2002.11.07
.ヨハネ伝講解説教 第132回
――13:3-10によって――

最後の晩餐の中で、主イエスは多くの教えを弟子たちに与えておられるが、その第一は互いに足を洗い合えという命令であった。これは言葉だけでなく、身をもってする模範が伴っていた。
 ちょうど、旧約の預言者が、しばしば人々の眼前で象徴的な行為を行なって、預言の言葉を固くしたように、主イエスも御言葉に「しるし」を伴わせたもうた。しかも、預言者たちの場合、例えば、エレミヤが自分の首に軛を掛けたことは、単なる象徴であって、実質は何もない。しかし、主イエスの場合、そのなしたもうことは単なる象徴ではなく、行為自体大きい意味を持っていた。13章1節で「最後まで愛しぬかれた」ということを学んだが、その愛の、目に見える印しが弟子の足を洗う業なのである。
 「最後まで愛された」こと、しかも、「自分の時が来たことを知り」たもうたこと、そして3節で言われるように、「父が全てのものをご自分の手にお与えになったこと、また、ご自分が神から出て来て、神に帰ろうとしていることを思い」たもうたこと、この一連のことが、弟子の足を洗いたもうた御業の理由となっている。ヨハネ伝はそういうふうに教えている。
 愛の教えは最後の晩餐の教えの第一のテーマであったが、この教えを纏めた御言葉として、13章34-35節がある。「私は新しい戒めをあなた方に与える、互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」。同じ主旨の教えが15章12節から17節に掛けて繰り返される。「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。この新しい戒めを与えるに当たって、主がそれに伴わせたもうた印し、それが、足を洗うという行為である。しかし、ここで主は、足を洗うことに含まれる多面的な意味を、後で述べるように、教えておられるから、それらの意味を総合的に把握するようにしたい。
 足を洗うことの中に謙遜の修練があることは教会でもしばしば指摘される。その理解は正しい。他の福音書の最後の晩餐の記事には、誰が一番偉いかということをめぐって、弟子たちの間で争論が起こったという記録が伝えられていて、そのため、この争論と主が弟子の足を洗いたもうたこととを一連の事件として結び付ける捉え方が広く行き渡っている。しかし、他の福音書においても、ヨハネ伝でも、最後の晩餐の場で、弟子たちの間で誰が偉いかという争論が起こり、主がそれに対する警告として身をもって謙遜を示されたというようには書かれていない。そのことに注意を喚起される。
 弟子たちの間で、誰が一番偉いかを論じ始めたのは、めいめいが自分こそ一番偉いと言い始めて、争いになったというふうに読むべきではない。神の国が実現した時、12人の弟子の中のだれが上位につくかに興味があったということなのだ。だから、主はそこで、興味本位の議論を却けて、仕える者こそが指導者になるという教会内の大原則を示したもうた。これはこれで非常に重要な教えではあるが、弟子たちの間の争論と、足を洗いたもうたこととを結び付けるのは、意図として真面目であるとはいえ、事実の正確な理解ではない。
 さて、4節5節に、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻き、それから水を盥に入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた」と主イエスの振る舞いが、詳しく、具体的に描写されている。
 その時の「盥」がどれほどの大きさの物であったか、「手拭い」とはどういう物であったかを調べ上げることは或る程度まで出来る。だが、この説明に時間を費やす意味は余りないであろう。だから、盥や手拭いの寸法や材料について触れることをしない。銘々自分の知識にしたがってその場面を思い浮かべて置けば良い。だが、福音書記者が情景を細かに描こうとした意図は汲み取って置きたい。すなわち、これは抽象的・観念的に捉えて置けば良いというものではない。
 「あなた方も互いに足を洗い合うべきである。私があなた方にした通りに、あなた方もするように、私は手本を示した」と14-15節に言われるが、そのように、具体的に体を動かす奉仕が必要なのである。愛するとか、奉仕するというようなことの理念が理解出来れば良いということではない。
 主は先ず「夕食の席から立ち上がり」たもうた。弟子たちは席についたままであった。
 当時の食事の作法は、多くの画家によって描かれたように、テーブルがあって椅子に腰掛けて取り囲むのとは違う。体を横たえて、左腕で頭を支え、右手で食物を取るようにしていたようである。弟子たちは頭を寄せ合い、足は外に向けて放射状に伸ばされていたのであろう。
