「私があなた方にしたことが分かるか」と主は弟子たちに問い掛けたもう。なさったことの意味を理解させるために、先ず、「分かるか」と問うて、考えさせて、それから答えを示されるのである。我々にも「分かるか」と問われているのである。そう問われることによって、我々はホントウに分かっているのかどうかを自分自身に問い掛けねばならなくなる。
「分かる」ということについて、しばらく後の17節にはこう言われる。「もし、これらのことが分かっていて、それを行なうなら、あなた方は幸いである」。――17節の「分かる」という言葉は12節の分かるとは別であるから、意味も同じとは言えないかも知れない。しかし、別の言葉が同じ意味で使われたのかも知れない。そのように取った方が文章全体が生きて来る。
もう一つ、「これらのこと」というのが何を指すかもハッキリしない。その前の節に書かれていること、すなわち、「遣わされた者は遣わした者にまさることはない」ということかも知れない。しかし、その解釈では余りに平板過ぎるし、「それを行なうなら」と続けて言われることにうまく繋がらない。だから、「私があなた方にしたこと」、つまり、人の足を洗うこと、これが分かることが大切だと言われたと取る方が良いであろう。
それが良いことだと分かるだけではいけないのであって、実際に足を洗うことを実行しなければならないのであるが、とにかく、分かるとは幸いに入る一歩である。分かり、かつ行なうことによって永遠の救いに入ると取っては恵みによって救われることが見失われてしまうから、正確な理解ではないと知らねばならないが、「分かる」とは救いに入ることと結び付く。
すでに見て来たように、7節以下で、主イエスはペテロ一人を相手に語って、なさったことの意味するところを解き明かしたもうた。その意味は「今は分からないが、後には分かる」と約束されているものである。だから、今、分からなくても、心にシッカリと受けとめ、大事にしまって置くべき奥義である。
それは一口で言うとすれば「潔め」である。「聖化」と言っても良い。全体を纏めて言うと、キリストに従う者は「既に潔い者」と主から認められている。それでも、潔さは完全でない上、足は日々に汚れるから、日々洗わなければならないことに象徴されるように、潔いと言われた人も終わりまで繰り返し潔められ続ける必要がある。
さて、今日学ぶ12節以下の教えは、それとは別のものである。これは、奥義のようにあとになって分かるものではなく、見るだけで即座に分かるような、模範を伴った教えである。その主題は「謙遜」である。奥義としての潔めと、誰にも分かる謙遜が、立て続けに述べられるので、一息に読んで混乱する人があるかも知れない。だが、前者はペテロ一人に向けて語る中で示され、しかも、食事における本来の座を外した所で、また上着を脱いだ姿で語りたもうた。
後者は弟子一同に対する語り掛けのなかで、彼の本来の座から、上着を着けた姿に戻って教えられる。だから、二つの教えが混同されることはないであろう。言うまでもないことだが、ペテロに向けて語られたこの教えは、ペテロ個人にだけ通用するものではない。全ての弟子の聞いているところで教えられたのであるから、信仰者一般に対する教えである。
そのほか、あえて違いを論じるならば、受け取り方が異なるのである。主イエスはペテロとの会話の中では「あなたの足を洗う」と言われ、弟子一同に対しては「あなた方の足を洗う」という言い方をして、ここからも区別が分かるようにしておられる。
二つの教えがあると言ったが、勿論、バラバラに切り離されるべきものではない。「潔め」は単に霊的な、内面で、目に見えない形で進展して行く御業ではなく、イエス・キリストが弟子たちを極みまで愛し、己れを低くしたもうた歴史的事件、弟子の足を洗いたもうたことのみでなく、端的に「十字架」として捉えるのが適切であると言うべき一連の事件と結び付く。
また、「謙遜」は全ての人にとって追い求むべき徳には違いないが、ここで教えておられるのは、人類に共通な道徳ではなく、潔めに与った人、新しい人間、その務めとしての謙遜である。さらに思いめぐらすならば、我々の現実が如何に潔くないかを抉り出す決め手になるのは、己れのうちにある高慢の発見だということを、信仰生活の経験者たちは知っているはずである。
「あなた方は私を教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。私はその通りである」。「教師」というのは先生という意味の呼び名である。尊敬をこめてそう言った。
彼らの間ではユダヤの言葉で「ラビ」といったに違いない。これはユダヤ教の律法学者が弟子たちから呼ばれていたその呼び名である。実際、主イエスは、ユダヤの社会の中でラビの一人と見られていた。
「主」という呼び名を、弟子たちがどういう意味でイエスに対して用いていたかは一口には言えない。第一に、ほぼ確かだと思われるのは、「教師」、「主」、という二つの称号を別々に使っていたのでなく、一つに合わせて「主なるラビ」と日常の生活の中で呼んでいたことである。
