2003.01.05.

ヨハネ伝講解説教 第137回

――13:31-35によって――

 ユダが最後の晩餐の席から立ち去ったのは、27節で主イエスが彼に語っておられる通り、そのしようとしていたわざを実行するためであった。ユダには計画があった。それはまだ誰にも知られていないはず、主イエスも知っておられないと思われていた。ところが、その計画の実行について、彼は考えあぐねていた。晩餐の終わらぬ先に立ち去ったなら、誰もが不審に思うであろう。胸のうちの計画を見抜かれるかも知れない。用心して毎晩行っている場所を避けるかも知れない。

 だから、極力目に付かぬように、食事が終わって、一同が外に出て、いつものようにオリブ山に向かう機会に、そっと一同から離れ去ろう。ユダはそのように考えていたのではないかと思われる。夜のうちに裁判を2回しなければならないから、なるべく早くしてくれと祭司長から注文をつけられていたので、少しでも早くここを抜け出して、祭司長の所に行った方が良いのだが、それが難しく、行動を開始する機会がなかなか来ない。食卓の話しは長くなるかも知れない。だが、何もかも知っておられた主イエスの御言葉がユダに計画の実行を促した。――主がすでに知っておられたとはどういうことか。

 考えて見なければならないことだったが、ユダは焦っていたし、よもや気付かれているまいと思っていたのに、主イエスから指摘されたことで、度を失なっていたから、考える余裕はなかった。

 我々も気を付けなければならない。ドラマの緊張した場面にのめり込んで、ドラマを味わうことしか眼中になく、この場面から示されている深遠な意味を、考えなしに読み過ごしてはならないのである。すなわち、ここでは我々の救いに関することが示されているのである。我々の目をその方に向けなければならない。

 ユダの裏切りに関しては、主イエスこそが主導権を取って進めておられたのが真相だということをすでに学んで来た。今、主はユダを去らせることによって、そのことをさらにハッキリさせたもうとともに、あとの弟子たちに教えを授ける時間を確保しようとしたもうたようである。それは、彼が出て行くや否や、主が直ちに語り始めたもうたこのタイミングを見ることによって明らかになる。

 「さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた』」。これは宣言である。先ず「今」という時点が強調されている。それはユダが去った時である。幕があいた。去ったとは裏切りである。裏切りとは、主が引き渡されることである。

 主はまだここにおられるが、事実上、罪人の手に引き渡されたのと同然である。このあと、主がオリブ山に行かないで他の場所に行ってしまうとか、ユダに案内された捕っ手の一隊が襲って来た時に、姿を隠すとか、俗に言うドンデン返しを起こす機会は幾らでもあった。しかし、主はそういうことはされない。ユダが立ち去ったことでことは確定した。

 我々が同時に見なければならないもっと大事なことは、キリストの栄光もこれで確定したということである。ここから展開して行く場面は、普通「受難」と呼ばれる。そして、我々も通常、受難と、三日目の復活において露わになる栄光を、切り離しはしないが区別する。別々のことが「三日目に」という言葉で連結される。こういう捉え方の方が理解のための整理に向いていて、この整理を覆すことは主もなさらない。他の三つの福音書に即して見て行くならば、こういう把握になる。

 しかし、もう一つの捉え方があることを我々は今日ヨハネ伝によって知らなければならない。今日聞く御言葉がそのことを示すのであるが、栄光は三日目を待つまでもなく、今、ユダが出て行ったと同時に始まったのである。あるいは、苦難に栄光が重なっていると言っても良いであろう。とにかく、苦難のはじまりは栄光のはじまりである。

 そういうことを強調しても大して意味がないではないかと思う人も多いであろう。しかし、我々は極めて実際的なことから、この結び付きの重要性に気付かせられているのである。すなわち、我々は苦難の中にいながら栄光を味わうことが出来る。それは単に約束されているというだけでのことではなく、現実に、栄光をなにがしか味わっている。

 世間的に見れば敗北そのものであるが、その悲惨の中で、勝利の喜びを歌うことが出来る。

 今は苦しいが忍耐して希望を持ち続ければ、やがて勝利の朝が来る、という耐え方もある。我々の人生の現実ではこういうふうにひたすら耐えて来たるべき日を待つ場合が多い。しかし、それだけでなく、今の苦難の日々の中で、すでに勝利を味わうことが、我々には特権として与えられている。その根拠は今日学ぶところにある。すなわち、イエス・キリストが裏切られた苦難の中で栄光を宣言しておられるその事実が、キリストから我々に伝達され、我々の生の基礎となる。それをハッキリ示すのが聖晩餐であるが、これは我々に敗北の中に勝利があることを保証する。