 「夕食の席から立ち上がり」たもうた。それは食事の前なのか、途中なのか、後なのか、どのようにも解釈できる。足を洗うのは食卓につく前であるのが通例であるが、彼らは足を洗ってもらわないままに食卓についていたようである。「洗いましょう」と言う人がそこにはいなかった。足を洗ってもらうことを期待した人ばかりで、自分が足を洗う奉仕をしようと思いつく人はいなかった。主は何も言わずに立ち上がって、上着を脱いで、盥の用意をしに行かれた。弟子たちにはことの意味が全く分からなかった。
 上着を脱ぎたもうたのは、作業をするためであるが、へりくだった姿勢を表す。その作業が終われば、12節に書かれているように、上着を着けて席に戻りたもうた。そもそも、足を洗うのは奴隷の仕事であった。奴隷は食卓につく人たちの仲間ではない。食卓についている者が他の人の足を洗うとは彼らには思いつくことも出来なかった。
 手拭いを取って腰に巻くのは、下着の裾をたくし上げるためであるかも知れないが、足を拭く手拭いを体に巻き付けて置いたのである。
 「こうして、シモン・ペテロの番になった」。――ペテロは一番弟子であったが、真っ先に足を洗っていただいたのではないようである。誰から始めたもうたのかは分からない。順序は問題ではない。
 ペテロの番になるまで、誰も何とも言わなかったのは、奇妙で不自然に感じられるかも知れない。しかし、想像を交えてこの場の雰囲気を捉えても大して益にはならない。ここでは順番は問題にならないということを弁えれば良いのではないか。主イエスの異常な行動が始まった時、他の弟子が何も言わなかったというのも不自然である。ペテロが言ったと書かれているのは、彼がみんなの気持ちを代表したという意味ではないか。
 ペテロはしばしば、先生のことを思う善意からであるが、主の御旨にそわないことを言っている。例えば、主がご自分の受難を予告したもうた時、ペテロは「そんなことがあってはなりません」と言って、主の叱責を受けている。善意ではあるが、人間的判断をしてしまう。
 彼はイエスに、「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」と言った。「あなたが……、私を……」というところに強調点が置かれていることは容易に読み取れるであろう。つまり、「逆ではありませんか、私が先生の足を洗うべきだったのです」という含みである。これは他の弟子も同じ思いであったであろう。
 思い起こすのは、マタイ伝に記される主イエスの洗礼の記事である。主はバプテスマのヨハネのもとに行って、洗礼を受けようとされた。ヨハネはそれを思い留まらせようとして、「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが私の所においでになるのですか」と言った。主はそれを制して、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しいことである」と答えたまい、ヨハネはイエスの言われる通りにした。
 それれと似てはいるが、意味はかなり違う。主イエスのバプテスマは救いの成就のためのただ一回の出来事であったが、足を洗う出来事は記録としては一度だけのものであっても、救いの歴史の中でただ一度起こるという性質のものではない。だが、順序の逆転が必要な場合はある。それは驚くべき出来事が起こっていることを示す。
 奴隷が主人のもとに来る客の足を洗うのは当然のことである。それは社会秩序に則った当たり前の出来事である。しかし、我々はそれとは違うところに連れて行かれたのである。
 「イエスは彼に答えて言われた、『私のしていることは、今あなたには分からないが、後で分かるようになるだろう』」。
 今は分からないが、後で分かる。だから、今は分からないまま、私の言うことに従っておきなさい、と言われたのである。実際、ペテロはここでは何も分かっていない。そして、主はここで分からせるためのことを言っておられるのではない。
 ところで、「後で分かる」とはどういうことか。後日とは、復活を経験すれば、ということなのか。恐らくそうではなく、14章16節で、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」と言われ、26節で、「助け主、すなわち、父がが私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」と言われ、さらに、16章12節以下で、「私には、あなた方に言うべきことがまだ多くあるが、あなた方は今はそれに堪えられない。けれども、真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう」と言われることと一致する。
