2002.12.15.
ヨハネ伝講解説教 第136回
――13:21-30によって――

我々は主イエスの死を記念するごとに、「主イエス渡されたもう夜……」という定められた言葉を聞いている。これは聖晩餐の礼典を定めた主の言葉で、主の制定に基づいて聖晩餐は執行される。そこで聞く「渡される」という言葉は、救いと極めて深く結び付いたものとして我々の心に焼き付いている。
 では「渡される」とは誰に渡されることなのか。マタイ伝26章45節には、「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ」と言っておられるところから明らかなように、主は罪人に渡されたもうた。
 その罪人らとは誰のことか。前後関係から明らかであるように、それはイスカリオテのユダに手引きされた捕っ手の一隊、さらに、こうして捕らえられたキリストが引き行かれたユダヤの議会である。主はそこからさらに異邦人の権力に渡されたもう。
 事件の経過は確かにそのように示している。しかし、「主イエス渡されたもう夜」という言葉を聞き続けている人々、それはつまり我々のことであるが、我々は受難事件の経過を見るだけでなく、ことの結果をも示されているので、主が罪人の手に渡されたもうという場合の「罪人」、これが、結局は、罪人なる私自身として捉えられるということを知っている。
 主が言われた時の本来の意味から飛躍し、もとの意味が転化して、「渡される」という言葉は「主が我々のものとなりたもう」という意味になる。だからこそ、彼の御体を受けるという言い方が確かなものになる。
 さて、今日学ぼうとしている21節に、「裏切り」という言葉が出て来る。これは実に忌まわしい言葉なのだが、「渡す」と訳される言葉と、「裏切る」と訳される言葉は同じなのだ。渡す、渡される、に統一した方が却って分かり易いのではないか。確かに、ギリシャ語でも、裏切るという意味はあるので、そう訳さないと、キリストを引き渡したユダの心の闇は把握し難いかも知れない。しかし、とにかく、裏切りという人間的な臭みの強い言葉を訳語として当てることによって、人間的な解釈が入りすぎる危険があることに注意する必要があるのは確かである。
 もう一つ、触れておきたいのは、ユダによるキリストの引き渡し、これが唯一独特な事件だったということである。これと並ぶ事件は世の初めから終わりまでこの他にない。
 キリストの十字架がただ一度であったことと並べては奇異に感じられるが、ユダの裏切りもただ一度である。
 しばしば比較に挙げられるのはペテロの否認である。これも裏切りと呼ばれることがある。人々の常識的感覚から言えば、裏切りと呼んで可笑しくない。だが、聖書における取り扱いはユダの行為と全然別である。軽い罪という意味ではない。これだけで、確実に永遠の滅びに行くことになるからである。恐怖によって、告白すべきことが告白できなくなった、と説明することは出来るが、その説明によって滅びを免除されることは決してない。それにしても、ペテロの背反はキリストを渡すことではなかった。
 21節にこう書かれている。「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、厳かに言われた、『よくよくあなた方に言っておく。あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている』」。
 この裏切りは、今言ったように「渡す」こと、「引き渡す」ことである。弟子の一人が裏切ることによってドラマが大逆転した、というふうに読むことを我々はしないが、そのように読むことも出来なくはない。ただ、ドラマの感銘を求めても結局は意味がないと知らねばならない。
 指導者の間で主イエスを殺そうとする殺意は日に日に募っていたが、主の身柄は昼間は安全であった。民衆の目が見ていたからである。彼らは主イエスに好意的ではあったが、信じて帰依していたわけでは必ずしもない。けれども、大祭司らがイエスを捕らえて裁判に掛けようとするならば、民衆は騒ぎだす。特に今、祭りのために上京しているガリラヤ人も多いので、祭りの間は絶対に騒ぎを起こさないようにしなければならない。
 だから、民衆の目が見ていないところで拉致し、裁判に引き渡して、死刑判決をしてしまわなければならない。とするならば、夜のうちに逮捕して、裁判をしなければならない。ところが、夜になると主イエスはエルサレムを出て行かれる。その身辺は12人の弟子が警護しているから、暗殺するわけには行かない。どこで夜を過ごしておられるか知っているのは12弟子だけである。12人の誰かが、その場所に捕っ手の一隊を案内しなければ決して逮捕することは出来ない。ユダの裏切りとはこういう事情のもとで起こった。