 今、キリストは栄光を受けたもうた。神も、今、栄光を受けたもうた。そして、次の節に、神は彼に栄光をお授けになるであろう、と言われる。すでに栄光を受けた。だが、その栄光が露わに見られるのは少し先になる、という意味である。すなわち、復活のことを語っておられるようである。

 苦難と栄光とが、或る意味では、一枚の紙の両面のように一体となっているということも言えるが、他面、違いがあることは確かである。結び付いてはいるが、同一ではない。そのことはここで「栄光を受けた」という言い方と、「栄光を授けられるであろう」という言い方の違いとして示される。――日本語では「栄光を受ける」、「栄光を授けられる」は別々の言い方になっているが、ギリシャ語では同じ語である。同じ動詞の不定過去(アオリスト)と未来の時称の違いなのである。

 ただし、栄光を授けられるであろうと未来形で言うならば、今後ではあるが、それがいつなのかは分からないという程度でしかなく、不確かである。そこで、「直ぐにも栄光を授けられるであろう」と続けて言われる。しばらく後である。すなわち、三日目である。栄光に関しては、短い時間であるが、見た目には隠される。しかし、「人の子は栄光を受けた」と言われたのは確かなことであって、栄光が棚上げになったということではない。約束の確かさを信じる故に、まだのことでも既に起こったと看倣すというのでもない。

 今、見て来た「栄光」という観点から見られることのほかに、今日の聖句の中には出て来ない言葉だが、「人の子は去って行く」、「また帰って来る」がある。この一対の結び付きも重要であるが、栄光をしばらくのちに受けるというところで見たのと同じように考えてはならない。16章16節には、「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし、またしばらくすれば、私に会えるであろう」と言われる。去って行かれた主はまた来られる。この帰って来る約束も大切である。しかし、三日目に帰って来るのではなく、復活の後、主は彼らを離れて父のみもとに昇られる。すなわち、弟子たちは地上に残される。17章12節に「私はもうこの世にいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとにまいります」と言われる通りである。この点で、弟子たちはこれまで知らなかった新しい状況の中に生きなければならない。だから、新しい教えが必要である、その教えが17章の終わりまで続くのである。

 33節に言われる。「子たちよ、私はまだしばらくあなた方と一緒にいる」。これは極く短い間しかいないという意味である。「あなた方は私を捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言った通り、今あなた方にも言う、『あなた方は私の行く所に来ることは出来ない』」。

 先にユダヤ人に言われたのは、7章33-34節である。「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く。あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」。13章33節の御言葉と似ていて、尋ねて行こうにも行けない所に去ってしまわれる点では共通しているが、13章の方では主が去って行かれることによって生じる務めが与えられる。

 ただし、今ここには十二人の一人であったユダもいず、誰にでもあてられた教えが始まるのではない。新しい戒めを授けられる人々だけが教えを受ける。「私は新しい戒めをあなた方に与える。あなた方は愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」。

 また、そのことを言われるに先立って、かつてユダヤ人に対して言われた「あなた方は私に随いて来ることが出来ない」というお言葉を33節で弟子たちに与えられたが、この言葉はさらに36節でペテロに向けても語りたもう。ペテロに語られたことについては次回に見るようにしたい。

 主が去って行き、栄光を受けたもうが、弟子たちは地上に取り残される。それは厳しい状況である。16章32節では、「見よ、あなた方は散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を一人だけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている」と言われる。これは主が取り残される有様を言うのであって、弟子たちが取り残されることではないが、残された弟子の状況は厳しい。15章18節以下では、世はあなた方を憎む、と言われる。16章2節では、「人々はあなた方を会堂から追い出すであろう。更に、あなた方を殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」と言われる。

 周りを全部敵に取り囲まれる中にキリストの弟子たちは取り残される。それも、単なる悪意や理解力の不足から来る迫害ではなく、それによって神に仕えていることになると信じての迫害である。すなわち、ユダヤの宗教の純潔を守るためにはこの戦いをしなければならないと使命を感じてなす迫害である。最初のうちは理解してくれる人がなく、そのうちにボツボツ理解者が出て来るというのではない。キリストに従う者とは天を共に頂かない、と呪いを掛けるものも現われる。

 私がいなくなるのに後に残される弟子たちが可哀想だというのではない。17章6節で「あなたが世から選んで私に賜わった人々」と言っておられるが、彼らを単に憐れんでおられるのではない。彼らはキリストの民なのだ。