 言葉を聞いて、その場で分からなければならない、と思う人が多いが、キリストの御言葉を性急に、その場で理解したいと要求することは正しくない場合があると知っておきたい。今示されていることも、この場で説明を聞いて分かろうとするには及ばない。後で分かれば良いというのでなく、むしろ、分かる時が来るまで待たなければならない。
 主はここで十分と思われる説明をしておられる。だから、我々は分かったと感じる。しかし、まだ本当には分かっていない、ということを弁えなければならない。そして、どこが分かっていないのかを探り求めなければならない。
 さて、ペテロが「私の足を洗わないで下さい」と辞退したのに対して、主は言われる。
 「もし、私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」。
 ペテロは彼の常識によって、このことは畏れ多いからと辞退した。「そうすると、私との関係がなくなる」と主は言われるのである。これまで、ずっと一緒に生活して来たし、多くのことを教えられたが、それだけでは何の関わりもないことになる。これは戦慄すべき申し渡しである。
 何の関わりもない者とならないために、今、この最後の機会に、あなたの足を洗うのである、と主は言われるのである。だから、単なる謙遜の模範というようなものではない。
 しかし、すぐ後に「あなた方はキレイなのだ」と言われる。全身が潔い。足だけ洗えば良い。それなら、すでに関わりはあるのではないか。したがって、ここは聖書の中でも極めて難解な箇所である。
 難解であることをさらに複雑にしているのは、10節の原文が二通りある事実である。この本文の問題は、ギリシャ語で解明して行かなければならず、我々には労苦が多く、また、労苦した甲斐ある成果を見るわけでもない。我々に与えられている日本語で考えて行くだけで足りると思う。
 このように難しいのは、語られた主の、またそれを伝えた福音書記者の論理が破綻しているからだと割り切る解釈はあるが、我々はそれを採らない。とすれば、「足を洗う」という言葉には、我々が分かったと思っていた意味以外にも意味があったということにならざるを得ない。
 9節10節を見よう。「シモン・ペテロはイエスに言った、『主よ、では、足だけでなく。
 どうぞ、手も頭も』。イエスは彼に言われた、『すでに体を洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がキレイなのだから、あなた方はキレイなのだ。しかし、みんながそうなのではない』」。
 洗うということに、二つの意味が重なっているのではないかと言った。一つの意味は、弟子たちがすでに全身のバプテスマを受けていて、バプテスマを繰り返す必要はない。
 しかし、バプテスマを受けたからといって、完全に聖なる者になったわけではない。足は毎日汚れる。だから、毎日のように足を洗わなければならない。そういう洗いが一つある。
 では全身を洗ったほかに、くり返し足を洗わなければならない、その足の洗いは何なのか。ここで、バプテスマの他に、罪を潔める儀式が必要なのだという解釈が出て来る。
 しかし、どういう儀式なのか。それが主イエス・キリストの制定によって初めのときから実行されていた証拠があるか、となると、証拠はない。足を洗う儀式を守っている教会はあるが、その儀式が主の言葉に基づいて実行されると理由付けられるのは確かであるとしても、最後の晩餐の時以来この儀式が行われた証拠はない。そのほか、ローマ・カトリック教会では、信徒は少なくも年に一度、教会の司祭のもとに行って、罪を告白して、赦しの言葉を貰い、罪の償いのために何をするかを教えられなければならない、と定めているが、これが主のここで指示しておられることであろうか。確かに言えることは、こういう制度はずっと後世のものだということである。
 教会の儀式でなければ何なのか。個人的に互いに赦し合うこと、各自己れの罪を反省し、赦しを求める祈りをし、福音によって赦しを確認すること、これの繰り返しではないか。我々の間ではそういう理解が持たれている。これはこれで間違っていないと信ずる。
 しかし、主イエスが今ここで「私があなたの足を洗わないなら、あなたと私の関係はないことになる」と言われたことの意味はこれではまだ解き明かされていない。
 足を洗うということには、もう一つ意味が隠されているのではないか。それは秘義と言うほうが適切である。すなわち、今まさに十字架の死を遂げようとしておられる時、足を洗うということは、キリストの十字架の血に触れさせ、血による潔めに与らせるという意味を持つのである。十字架の血に触れるとは、そのような交わりを主との間に持つことである。主イエスは我々全てに対して、御自身のために血を流せと言ってはおられない。けれども、使徒たちは次々に殺されて行ったではないか。彼らは強制されてではなしに、主の御跡に続いたのである。それはハッキリとした命令ではなかったが、使徒たちは喜んで主に従ったのである。これが彼らには後日分かってきた。