 ユダの裏切りについて主イエスが知っておられたことは、13章の初めで、またそれまでにも何度か見ている。だから、予定通りのことが起こるのを、冷静にまた平然と告げたもうて良かったのではないか、と言う人もいるのではないか。「心が騒ぎ、厳かに言われる」というような物々しい告知の仕方は、この場にそぐわないのではないか、と思う人もいるであろう。「厳かに言う」とは証しするという言葉である。来たるべきことについての預言である。
 確かに予定されていたことが起こっただけであって、考えつくこともしなかった、またそれゆえ心の準備の出来ていなかった苦難に遭われたと考えることは出来ない。しかし、決まっていた通りであったから、何事もなかったのように平然と苦しみに立ち向かいたもうたと理解するのも味気ない解釈である。それでは受難でなくなってしまう。我々のために受難したもうたことが、せいぜい見せ掛けの苦難であって、主イエス御自身はホントウは苦しんでも悩んでもおられなかったと見るならば、我々の救いの確かさはどこかへ吹き飛んでしまう。
 主はホントウに苦しみたもうたのである。我々の嘗めるあらゆる苦しい試練の中で、主の受けたもうた苦難はもっと苛烈なものであったと知らずにはおられなくされ、それが我々の忍耐を支えるという経験を信仰者は持つであろう。主の苦しみは肉体的苦痛だけでなく、神から捨てられる精神的苦痛であり、弟子から裏切られるという心中の大きい苦しみであった。「心が騒ぎ、厳かに言われた」と書かれていることを、軽く読み過ごすことがないようにしよう。
 しかし、殆ど取り乱したようになられたのは一瞬のことであって、厳かに申し渡された時には、すでに苦難を克服しておられた。そして、「よくよくあなた方に言っておく」との前置きは事の重要さを示したものである。
 「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」。こう言われた主旨は、19節に書かれていたことと同じである。「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言っておく。いよいよ事が起こったとき、私がそれであることを、あなた方が信じるためである」。――すなわち、「あなた方が信じるため」と言われるのである。
 とんでもない事件が起こる。だから、あなたがたが動揺しないように警告しておく、という意味に受け取る人がいるかと思うが、そういう点に重きを置き過ぎては読み違いを起こし易い。
 12人の一人として選ばれていながら、裏切った者がある。そういうことだから、教会において重要な役職を担うと見られている人のうちに、裏切り者がいる。だから、警戒しなければならない、というふうにここを解釈するのは、或る意味で当たっているように思われるかも知れないが、殆ど意味がない。すなわち、自分がユダにならないように気を付けるなというらば、何ほどかの意味があるであろうが、人は普通ここで誰が裏切り者であるかを詮索したいとおもって、好奇心を募らせ、また誰がユダであろうかという疑心暗鬼、相互不信に鳴り勝ちである。だが教会の徳を建てることには全然ならない。
 また、自分自身に対する警告は或る程度意味があるとしても、自分はユダではないかと心配して自己検討しで悩みに悩んでも、得るところは何もない。
 主イエスは12人をお選びになったが、選ぶ時、十分承知の上で、その中にユダを入れて置かれた。それによって御旨が実現されるためである、ということも既に学んでいる。
 裏切りの予告によって、弟子たちの間で大動揺が起こって、一人一人「まさか私ではないでしょう」と言ったとマルコ伝14章19節には書いてある。自分には打ち消す確かさがない。だから、主から「お前ではない」と言って頂かなければ安心出来ないので、尋ねるのである。
 ヨハネ伝では、少し離れたところにいたペテロがイエスの愛しておられた弟子にそれを聞き出させようとしたことが書かれている。それは12人の中で最も若かった弟子ヨハネである。ここで、この食事の席の並び方について説明する。
 ローマ時代の食事の風習は、体を横たえて、左手で頭を支え、右手をあけておいて、右手で食物を掴んで口に運ぶというものであったらしい。したがって、この13人の食事の席は、真ん中に食卓があり、食卓に近い方に頭があって、足は食卓に遠い方に投げ出されていたと想像される。
 先にあった主イエスによる弟子の足の洗いも、こういう配置のままで行なわれたのであろう。弟子たちは中央に頭を寄せあい、仲間同士喋りあい、足を外に投げ出して洗ってもらうに任せていたということも分かって来る。
 さて、23節には、「イエスの愛しておられた者がみ胸に近く席についていた」とあり、24節には、「その弟子はそのままイエスの胸に寄り掛かって、うんぬん」と書いてあるが、ヨハネは主イエスの直ぐ右側にいた。右に開けた形で横になっているから、ヨハネが主に話し掛けるときは、主の胸に倒れかかるような形になったのであろう。慣れ慣れし過ぎるように感じて、不快に思う人があるかも知れないが、そういう実情ではなかったかと思われる。
