2002.12.08.
ヨハネ伝講解説教 第135回
――13:20によって――
すでに学んで来たように、主イエスはヨハネ伝13章から17章にかけて、地上の御生涯における最後の教えを与えておられる。渾身の力をこめて語っておられることが我々にも分かる。ところが、この最終の教えの記事の中に、ユダの裏切りという異質の事件が入り込む。これを無関係なことと見て排除するわけには行かないが、混乱がないように、区分して別々に理解しなければならなかった。こうして20節がはみ出したのである。
20節で、「よくよくあなた方に言っておく。私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるのである」と言われる。これはユダの事件と無関係であると言い切れないのであるが、我々の理解力が弱いので、混乱を避けるために一応切り離して学ぶほかない。
そういうわけで、今日はユダによってキリストが引き渡されたもうたことには触れないのであるが、先に見たように、時が来れば、「私がそれである」ということが、ユダの裏切り行為によってむしろ明らかにされる。
この20節のお言葉は、マタイ伝10章40節、マルコ伝9章37節、そして言葉は少し違うが、ルカ伝10章16節に、語られる状況は別であるが、出て来る。教会の中では古くから親しまれ、また重んじられた聖句である。我々はヨハネ伝の記述に沿って学んで行く。
「遣わされた者、それを受け入れること」。――これはヨハネ伝で最も大事なテーマの一つであると言って良いのである。ユダヤ人らがキリストに躓いたのはこの点であったということをもう一度思い起こしておこう。6章61節で言われるが、「このことがあなた方の躓きになるのか。それでは、もし人の子が前にいたところに昇るのを見たら、どうなるのか」。……ここで「このこと」と言っておられるのが何であるか、分かり難いのであるが、前にいたところに昇ると言われることと対になっているのは明らかであるから、その逆、父のもとから遣わされたことを指すと考えられる。ユダヤ人はこのことで躓いていたのである。こうして7章に至って、「私の教えは私自身の教えではなく、私を遣わされた方の教えである」と言われる時、ユダヤ人の反対は一層はげしくなる。ついに彼らはイエスを殺そうと決意する。
この「遣わす」、「遣わされる」というテーマがヨハネ伝全編を通じて展開している。すなわち、先ず、キリスト御自身が御父から遣わされて来たりたもうた。次に、キリストがその弟子たちを遣わすと言われる。弟子の末端である我々も矢張り遣わされてこの世に生きる。遣わされた者である我々の原型になっているのは、遣わされたもうたお方であるキリストであった。キリスト者として生きるとは、遣わされているということ、使命を持っているということである。
順序を整えて言えば、第一に、キリストが父から遣わされたお方であり、この方を我々は受け入れなければならない。このことは上に触れたように、ユダヤ人にとって躓きであったが、我々にとっても決して簡単・平明なことではない。我々の中にも、「遣わされた方を受け入れる」という捉え方を避けている傾向があるのではないか。
福音書の中に描かれているナザレのイエス。――それを偏見なしに、しかしジックリと読んで行くならば、イエス・キリストというお方との出会いが起こる、ということを我々は知っている。これが我々にとって地上で経験する最大の出会いであって、我々の人生にとっての決定的な意味を持つものである。
この理解は、それで良いのであるが、「出会い」と言われていることを、聖書の言う「遣わされた者を受け入れる」という形で捉え直すのでなければ、救いの確かさは十分把握できないのである。「出会い」と言うことが間違いだとは思わないが、これは聖書の教える教えの論法ではない。「出会い」というのは、昔からある言葉ではあるが、近代人の危機意識の中でその重要性が注目されるようになった思想用語であって、必ずしも悪い意味で言うのではないが、謂わば一つの時代語また流行語であって、聖書用語ではない。これは、聖書の用いている言い方に置き換えて把握し直すのでなければ、掘り下げて、確かさに達することが出来ない。「イエスとの出会い」と言われることは、父なる神が遣わされた御子を受け入れることとして捉え直さなければならない。ここでこそ、救いの永遠性が見えて来る。
主イエスは御自身が遣わされた者であると説きたもう場合、よくこれに重ねて「私があなた方を遣わす」と言われる。17章18節には、父なる神に向けての祈りのうちに、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」と言っておられる。また、20章21節には、「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われる。
