2002.12.01
.ヨハネ伝講解説教 第134回
――13:18-19によって――


11節に、「イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みんながキレイなのではない』と言われたのである」と記されていた。この箇所は10節に続いて解き明かされることなく、これを飛び越して12節に移った。今日は先に飛び越していた11節に戻って学び直すのである。
 さて、18節には、「あなた方全部の者について、こう言っているのではない。私は自分が選んだ人たちを知っている。うんぬん」と言われる。これは11節と同じ主旨の御言葉であるから、纏めて学ぶ。
 なおまた、21節では、「よくよくあなた方に言っておく、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言われた。
 これらの記事が言うところは、イスカリオテのユダの裏切りであることを我々はよく呑み込んでいる。その事件の実情については、次回に26、27節で学ぶ予定になっているので、裏切り者の実際の行動については今日は触れない。が、13章ではすでに2節に、「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」と記されていた。ユダの業は悪魔の業であると最大限の憎しみをぶっつけているようにも読めるが、人間の業でなく悪魔の仕業としてでなければ理解出来ないという意味もあるように思う。
 また、ヨハネ伝では、6章の終わりに、「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか。
 それだのに、あなた方のうちの一人は悪魔である」と言って、ユダの裏切りを予告し、それは悪魔の業としたもうたことが告げられた。ユダの裏切りについてはヨハネ福音書では12章4節でも触れていた。この事件は突発的に起こったのでなく、主の計画によって起こったのである。
 12人の一人イスカリオテのユダの裏切り事件について、我々はその概要をすでに知っている。今日学ぶのは、この出来事の意味である。
 11節で「みんながキレイなのではない」と言われた。主イエスがこのことを語られたのは、全身を洗ってもらった者でも、なお足を洗ってもらわなければならないと教えたもうた続きである。したがって、潔いけれども、その潔さは完全でないと言われたという意味に取られ勝ちである。完全でないのは確かであるが、ここで言われるのはそのことではない。
 ここで「潔い」、「キレイ」と言われたのは、「洗う」ということに結び付いているから、洗礼を暗示したものであるとこは確かである。そして、主イエスが「あなた方はキレイなのだ」と言われたのは、弟子たちが正式に洗礼を受けていたことを示している。
 弟子たちがみな洗礼を受けたという記事はないが、そういうことであったと看倣したよい。
 では、洗礼を受けても、実は潔くない者があるということなのか。したがって、我々は洗礼を受けた者であるが、だからと言って、すでに潔いと思い上がってはならないということなのか。洗礼を受けて主の教会に入っている者が実は潔くない、という事実は確かにある。マタイ伝13章24節以下にある「毒麦の譬え」はそのことを語っている。天国の主は良い種を畑に蒔きたもうたが、人々の眠っている間に敵が来て、毒麦を蒔いて行った。良い麦が芽生えて成長する時、毒麦も一緒に伸びて行く。畑の管理をしている人は、毒麦を抜き捨てて、畑を浄化すべきではないかと主人に進言する。しかし、主人は人が毒麦を抜き捨てる時、良い麦を間違って抜く危険があるから、終わりの刈り入れの日までそのままにしておけと命じる、という譬えである。
 そのように、主の教会の中には、収穫の日に天国の蔵に収められる良い麦だけでなく、やがて焼き捨てられねばならない毒麦も生えているのだと言われた。けれども、11節の御言葉がそのことを指していると解釈しては正しくないであろう。ここでは、明らかにイスカリオテのユダだけが潔くないと言っておられるのである。
 それにしても、「みんながキレイなのではない」と主の言われたことはその後の教会にも当て嵌めるべきではないかと考える人があろう。それが教会の現実には合致しているように考えられるからである。また、我々の中に、自分はホントウは毒麦であって、間違ってここに入っているのではないかと恐れる人もいる。だが、主イエスがここで語っておられる主旨は、イスカリオテのユダのことだけに限られると確認しておきたい。
 後の教会のことにまで適用できるのは、18節にある「私は自分が選んだ人たちを知っている」との御言葉であろう。この御言葉は良く味わいたい。