 主イエスはここで御自身の民を編成しようとしておられると言えば、分かり易いかも知れない。民の編成ということで思い起こすのはモーセがシナイでエジプトから出て来た民を編成した事件である。エジプトから解放されたというだけでは何の纏まりもなかった。この民にモーセは神の律法を授けた。

 そのことをここで思い起こすのはまことに適切であった。モーセがシナイで編成したイスラエルの民は12の支族からなっていたが、主イエスが編成したもうた新しい民は、本来12人であるべきところ一人欠損した11人であった。数のことは深く考えるには及ばないであろう。人数は象徴的な意味を持つと理解すれば良い。

 モーセによって与えられた戒めは十であったが、キリストによって与えられた戒めは一つであった。「私は新しい戒めをあなた方に与える。あなたがたは互いに愛し合いなさい」。キリストの民はこれによって立つのである。「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。私が愛したように、という規準があり、また具体的な模範がある。

 これは「新しい」戒めだと言われる。古い戒めに対する新しい戒めということを読み取らねばならない。また、新しい戒めとは、これまでは主がいつも共におられたから戒めが必要なかったが、今では新しい事態の中ではキチンとした形で必要であるという意味がある。

 モーセの十戒と比べて、一つでは物足りないと思う人はいないと思うが、全く無意味な議論である。また、旧約においては、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神なる主を愛さねばならない、また、あなた自身を愛するのと同じように、あなたの隣り人を愛しなさい、と命じられたのと比べて、「互いに愛し合え」というのは仲間内で愛し合うことしか教えない消極的な論法ではないかと批判する向きがあるかも知れない。それは浅薄な理解である。

 「互いに愛し合う」ということについて誤解してはならない。「あなた方が自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあるだろうか。そのようなことは取税人でもするではないか、と主はマタイ伝5章46節で言われたではないか。マタイ伝で禁じたことをヨハネ伝で命じたもうというようなことがあろうか。

 互いに愛し合うとは、そのような低次元の、またこの世の原理に則った愛ではない。これはむしろ奥義と呼ぶことが出来るほどの深い意味を持っている。先に見たように、主は私があなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさいと言われ、我々の愛する愛がどこから発するかを示しておられる。我々のうちに生来ある愛は自己保存的な愛に過ぎない。その愛によって愛し合うなら、自己愛の変形としての相互愛で、それは自己矛盾を起こして崩壊して行く。こういう愛と全く対照的な愛が聖書で教えられる。例えば、ヨハネの第一の手紙3章16節は教えて言う。「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った。それゆえに、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」。

 キリストが我々に注いで下さる愛は我々のために命を捨てて下さった愛であるが、それよりもさらに根元的な愛も教えられている。ヨハネの第一の手紙の4章10節に言う、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある」。

 神の愛があって、それによってキリストが遣わされ、キリストがその愛をもって御自身を我々のために差し出し、こうして愛を知ったからには我々も兄弟のために命を差し出すことを厭わない。こういう順序で神の愛が我々のうちに具体化する。

 では、神に愛され、キリストに愛される我々が、互いに愛し合うのはどうしてなのか。

 価なしに受けた愛は、また、報いることの出来ない人に価なしに差し出すべきではないか。確かにそうなのだ。しかし、互いに愛し合えと言われたのは、愛し返すことの出来る者を愛せよということではない。

 ヨハネは後年第一の手紙の1章3節で、「私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストの交わりのことである」と言った。ここで「交わり」と言っているのを「愛」と言い直しても良いのである。すなわち、私たちの愛は、父ならびに御子キリストの愛と関連しているということになる。その父ならびに御子キリストの愛とは何か。それは父なる神が私を愛し、私が父なる神を愛する愛、またキリストが我々を愛し、私がキリストを愛するその愛の中にあなたを受け入れると取っても間違ってはいないと思う。

 しかし、父ならびに御子イエス・キリストの愛というのは、御父と御子の交わりの愛のことではないか。父は永遠に御子を愛しておられ、御子も永遠に父を愛しておられる。

 同じように解釈すべきものとして、ヨハネ伝10章14-15節である。「私は良い羊飼いであって私の羊を知り、私の羊はまた、私を知っている。それは丁度、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」。この句の知るというところを愛すると言い換えて良いのである。

 父なる神と御子なる神との間に永遠の愛の関係がある。これが根源の真理なのだ。その愛の関係に即して、キリストの弟子同士の間に愛の関係があるとき、これは愛の実践という以上の真理そのもの、命そのものであり、それゆえ、全ての人はあなた方が私の弟子であることを認めるのである。すなわち、神のうちにある愛を写し出すことによって、教会はキリストの教会であることを証するのである。

   

目次