2003.01.12.

ヨハネ伝講解説教 第138回

――13:36-38によって――

 ペテロの躓きあるいは、ペテロの否認と呼ばれる事件は、キリスト者の間でよく知られている。それは、ペテロという特殊ではあるがまた多くの人の理解し易い性格を持った人間にまつわる一つの挿話のように見られる場合が多い。なるほど、ペテロが一本気で、先生の身を思う忠実さがあり、気負いもあり、しかし軽薄で、意気地なしであって、「あなたのためには命も捨てます」と一度は言う。しかし、数時間後には恐くなって、「その人を知らず」と言ってしまう。

  これをペテロの性格を描いた劇であると見、この劇の主人公の姿に幾らか似たところのある自分自身を重ね合わせて、シンミリと納得する。こういう読み方がかなり広く行われている。それが聖書の一つの読み方であることを否定しない。しかし、それでは一つの挿話として読むに過ぎない。文学を鑑賞しているだけなのではないだろうか。聖書を読むとはそんなものではない。

  しばらく前、我々は同じくペテロの出て来る一つの場面を見た。主が順番に弟子の足を洗って行かれた時の、主イエスとペテロやり取りであった。先生に洗って頂くのは申し訳ないという律儀さと、自分は洗って貰わなくても良いという自負、しかし、その意義を教えられると、「足だけでなく頭も体を全部洗って下さい」と悪乗りする軽さ。……これもペテロらしい対応だと言えなくはないが、我々は一つの挿話としては扱わなかった。これはキリスト者の聖化、潔めについての教えであると聞き取った。ここにも、ペテロのペテロらしい受け答えが読み取れたのであるが、我々はペテロと我々を結び付けるのでなく、ペテロにおいて弟子一同に共通し、いや、主に従い行く者すべてに共通する教え、救いに関わる教えを聞き取ったのである。

  ペテロの否認の記録は全ての福音書に共通して出ている。記事は基本的な点では一致している。なぜそのように良く一致しているかについて、推測しても余り意味はないと思うが、ペテロその人がこの物語りを語り広めたと見ても無理のない推理である。ペテロにとって忘れることの出来ない大失敗であり、一生自らの恥をさらして己れを責めた。

  そのように語ることによって罪の赦しがよく分かり、その体験によって躓きの中にいる人に希望を与えた。彼の殉教の時、自ら願って十字架に逆さにつけられたとの言い伝えは、言い伝えに過ぎないかも知れないし、真偽を明らかにしたいとは思わないが、如何にも本当らしく我々には聞こえるのである。

  だから、そのようなドラマの一シーンとして、36節から38節までの部分を捉えることは十分出来るのである。それで不都合が生じるということもないであろう。ただ、今回は、主イエスの御言葉を中心として見て行く。その方がはるかに大きい意味と力を持っているのである。

  36節から見て行こう、「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたは私の行くところに今はついて来ることは出来ない。しかし、後になってから、随いて来ることになろう』」。

  こう言われた時、ペテロは「主よ、なぜ、今あなたに随いて行くことが出来ないのですか。あなたのためには命も捨てます」と異議申し立てをする。命を捨てるだけの覚悟をしている者に、随いて行くことが出来ないと申し渡すのは、余りに私を無視し過ぎではないですか、と不平を言うのである。しかし、主イエスの言わんとされたことが丸で分かっていない。その点を見て行こう。

  四つの福音書のペテロの否認の記事が良く一致していると先に言ったが、細かく言えば、違っている。述べられている主旨も同じではない。今ヨハネ伝で読むところに相当する記事をルカ伝で拾うと、22章33節である。「シモンが言った、『主よ、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です』。するとイエスが言われた、『ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう』」。――一緒に行く覚悟だという点ではヨハネ伝と同じであるが、ヨハネ伝では「私の行くところ」と主が言っておられる。そこに特色がある。

  マタイとマルコの記事も上げておこう。マタイでは26章33節、マルコでは14章29節であるが、ほぼ同じ文章であって、このようになっている。「ペテロはイエスに言った、『たとい、みんなの者が躓いても、私は躓きません』。イエスは言われた、『あなたに良く言っておく。きょう、鶏が二度鳴く前に、そういうあなたが、三度、私を知らないと言うだろう』」。ここでは私は躓くことはないと言い張っている。