 すなわち、ここでは、第一に「選んだのは私であって、他の何ぴとでもない」という意味がある。本人が来たくて来たのでなく、親切な人が知人を誘ったのでもなく、私が全てを知って選んだのである。さらに、これは、父が選んで私に与えたもうたという意味でもない。6章37節に、「父が私に与えて下さった者は皆、私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒みはしない」と言われたが、父が御子に与えたもうた者、それは当然、父が選んで御子に与えたもうた者のことであるが、その選びと「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか」と言われた際の選びと同一視すべきではない。すなわち、父なる神が選んで御子に授けたもうた者たち、それは「一人も失わないで終わりの日に甦らせる」と約束されている。神の選びは救いに至らせる選びであるが、12人の選びは役割のための選びである。そして、この12人の選びは父が選んで御子に押し付けられたのではなく、もちろん父との完全な合意に基づいてであるが、御子が選ばれた。
 第二に、「人の目には隠されているけれども、私は知っている」という意味がある。28節に、「席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、分かっていた者は一人もなかった」と書かれているが、この時になっても、弟子たちは主の意図、またユダの裏切りのことを悟れなかった。
 私は私の選んだ者を知っており、したがって選ばれたのでないのに弟子の中に入り込んでいる者が誰であるかも知っている、という意味に取りたがる人もあろうが、選ばれなかったのにユダが入り込んだという解釈を我々は取らない。すなわち、全ては御子の主権のもとに決定されている。
 第三に、「その一人一人がどういう道を行くかを知っている」という意味がこめられている。主であるキリストが知りたもうことは必ず起こる。主イエスは12人を選んだ時からユダの将来を知っておられた。
 すぐ前のところで、ここで言う選びは、永遠の救いに至るべき選びではなく、御子が世に遣わされて御業を行ないたもうについての弟子たちの役柄の選びである、と言った。
 主はユダがどういう役割を演じるかを知りたもうた。
 ここでは、そのようにキリストを引き渡す裏切りの役割を知りたもうと言うのであるが、なお併せて理解すべきは、17章12節で、「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」と言われることである。主はユダの役割だけでなく、滅びも知っておられた。
 その17章12節に、「聖書が成就するため」とあったが、13章18節にも「しかし『私のパンを食べている者が私に向かってその踵を挙げた』とある聖書は成就されなければならない」と書かれている。これは重要なところである。
 「聖書が成就するため」という文言は新約聖書にしきりに出て来る。新約は旧約を成就するものと言って良い。キリストそのものが旧約の成就として来たりたもうたのであるから、当然キリストに関わる旧約の言葉の一切が旧約の成就である。新約聖書は旧約が細部に至るまで成就していると言う。
 「私のパンを食べていた者が、私に向かってその踵を挙げた」という言葉は、詩篇41篇9節からの引用である。その詩篇の5節以下を読むと、「私の敵は私を謗って言う、『いつ彼は死に、その名が滅びるであろうか』と。その一人が私を見ようとして来る時、彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言い触らす。全て私を憎む者は私について共に囁き、私のために災いを思いめぐらす。彼らは言う、『彼に一つの祟りが付き纏ったから、倒れ伏して再び起き上がらないであろう』と」と言って来て、それから8節に入り、「私の信頼した親しい友、私のパンを食べた親しい友さえも、私に背いてくびすを挙げる」と言われる。詩篇の言葉そのものはごく親しい者も私を裏切ったという意味である。これはキリストが旧約において御自身の受難を語りたもうた嘆きの言葉だという解釈がキリスト教会には古くからあった。
 それがキリストのパンを食べたユダが主を裏切ることの予告であるとする解釈は余りに本文から離れ過ぎという感じを与えるかも知れない。これは、義人が何の悪もしていないのに人々から迫害されるのみか、最も親しい友からも背かれたことを嘆くだけではないか、と思われるかも知れない。
 このような義人の苦難は往々にしてあることで、その苦難の中で義人が神に縋って助けを求め、解決を見出し、苦難に遭うことによって慈しみの深さをさらに深く悟ることは当然あったであろう。しかし、この詩篇が旧約の信仰者の人生をしばしば訪れる苦難に神信頼と忍耐をもって立ち向かう道を教えた教訓だと常識的に解釈するだけで済ませることは出来ない。なぜなら、苦難はそのような解決で切り抜けるのは余りに深刻な場合があるからである。