第二に、そこで使われる「主」の意味であるが、相手に対する尊敬をこめて、人をこのように呼ぶ慣習が一般にあった。「ご主人」というような意味である。16節に「僕はその主人にまさる者ではない」と言われる時の「主人」、これは「主」というのと同じ言葉である。
そのような日常的意味とともに、「主」という言葉の信仰告白的な意味付けが始まっていたことも我々は知るのである。20章28節で見られるのであるが、12人の一人であるトマスは、復活の主が弟子の中に現われたもうたとき、その場にいなかったため、仲間から復活の証言を聞いても、「私はその手の釘の痕、その脇腹にある槍の傷に触れて見るまでは信じない」と公言していた。ところが、主に出会ったとき、一挙に折れて、「我が主よ、我が神よ」と叫んだのである。これがトマスにとって新しい体験であり、新しい告白であったことは容易に読み取れるであろう。トマスのみでなく、主イエスの復活に出会った弟子にとって、「主」という呼び名は確定したものである。
では、そういう告白的意味での「主」という呼び名は、その時まで使われなかったのか。そうではなかった。例えば、6章68節で、シモン・ペテロが一同を代表して答えて言うが、「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っているのはあなたです」。………ここで言う「主」は、礼儀上の呼び方でなく、告白として用いられる呼び名である。その告白的意味は今日我々が語るときと同じである。
そういうことが以前からあったけれども、意味が完全に確定的になったのは、復活によってである。では、今、ヨハネ伝13章12節以下の文脈ではどうなのか。それは、容易に解明される。主イエス御自身の語っておられる言葉であるから、確定的な意味を宣言されたものと取るべきである。
「しかし、主であり、また教師である私が、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた、互いに足を洗い合うべきである。私があなた方にした通りに、あなた方もするように、私は手本を示したのだ」。
教師が手本を示すのは、一般的に認められている通り、優れた教育に不可欠な原理であって、分かり易い。しかし、ここには分かり難い要素も含まれている。単に足を洗って見せるのではなく、主が僕の足を洗い、教師が弟子の足を洗う。つまり関係の逆転があって、これは日常的ではないからである。上にある者が下の者の足を洗うならば、上下の秩序は覆るのではないか。
たしかに、ここには日常的な秩序の転覆がある。単なる例外的な優れた模範が示されたというのではない。これまでの秩序がひっくり返って、新しい秩序が成立したと宣言され、その印しが示されたのである。主がこの印しを行ないたもうたのは、この時だけだったかも知れないが、その効力はそれに触れた人の生きている限り持続する。
「謙遜」が大事なことであると知らない人は先ずいない。その実行は必ずしも容易ではないから、謙遜を実行しない人は沢山いる。そして実行できない人は、陰では人から批判され、軽蔑される。上の立場にある人や、有能な人が謙遜を実行すると、その人の名声はさらに高まり、信用は増し加わり、この世で成功者となる場合がある。つまり、謙遜は日常的地平における徳の延長である。その延長を修養を積んで達成し、誉れを高めようと努める人は或る程度いるのである。そして、そういう理解が一般になされる。
しかし、我々が今学んでいるのは、世間で通用する常識の一級上に昇格することではない。ここで学ぶのは変革である。もう少し分かり易く言えば、キリストの民は、地位が高いにも拘わらず謙遜だと誉められるような、世間よりも一級品位の高い人になろうとするのでなく、全然別の尺度をもって生きている人なのだ。つまり、逆さまの世界に生きる人である。別人種である。反価値的な生き方をする者である。
謙遜ということが我々の間で誤解されることがないように注意しよう。これを世間的常識にすり替えないためには、謙遜とは平たく言うならば、キリストにあって辱めを忍ぶこと、キリストのために苦しむことであると捉えれば良い。
新しい人種は、古い人類と別の秩序のうちに生きるのである。この秩序について、主イエスはマルコ伝10章41節以下で教えて言われる。「あなた方の知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちはその民の上に権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。かえって、あなた方の間で首になりたいと思う者は、全ての人の僕とならねばならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。