キリストの弟子は、遣わされた御子キリストを受け入れるだけではない。それだけでは中途半端である。今度は、彼ら自身がキリストから遣わされた者になる。キリストの弟子はキリストの使徒なのである。それは、遣わされた方を受け入れるだけであった段階から成長し、脱皮して、第二段階に達した者としてそうなるということではない。あるいはまた、第一段階にある者の中から選抜された者が、キリストから遣わされるということでもない。段階の違いとか、本質の違いはない。違いとしては信じるか信じないかの違いしかない。キリストを信じることが、即キリストから遣わされることであると理解すべき事情である。
勿論、キリストを信じた以上は直ちにキリストから遣わされる者とならなければならないと性急に信じることは危険である。遣わされたと思い込んで飛び出して行って、間もなく生命の涸渇に気付くという不幸な場合が往々にしてある。だから、時に関して自分が判断する権威を持ったと思い上がることは差し控え、時を主に委ねて、待つという姿勢を取らなければならない。それにしても、果物は時間を掛けなければ果物として食べられないけれども、果物は果物であるように、遣わされた者としての成熟度は足りなくても、遣わされた者であることには変わりがない。安易に使ってはならない言い方だが、キリスト者はみな、初めから使徒なのである。
ここで「遣わされた者を受け入れることが信仰である」という定義をシッカリ読み取っておきたい。信じたいという気持ちが高じたから信じる、というのは危険である。信じたい熱意が高まって、「われ信ず」と表明する人が全部間違っているとは思わない。しかし、熱心に「われ信ず」と言っていたのに、信仰がどうにもならないほど冷えて、破綻してしまうという場合が少なくないではないか。その人が自分は信じているとその時思っていたのは偽りでないかも知れないが、自分でそう感じていたことの中には確かさはなかった。確かな方向へと導き返す御言葉と御霊の導きがなかったならば、信じていると断言しているだけでは空しい。
6章29節で主イエスは海の向こうからカペナウムまで追って来た民衆に向かって、「神が遣わされた者を信じることが神のわざである」と教えておられる。人間の尺度を越えた存在、すなわち神を信じることが信仰だと人は言っている。常識の次元でならそれで良いかも知れない。しかし、救いに至る道としての信仰は、その程度のアヤフヤさでは全然捉えられていない。神が遣わされた者を受け入れること、すなわち、使いを遣わして、その遣わされた者と、彼の語る告知とを信じさせて、救いに至らせるのが救いに至らせる神の業である。
神が遣わしたもうたのは、時満ちて御子を処女マリヤから生まれさせたもうた出来事、その一度だけではないということも学ばなければならない。世の初めから終わりに至るまで、我々の力では数え上げることが出来ないほど、神は繰り返し使いを遣わしておいでになる。「神がお遣わしになった方は神の言葉を語る」と3章34節にあるが、神の言葉は雷のように空から轟くのではなく、神の遣わされた器が御言葉を語るからこそ地上において聞くことが出来るのである。
ただし、キリストが肉体を採ってカイザル・アウグストの治世に来られるまでの期間、遣わされた者はそう多くはなかった。それでも、我々の能力では数え切れないと言うほかない大勢なのであるが、旧約においては、遣わされた者は、やがて来たりたもう正式の意味での「遣わされたお方」、すなわち、約束のキリスト、そのお方を証しするために遣わされた証人たちに限定され、また、そのような証しのために遣わされたのは、アダムの子セツ、その子孫ノア、その子孫アブラハムとその子孫に限られており、キリスト来臨の差し迫った時には、正式にはバプテスマのヨハネ一人だけであった。ヨハネ伝1章6節に、「ここに一人の人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光りについて証しをし、彼によって全ての人が信じるためである」と書かれる通りである。
さて、キリスト以後においては、使徒は全世界に遣わされ、全ての国民が弟子とされ、したがってすべての国民の中に使徒が立てられるようになった。そして、それらの遣わされた人々が、唯一の真の意味での遣わされたお方、キリストを証しする。こうして、今日学ぶ20節にあるように、「私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れるのである」という事態が現出する。
これこそが確かな救いである。すなわち、「私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れるのであり、私を受け入れるとは私を遣わされた方を受け入れる」という事情があるからである。救いの源泉である神が、遣わしたもう器を通して救いを届けて来られるからである。