  主が言っておられること、また言おうとしておられることが、ヨハネ伝では違うのだ。

  今、言ったように、36節では「私の行くところ」と言っておられる。この言葉は今までは余り注意しないで読んで来たが、あちこちで聞いて来たものである。

  すぐ前の所で、33節に、主は「すでにユダヤ人たちに言った通り、今あなたがたにも言う、『あなた方は私の行く所に来ることは出来ない』」と言われた。36節はその続きなのである。先にユダヤ人に言われ、次に12弟子に言われ、そして今、ペテロに言われているではないか。「私の行くところ」という言葉がヨハネ伝では重要だということに我々はもう気付いて良いではないか。

  この言葉が重要だということは、14章に入った初めの数節で、いよいよ明らかになる。

  主は言われる、「場所の用意をしに行く。そして、場所の用意が出来たならば、また来て、あなた方を私のところに迎えよう。私のおる所にあなた方もおらせるためである」。こうまで言われたのに、トマスは、「主よ、どこへおいでになるのか、私たちには分かりません」とピント外れの返事をする。続いてピリポも、同じくわけの分からぬことを言っている。だから、主が「私の行く所」と言われたことについて、我々がシッカリ学ばなければならない理由も分かる。もうペテロの個性というようなレヴェルのことを論じているべきでないことは明らかであろう。

  さて、「すでにユダヤ人に言った」と語られるその箇所というのは、7章34節である。

  仮庵の祭りの半ばになってから、主イエスは宮に登って教え、宮の中に緊張が走った、その時である。この節の少し前から読むと、主はユダヤ人に言われた。「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く。あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして、私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」。

  主がペテロに「あなたは私の行くところに今はついて来ることは出来ない」と言われたのは、「私は私をお遣わしになった方のみもとに行く」と言われたことの解説であると捉えたい。3章13節で言われたように、「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はいない」のであって、父のみもとに上る者は御子のほかにいない。ペテロは天から下って来た者ではないから、天までついて行けないのである。

  6章62節でこう言われた、「このことがあなた方の躓きになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所にのぼるのを見たら、どうなるのか」。この言葉で多くの弟子が、実際、躓いて去って行ったことが直ぐ後に書かれている。キリストがもといたところに昇りたもうことは、そのように躓きを起こすほどのものであった。すなわち、それは人間の理解力を越えた奥義であった。信じない者には立ち入れない領域である。

  主イエス御自身、「私に随いて来なさい」と言って弟子を召したもうたのであるから、召された者が一緒に行くのは当然なのだ。この召しには祝福の約束が伴っていて、随いて行く者は主のおられる所におることが出来る。このことでは、12章26節のお言葉がある。「もし私に仕えようとする人があれば、その人は私に従って来ればよい。そうすれば、私のおる所に私に仕える者もまた、おるであろう。もし、私に仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。だから、ペテロが今夜も随いて行こうとしたのは、それなりの正当なことと言えなくない。しかし、「今は随いて来ることは出来ない」と言われた。弟子は、これまでは随いて来ることが出来た。ルカ伝の最後の晩餐の記事の中で、主イエスは「あなた方は私の試練の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」と言われたが、それは彼らに随いて来る力があったからだと言っては正しくない。「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守り、また保護して参りました。彼らのうち、誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました」と17章12節で言われた通りであって、恵みのもとでここまでついて来られたのだ。

  だが、ここで転機が来る。彼らはもう随いて行くことが出来ない。「彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります」と言われる通り残されるのである。勇気がないから行けない、という理由ではない。行くことが出来ない定めなのだ。

  ちょうど、旧約の神殿の聖所で、大祭司だけが、定められた時に、犠牲の血を携えて幕の内に入って行き、イスラエルといえども、他の一般人は勿論、祭司も祭司長も入って行くことが出来なかったのと同様である。この職務はキリストである御子のみの果たし得るものなのだ。このことについて、へブル書9章11-12節は確定的なことを教えてくれる。曰く、「しかし、キリストがすでに現われた祝福の大祭司として来られた時、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕を通り、かつ山羊と小羊との血によらず、御自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠の贖いを全うされたのである」。

  イエス・キリストだけが贖い主である。その職務に参画する者はいないのである。大預言者にも、大使徒にも入れない。天使なら行けるか。天使も贖い主になることは出来ない。人となりたもうた神、神の御子のみが入って行かれる。