 イエスはヨハネに答えられた、「私が一切れの食物を浸して与える者がそれである」。
 そして、一切れの食物を浸して取り上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
 恐らくパンをちぎって、鉢に入れたソースをつけてユダに差し出された。それは食卓の主が僕たちにしていた風習で、人々の注意をそそる特別なことは何もなく、これを渡された人がそれなのだという極めて単純な表示であった。しかし、単純過ぎたからか、弟子たちには分からなかった。
 「誰が裏切るのか」との質問に対する答えはこのように平易に示された。誰が裏切るかというような、意味のない、また危険な質問に、普段ならお答えにならず、「問う前にもっと自らに問うことがあるではないか」と突き返されるのではなかったか、と思われるが、今はそのことにはかかずらわないでおく。
 ユダに一切れの食物を与えて、この人がそれなのだとハッキリ示されたのであるが、それでも弟子たちには何のことか分からなかったと28節に記してある。だから、ユダのことを知らせても禍いがおこることはないと見ておられたのであろう。この一切れのパンをユダに渡したもうたことが、非常にハッキリとした指名に違いないが、もう一つ、ユダが詩篇41篇の言う、「私のパンを食べる者」であることを示す行為であった。このことが旧約聖書の成就であることをしめすのが目的である。一切れのパンとサタンに唆された裏切りと何の関係もない。
 「この一切れの食物を受けるや否や、サタンがユダに入った」。――この時、パンと一緒にサタンがユダに入ったのか。そうではない。「夕食の時、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」と2節に書かれていた。サタンという言葉がほかで使われないのに、ここにあるのは何かサタン礼拝の儀式をしたということではないかと言う人があるが、そこまで考える必要はない。
 ユダと祭司長、律法学者らの取引きは済んでいた。ユダは夜イエスのおられるオリブ山の一劃を知っているから、捕っ手の一隊をそこに案内し、その人だと示すために接吻するという約束で、ユダの受け取る報酬も決まっていた。その銀30シケルという額はユダが申し出たのではないかと思われるが、昔の金であって、世俗生活の中では使えない金である。何か考える所があってこの額を申し出たのであろうか。それとも、祭司長の側から、ゼカリヤ書11章12節に基づいて決めたのか。分からない。それを払うのは逮捕に成功した時ということも決まった。後は実行だけである。
 いざ裏切りを決行すとなって、ユダ自身の中に実行を躊躇わせるものがあったかも知れない。話しは決まったが、恐ろしくて手が着かないということは十分あり得た。そのように躊躇しているユダに、決行を促すのが主イエスのお言葉であったと取って間違いではないだろうと思う。しかし、そういうことを論じて、面白いかも知れないが、意味はない。
 「しようとしていることを今すぐするが良い」と言われたのは、ユダが躊躇っていると否とに関わりなく、今がその実行を始める時刻であるという指摘である。ユダがこれから祭司長たちのところに行って、最後の打ち合わせをして、それからオリブ山のゲツセマネに行けば、丁度よい時間なのである。主はそこに来られる。
 「席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、分かっていた者は一人もなかった」。
 裏切りの計画があることに思い至る人はいなかった。彼らが忠実な弟子であったからではなく、考えつくことの出来ない計画だったからである。裏切りということについて時々聞いていた弟子たちにさえ、裏切りとは何なのかがまるで分からなかった。ことが済んでから、実際に見聞きしたことを整理して。ユダの裏切りがどういう事件であり、何を意味したのかがようやく分かったのである。
 ということは要するに、これは分かり難い事件なのである。分からないのがむしろ当然なのだ。分かろうとする考え自体が間違いだということまで考えて良い。これは秘義なのだ。それが分かり難ければ分かり難いほど、救いの奥深さと確かさが見えて来る。
 ユダが金入れを預かっていたので、イエスが彼に祭りのために必要なものを買え、と言われたのか。あるいは、貧しい者に何か施しをするよう指示されたのであろうと想像した。それが全くの方向違いであったことについては触れない。
 「ユダは一切れの食物を受け取ると、スグに出て行った。時は夜であった」。――ユダの裏切りの記録はこれで打ち切られる。ユダは闇の中に去って行った。だが、書かれていないところは想像によって補え、ということではない。
 これと対照的な御言葉に思いを向けるよう促される。12章35節以下で言っておられる、「もうしばらくの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」。

目次