテスマであり、それは恵みを増し加えられることではなく、新しく生まれること、生まれ変わることである。
 キリストが聖霊によるバプテスマを授ける方として来臨されるとは、彼によって結構な世の中になるということではなく、彼によって新しい天と新しい地が開かれるという意味である。そこをシッカリ見据えてヨハネの証言を聞いておこう。
 さて、聖霊によってバプテスマを授ける人かどうかは、見ただけでは分からない。そこで、神は証言者ヨハネに分かるように、「しるし」を添えたもうた。それは、御霊が鳩のように降って留まるという「しるし」である。この「しるし」を見たならば、その方こそ聖霊でバプテスマを授ける方であり、メシヤであると確認される、という方法である。
 「鳩」というしるしは、それの示す事柄に相応しいと思われる。というのは、我々は鳩と聞くと、先ずノアの洪水の後の、オリブの若葉をくわえて帰って来た鳩のことを思い起こすからである。すなわち、古き世界は洪水で一旦絶滅したが、その後に新しい世界が開けていることを鳩の運んで来るオリブの若葉は示していたからである。
 ただ聖霊が与えられるというだけではない。聖霊が与えられる時、それに伴って新しい世界が開け、新しい人が生まれることが鳩によって象徴されている。それはキリストにある新しき人と呼んで良いであろう。
 主イエスのバプテスマの時、聖霊が鳩のように降ったことは、他の三つの福音書にも証言されている。ただし、マタイとマルコのように、鳩が降るのを主イエスご自身が見られたと書くのと、ルカのように「イエスがバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊が鳩のような姿を取ってイエスの上に下った」と客観的に書くのと若干違う。しかし、共観福音書では、大体、主ご自身が鳩の下るのを見られたと伝え、我々もイエス・キリストにおいて聖霊の降るのを確認するという含みで教えると取られる。ヨハネ伝では、鳩のしるしはヨハネが見たと書いている。
 しかし、福音書間の記述の違いを問題にする必要は余りない。鳩は「しるし」また象徴である。すなわち、聖霊によって受胎された御子が、ヨハネからバプテスマを授けられた時まで、聖霊を受けていなかったと考えることは無理であろう。「鳩のように降って来たのを見た」と主が言われたのは、「私の名によってバプテスマが行なわれる時、あなたがたも聖霊を受ける」という意味でなくて何であろうか。使徒行伝19章の言うように、イエス・キリストの名によってバプテスマが行なわれると、エペソの人たちに聖霊が降ったのである。
 ヨハネ伝では、鳩の姿で聖霊が降るが、これは、この方こそ聖霊によってバプテスマを授ける方、すなわち、キリストであることを示す「しるし」(標識)となっている。だから、そのお方からバプテスマを受ける人は、聖霊を受ける。
 それでは、彼が世を去って行かれた後は、彼によってバプテスマを授けて頂くわけには行かないのか。そうではない。主は世を去る前に、もろもろの国人にバプテスマを施せ、と委託を与えたもうた。イエス・キリストの名によってバプテスマを授けるとは、イエス・キリストご自身がバプテスマを執行したもうのと同じ力を持つ。だから、我々はこの方の名によってバプテスマを受けることの意味と効力を確認しよう。
 ここで注意して置きたいのは、「御霊が降る」だけでなく「留まる」と言われている点である。一時的な現象ではなく、これは永続的事態なのだ。すなわち、御霊が降って、その時だけ何かが起こるということではないのだ。
 「留まるのを見たら」というのであるから、ヨハネはイエスに御霊がズッと留まっているのを見たということである。それはどういう具合に留まったのか、良く分からない。その時から後光が射すようになったというようなものではなかったであろう。兎に角、ここでは、御霊が降ることは留まることでもある、という含みがあると見るべきであろう。
 聖霊が降って、その時だけ一時的に奇跡を行なったり、異言を語ったり、気持ちが良くなったりすることを有り難く思う人がいるが、余り意味はない。一時的に御霊が留まることによって、その時だけ何か特別なわざが出来たとしても、永続しなければ、救いにとっては殆ど無意味に近い。
 「御霊の実」ということを聖書は奨めるが、御霊が留まり続けてこそ実を結ぶのである。ヨハネがその方に御霊が降って留まったのを見た、と言ったのは、我々がイエス・キリストの名によって受ける聖霊が、一時的なものでなく、生涯に亙って留まり続けて、実を結ぶことを示唆するためであった。
 「私はそれを見たので、この方こそ神の子であると、証ししたのである」。「神の子」という言葉がヨハネ伝で初めて使われた。この言葉が重要であることを我々は知っている。ところで、新約聖書の古い写本の一つに、「子」の代わりに「選び人」という言葉を当てているものがある。これが正しいテキストではないかと考える人は少なくない。どちらが正しいかを決めることは我々の力に余る問題であるが、イザヤ書42章1節に「私の支持する我が僕、私の喜ぶ我が選び人を見よ。私は我が霊を彼に与えた。彼はもろもろの国人に道を示す。彼は叫ぶことなく、声を挙げることなく、その声を巷に聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示す」と預言されていることと良く符合することは確かである。
 しかし、「神の子」なのか、「神の選びたもうた僕」なのか、どちらかでなければならないとは言えまい。ここでは要するに、イエスはキリストなのだということなのだ。我々はそれで満足し、キリストにおいて聖霊が我々に与えられることの確かさを把握して満足しよう。それは確かであるから、聖霊が与えられるのが遅ければ、実現まで忍耐と希望をもって待てば良いのである。キリストの名にはそれだけの確かさがある。
1999.08.15

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