  ところが、主はさらに続けて言われる。「しかし、後になってから、ついて来ることになろう」。これはペテロが殉教の死を遂げることを示唆したお言葉ではないかと見られている。その意味もある。だが、それだけの意味ではないと思う。21章18節で、「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩き廻っていた。しかし、年をとってからは、自分の手を伸ばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結び付け、行きたくない所へ連れて行くであろう」と言われるが、ペテロの生涯の終わりが殉教であることだけでなく、そこに至るまでが服従の生涯であることをも示されている。

  「後になってから」とはどういう意味なのか。或る程度時間が経ってからのことを予告しておられるのは確かだが、当然すぎて話しにならない。その意味では何も解き明かされてはいない。そこで「後になってから随いて来る」とは、単に時間が経って変わるというのでなく、後日、今私が行くのと別の意味で随いて来るということである。つまり、犠牲の血、しかも自分自身の血を携えた大祭司として、キリストと同じ資格で、父なる神のみもとに至るというのではない、という意味を語っておられるのである。

  キリストが唯一の贖い主、仲保者として行きたもうのとはとは別の意味で、主は弟子たちに「私に随いて来なさい」と言われた。すなわち、第一に服従者であれと命じられる。先に12章26節から引いた通り、キリストに仕え、服従する者は神から誉れを得ると約束されている。

  第二に、模範に倣う者であれと命じられる。これも命令であるとともにまた祝福である。すなわち、具体的なことまで何もかも指示されるというのではない。我々の踏み行わねばならない箇条がビッシリと書かれた板が与えられたのではなく、一人の人が与えられ、何につけてもそのお方を見ならえば良いのである。喜びも苦しみも見ならうのである。

  第三に、彼と共に生きる。彼の命によって生きる者となるのである。すなわち、復活の命、死に勝利する命によって生きるのである。これは主の復活を体験して後のペテロの生き方であった。さらにその後、主は約束して置かれた聖霊を注ぎたまい、弟子たちは聖霊の力を受けて世界伝道に出て行く。そして、遂に命を捧げる。

  ペテロは後になってからは随いて行くことが出来た。これは時間を掛け、経験を重ねて成長したから出来たということでもないし、キリストと同じ地位に昇るという意味は全然ない。キリストと等しい栄光を受けたのでもない。しかし、光りに照らされる物が光るようにして、キリストに従う者はキリストの栄光に与る。後世の人がペテロをキリストに次ぐ栄光の座に祭り上げるという意味ではなく、ペテロはキリストに従う者の謂わば見本なのだ。主イエスはペテロという一個の人物において、御自身の潔めに与る者がどのようにして、またどのような意味で潔められるかを先にお示しになったが、「今随いて来ることは出来ないが、後で随いて来る」と言われたのも、同様な主旨である。

  「ペテロはイエスに言った、『主よ、なぜ、今あなたに随いて行くことが出来ないのですか。あなたのためには命も捨てます』」。

  これが軽はずみな身の程知らぬ言葉であることを我々は知っている。だから、今はその意味を大きく取り上げる必要はない。今晩中に「その人を知らない」と三度も言ってしまうような人が、「あなたのために命を捨てます」と言ってみても空しいのだ。このことはよく心得て置きたい。

  ただし、覚悟を述べることに何の意味もないと受け取っては、正しくない。覚悟しても崩れるのだから、覚悟しない方がましだという口実は、逃げにしかならない。また、ペテロがその決意を述べたことは結論的には虚言であったのだが、見せ掛けの言葉を披瀝しようとは毛頭思っていなかった。決意をむやみに語らぬ方が奥床しいのであるが、決意表明を全然してはならないということもないであろう。信仰者は召された以上は、具体的な用事がなくても、備えをしていなければならない。

  「よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたは私を三度知らないと言うであろう」。この予告はこの通りに実現した。その次第は18章17節、25節、27節に記されているからそこで見ることにしたい。

  「私のために命を捨てると言うのか」と主イエスはペテロに言われた。ペテロが言った言葉が浅薄なものであったことを知っている我々は、同じ愚かな過ちをしたくないので、主のために命を投げ出すというようなことは言うまいとしがちである。その用心深さはそれで良いであろう。しかし、「後でついて来る」といわれた点に思いを向けなければならない。

  我々が見せびらかすためには勿論、義務感で勇ましいことを言っても、それは空しい。

  しかし、主の備えたもう時が来るかも知れない。そのとき何をどう言おうかと前もって心配しないが良い。御霊が言うべきことを授けて下さる、と主はマルコ伝13章11節で教えたもうのである。

    

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