これと別の機会であるが、ルカ伝の最後の晩餐の記事の中で主イエスは、22章25節以下にこう言われる。「異邦人の王たちは、その民の上に君臨し、また、権力を振るっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなた方はそうであってはならない。かえって、あなた方の中で一番偉い人は、一番若い者のように、指導する者は仕える者のようになるべきである。食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、私はあなた方の中で給仕する者のようにしている」。
主イエスはへりくだりの原理を教えたもうただけでなく、手本を示して実行を促したもうた。「主であり、また教師である私が、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた、互いに足を洗い合うべきである。私があなた方にした通りに、あなた方もするように、私は手本を示したのだ」。
この手本に則って、教会内でどうなって行ったか。その一端を取り上げるほかないのであるが、Iテモテ5章9節-10節に「やもめとして登録さるべき者は、60歳以下の者ではなくて、一人の夫の妻であった者、また子女をよく養育し、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、種々の善行に努めるなど、その良い業で広く認められている者なければならない」と書かれている。聖徒の足を洗うことが教会における良き業の一つに数えられている。
ここで「やもめ」というのは教会用語であり、一つの役職である。使徒行伝6章の初めでは、「やもめ」は教会から日々の給食を受けている困窮者のように受け取られるのであるが、彼女たちは次第に教会内部で重んじられ、務めにつくようになった。女執事というのと同じような務めであったと考えられる。
足を洗うことがやもめの仕事になった事情については、よく分からない。足を洗うことは世間では疎まれる業であったであろうが、教会においては尊ぶべき奉仕とされていた。主が教えたもうたことは、教会内で全員が互いに足を洗い合うという規定とはならず、年取ったやもめに託される貴い仕事とみられたようである。すなわち、主のなしたもうた手本を引き継ぐのが彼女たちの勤めであった。
足を洗うことは、主が弟子たちに命じたもうたことではなかったか。たしかにそうなのだが、使徒たちが信徒の足を洗ったという記録は残っていない。では、使徒たちは足を洗えという命令を、自分では果たさず、やもめに押し付けたのか。そうではなく、足を洗うという使徒的また教会的な課題をやもめが代表して果たしたのである。
16節に入って行く、「よくよくあなた方に言っておく。僕はその主人にまさる者ではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない」。
僕と主人、これは直ぐ前の足を洗うことが、僕によってでなく主人によってなされたことと関連し、その主人に対する従順のゆえに、僕も行なわなければならないという意味で語られた。主人はイエス・キリストであり、僕が使徒たちを指すことは言うまでもない。
遣わした者、遣わされた者。ここには二重の意味がある。父なる神が御子を遣わしたもうたことはヨハネ伝で繰り返し強調される中心テーマであると我々は理解している。「遣わされた者は遣わした者にまさるものではない」とは、先ずその意味で解き明かさなければならない。まさるものではないから、従順でなければならない。
遣わすということでもう一つ大事なのは、直ぐ後の20節に「私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れるのである」と言われるところに示されるように、キリストからの派遣である。ここではキリストによる派遣に重点が置かれていると思う。キリストからの派遣は、20章21節にあるように、「安かれ、父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われるところでハッキリする。遣わされた者は遣わした者にまさることは出来ない。しかし、遣わされた者は遣わした者の代理としてこの世に直面するから、その務めに関しては遣わした者と同じである。もし、遣わされた者を受け入れないなら、遣わした者を受け入れないことになる。
キリスト御自身も受け入れられなかった。ましてキリストにまさることが出来ない使徒たちは、もっと受け入れられないかも知れない。そう覚悟すべきであるが、遣わされた者は遣わした者に従順に服従するほかない。そういう意味がここにある。
そして、もっと重要なのは、父から遣わされた御子が、弟子の足を洗ったのであるから、まして御子キリストから遣わされた使徒たちは、足を洗うために遣わされたことを忘れてはならないということである。
「これらのことが分かっていて、それを行なうなら、あなた方は幸いである」。
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