 軽い苦難であれば、確かに、人生に深みを与えるものであることは比較的容易に理解できるであろう。しかし、苦難が大きくなると。それによって鍛えられて人間として成長できると喜んでおられない。すなわち、その苦難によって人間が崩れ、信仰が崩れてしまうからである。例えば、ヨブ記の主人公ヨブは自分の生まれた日を呪うほどのうち続く苦難を受けたのである。
 だから、旧約の信仰者は、苦難が来れば来るほど良いというお目出たい解釈には満足せず、来るべき贖い主にひたすら期待し、しかも来るべき贖い主が、極みまでの苦難を負いたもうお方であることを示されていたのである。
 こうして、約束された贖い主が来たりたもうたのであるが、我々は6章で主イエス御自身が「私は命のパンである」と宣言されたことを聞いている。また、その箇所でユダヤ人がパンを与えられていながら、命のパンであるキリストに向けて逆らったことを見ている。この詩篇を歌った作者はコラの子たちであるが、彼らが御霊によってキリストの苦難を知って、あるいは知らずして、予め歌ったのである。
 「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言っておく。いよいよ事がが起こった時、私がそれであることを、あなた方が信じるためである」。
 ことが起こらない先に言って置くのは、今起ころうとしていることが大いなる躓きだからである。予告を聞いていなければ、キリストが最も親しい者に背かれることは、周囲で見ている者にとって躓きでしかない。しかし、予告を聞いていれば、預言された通りのことが実現したのであるから、信仰の確立になる。それは、単に弟子たちが躓かないで信じるだけでなく、次の節で「私が遣わす」と言われるように、キリストから遣わされて証しをするのである。証人としての確信に達するのである。
 「私が遣わす」と言うまえに、彼は「私がそれである」ことを悟らせたもう。「私がそれである」という言葉は、6章20節で一度聞いたものである。夜の嵐の海で主イエスは漕ぎ悩む弟子たちに近づいて、「私はそれである」と言われた。私は私である。ほかならぬ私であるという意味である。「私がそれである」と言う方が来られれば全ての恐れは消える。
 10章24節で一度聞いたところであるが、冬「宮潔めの祭り」が行われていた時、主イエスが宮の中のソロモンの廊を歩いておられたところ、ユダヤ人たちが主を取り囲んで言った、「いつまで私たちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとハッキリ言って頂きたい」。
 「私がキリストである」とハッキリ言って貰いたいと言う。したがって、19節にある「私がそれだ」は分かり易く言うならば「私がキリストである」ということなのだ。
 「ハッキリキリストだと言ってくれれば、我々は今すぐにも信じよう」とユダヤ人は言っているかのような口振りであったが、彼らは実は信じない口実を次々並べようとしているだけであった。主の弟子はそうでない。彼らは試練の中でも主イエスに随いて行く。しかし、弟子たちの信仰もまだアヤフヤである。
 弟子たちがハッキリ確信を掴むのは、起こらないうちに聞かされ、そして聞かされた通りに事が起こる時である。事が起こるとは、キリストの死である。裏切られ、議会に引き渡され、ついで異邦人に引き渡されて、十字架につけられ、殺されるときである。そのような事実に直面したならば、信仰は冷え切ってしまうのではないか。
 たしかに、弟子たちは挫折してガリラヤに帰って、魚取りの生活に戻ってしまったが、間もなく復帰した。ユダの裏切りによって一時的には迷ったが、主イエスが前もって言っておられたことを思い起こす時、預言の通りのことが実現したのを確認して、彼らは信仰に立ち返る。というよりもむしろ、ようやく、初めて、信仰の確信を得るのである。そのように、ユダの裏切りの予告は重要なものであった。
 そこから、彼らは遣わされた証人として出て行くことになる。それは、イザヤ書43章10節に「主は言われる、『あなた方はわが証人、私が選んだわが僕である。それゆえ、あなた方は知って、私を信じ、私が主であることを悟ることが出来る。私より前に作られた神はなく、私より後にもない。ただ私のみ主である。私のほかに救う者はいない。私は先に告げ、かつ救い、且つ聞かせた。あなた方のうちには他の神はなかった。あなた方は我が証人である』と主は言われる」とある通りである。
 イスカリオテのユダによる裏切りはキリストに対する信頼と確信を台無しにしてしまうかのようであるが、実は逆である。イスカリオテのユダの役割、それがその役のために主イエスによって選ばれていたと知っているならば、彼の裏切りも没落も信仰の躓きにならないのである。そのようなものとしてユダの裏切りを理解するよう我々は今日教えられるのである。

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