したがって、ここでは我々の救いの基本的構造と、その救いの実際的展開と、派遣の確かさと、この御業への我々の参与についての召しと励ましが教えられているのを見よう。キリスト御自身が遣わされた方であると共に、彼はまた弟子を遣わしたもう。ここでは「使徒」と呼ばれる務めの重要さを知らせられる。そして、その使徒が全世界に出て行って、全ての国民を弟子とする。この弟子が使徒になる。イザヤ書52章7節で「良きおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンに向かって『あなたの神は王となられた』と言う者の足は、山の上にあって、何と麗しいことだろう」と記される通りである。
ここでシッカリ読み取り、心に刻んで置きたい第一のことは、遣わされることの確かさである。第二は、遣わされる時、当然何かの使信を託されているのだが、その使信、メッセージの内容は何か、それをどのように大事に守らねばならないかである。第三に、遣わすお方は、遣わされる者にどういう保証を与えて務めを全うされるか、である。
第一のこと、派遣の確かさを学ぼう。「私を受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるのである」と主は言われる。つまり、「私が齎らすものは二次的なものでなく、遣わしたもうお方そのものである。だから、私を受け入れないのは、私を遣わされた神を拒否することである」と言われたのと同じである。3章36節で、「御子を信じる者は永遠の命を持つ。御子に従わない者は、命に与ることがないばかりか、神の怒りがその上に留まるのである」と言われる通りである。したがって、神を拒否したつもりはない、と言い張ったとしても、拒否している事実はあるのだ。
それと同じような言い方で、「私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れるのである」と言われるが、これは簡単には受け入れられないと言われるかも知れない。遣わす者と遣わされる者が同格だということにして良いのか、と疑念を持つ人がいるかもしれないからである。父なる神と遣わされた御子とは同質であるから、「私を受け入れる者は私を遣わした方を受け入れるのであり、私を受け入れない者は私を遣わされた方を受け入れないのである」ということは理解される。しかし、「キリストから遣わされた我々が受け入れられなかったなら、それは我々を遣わされたキリストを受け入れないことである」と言えるか。キリストと我々とは同質ではないではないか。
なるほど、この疑問は尤もである。ルカ伝に記録される一つの挿話を思い起こすのであるが、主はエルサレムに向かって行かれる時、ご自分に先立って使者たちを遣わされた。彼らがサマリヤ人の村に入ってイエスのための準備をしようとしたところ、村人は歓迎しない。弟子のヤコブとヨハネは憤激して、「先生、いかがでしょうか。彼らを焼き払ってしまうために、天から火を呼び求めましょうか」と言った。そこで主は彼らをお叱りになった。たしかに、弟子たちの軽薄さは叱責されねばならない。
それにしても、遣わされた者が遣わした方を代表し、その代理人の役目を果たすという事情はよく見て置かねばならない。世俗のことから例を引くならば、一つの国の王が他の国に使節を送る。その場合、受け入れ側では、その使節を王の代理人、したがって或る意味で王と同格の者としてもてなさなければならない。これは世俗のことではあるが、救いのメッセージに関しても当てはまる。
キリストの使者としてキリストの王国の外の国、つまりこの世に赴く者は、キリストより遥かに小さい者であるけれども、キリストの代理であり、彼を受け入れないのは、キリストを受け入れないことになる。マタイ伝10章14-15節で言われる、「もし、あなた方を迎えもせず、またあなた方の言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足の塵を払い落としなさい。あなた方に良く言っておく、裁きの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その地よりは耐えやすいであろう」。
第二に、遣わされた者に何が託せられているか。福音が託されているのである。3章34節に、「神がお遣わしになった者は神の言葉を語る」と言われるが、神の言葉、しかも喜ばしい言葉が託されるのである。神から主権を託されて支配するために派遣されると考える者がかつて弟子たちの中にもいたがこれは成り立たない。
その言葉は正しく伝達しなければならない。
第三に、遣わされた者が御言葉を正しく語るために、どういう保証が与えられるかであるが、上に引いた3章34節「神がお遣わしになった者は神の言葉を語る」の続きは、「神は聖霊をかぎりなく賜うからである」となっている。遣わされた者が神の言葉を語るのは、聖霊が与えられているからである。聖霊に関する教えはこれまでにも与えられていたが、最後の教えの中で与えられる。「父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせてくださるであろう」と14章16節で教えたもうのである。主が去って行かれた後も、御霊はつねに共にいて助けたもう。