2002.10.13.
ヨハネ伝講解説教 第130回
――12:44-50によって――

最初に、「イエスは大声で言われた」と記されている。「大声」とは、語られたことを徹底させ、聞き手の心に印銘するためのものである。その場には多くの聴衆がいたのではないかと思われるが、その一人一人に言葉を届かせるために声を大きくされた。つまり、我々はこの御言葉を聞く時、その声が自分の心に、自分の思いの端々にまで、鳴り響くように、耳を傾けて聞かなければならないと思いを新たにする。
 これまでのことを振り返って見れば、7章28節には、「イエスは宮のうちで教えながら、叫んで言われた」と書かれていた。その続きの37節にも、「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた」と書かれていた。叫ばれた機会はそれほど多くはなかった。
 大声でという表現から反射的に思い起こされるのは、御言葉が「静かに、細き声で」語り掛けられる場合があるということである。例えば、列王紀上19章に語られるが、預言者エリヤが迫害を逃れて神の山ホレブに篭った時、大嵐があり、大地震があり、火があったが、大地震の中にも、大嵐の中にも、火のなかにも神はいましたまわなかった。しかし、火の後で、静かな細い声があった。
 静かに語られた御言葉をジックリ聞いて深く受け止めることが大事なのは言うまでもないが、主は時に大音声を張り上げて語り掛けたもう。それは誰もが聞かなければならない宣言だからである。聞きたくない人も聞かなければならない内容なのだ。――今日学ぶことは、言葉としては全てこれまでに教えられた教えの繰り返しであるが、それらがシッカリ聞き取られる必要がある。だから、すでに学んだことであるが、思いを新たにして聞き取ろう。
 主は言われる。「私を信じる者は、私を信じるのではなく、私を遣わされた方を信じるのであり、また私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」。
 地上の生涯の終わりに当たって、これまでに教えられたことの総括的宣言がなされる。
 ヨハネの福音書では伝道日誌をつけるように事件が順次書かれて行くのでなく、一回一回、それなりに纏まった場面の物語りが積み重ねられる。そして毎回の事件は殆どユダヤ人との論争的なやり取りであって、その論争の眼目は、人の子であるご自身が、神から遣わされて来たということ、したがって遣わされた者として語り、遣わされた者としての業を行うほかない、という主張であった。今日学ぶのもまさにその繰り返しである。
 神から遣わされて語るのだと言われても、そういうお前は神ではないではないか、ただのナザレ人に過ぎないではないかと、人々はいつも反発する。しかし、旧約の歴史を思い返して見れば、これまでも、神は遣わされた使者を通して語りたもうのが通例ではなかったか。神はモーセを通じて律法を与え、預言者を通じて言葉を与えたもうた。それを聞いて従うのが信仰であると言って良いのだ。ユダヤ人は先祖以来、信仰とはそういうものだとを教えられている。しかし、神から遣わされた最大の使者が到来した時、ユダヤ人の不信仰はその先祖たちに見られなかったほど、ひどいものであった。これは他の福音書でも指摘されていることと共通する。
 イエス・キリストの福音が異邦人の国々に宣べ伝えられた時、人々が遣わされて来た者のメッセージを聞こうとしなかったのはユダヤ人の場合と違わないように見えたが、異邦人の方がズッとマシであった。それも全ての福音書に共通して記されている。
 神の言葉が神から遣わされた人によって語られ、それが受け入れられることが信仰なのだと、主は繰り返し教えたもう。この教えはさらに主の復活の後、20章21節に、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と言われることと結び付けて心に留めなければならない。だが、このことは重要ではあるが、今日はこれ以上は触れない。
 「私を信じる者は、私を信じるのではなく、私を遣わされた方を信じるのである」。これは、「イエス・キリストを信じることはそれほど大事でもない。彼を遣わしたもうた神を信じることこそ大事だ」と言われたものではない。神を信じることなら、自分はしている、と言う人はあちこちに沢山いるのではないか。しかし、その人たちの信仰とはどういうものであるか。洗いなおして見ると、神の在ますことは分かっているとか、神が絶対者であってその決定に逆らうことが出来ないのは分かっているとか、神が恵み深い方であることは分かっているつもりだというだけで、いずれも一つの観念、一つの哲学に過ぎず、それ以上に確かな確信を掴んでいないのである。
 単純な言い方をすれば、そこにはキリストとの人格的な出会いの事実がない。イエス・キリストについては知っている。その立派さも分かっている。しかし、話しに聞いてナルホドと思っている以上には踏み込んでいない。したがって、具体的な服従の業も始まらないし、悔い改めという転換も起こらない。
 我々はキリストについての観念や説明を受け入れているのではない。キリストと出会って、確かめて、この方こそ私の救い主であり、私の身を捧ぐべき主であると確認し、かつ彼を誉め称えるところまで行かねばならない。例を挙げれば、4章42節でサマリヤ人たちがスカルの女に「私たちが信じるのは、もう、あなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この方こそまことに世の救い主であることが分かったからである」と言った通りである。
 しかし、イエス・キリストと出会って信じるということの本当の意味に達し、その全内容が見えていなければならない。そのためには、今日学ぶように、「私を信じる者は、私を信じるのではなく、私を遣わされた方を信じるのである」ということを、シッカリ捉えなければならない。つまり、私を信じるとは、父が私を遣わして、私をあなたに出会わせておられたこと、その全体を受け入れるのでなければならない、と言われる。
 単なる知識の整理として言うのではないが、纏めて見ると、こういうことである。キリストとの実際の出会いがなければならないのである。神について、あるいはキリストについて聞いたことを、承認して胸に収めて置くというようなことでは信仰ではない。人間イエスとして世に来たりたもうた彼と出会い、感動し、彼の後に随いて行くという決断が現実として始まらなければならない。しかし、それは彼を信じるようになったというだけのことではない。
 彼が父から遣わされて世に来たりたもうたから、私は彼と出会うことが出来たのである。遣わしたもうた父との関係の中で、遣わされたイエス・キリストを捉えなければならない。だから、福音書を読んで、イエス・キリストがよく分かったと感じただけでは、いわば川向こうから眺めているだけだ。向こう側のキリストでなく、ここにおられるキリストとの交わりの中に私が捉えられていることこそ重要である。そして、キリストとの交わりを持つとは、キリストを遣わされた父なる神との交わりを持つことである。使徒ヨハネは後年手紙を書いて、「私たちが見たもの、聞いたものを、あなた方にも告げ知らせる。それは、あなた方も私たちの交わりに与るようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と言ったが、御子との交わりは父との交わりと切り離してはならない。これは、今日、「私を信じる者は、私を信じるのではなく、私を遣わされた方を信じるのである」と言われる内容と通じるのである。
 次に、「また、私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」と言われる。信じるを見るに置き換えても良いであろう。これもここまでに繰り返された教えである。ヨハネ伝の初め、1章18節で、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ、父の懐にいる独り子なる神だけが、神を顕したのである」と教えられた基本的な教理である。父を見ることは出来ないから、御子を通して見るのである。
 同じ教えがこの後も繰り返される。14章10節である。「私を見た者は、父を見たのである」とピリポに言われる。この箇所は間もなく学ぶところであるから、今日は詳しく述べないが、その前に主イエスは「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか」と慨嘆しておられる。言葉によっても、事実によっても、このことは繰り返し教えられていたのに、まだ分かっていないのは情けないことであるが、繰り返し教えなければならない大事な原理であることを知っておく必要はあろう。
 「見る」は「知る」と言い換えてもよい。さらに、「知る」とは、知る対象が人格である場合、知識として知り、記憶装置に留めて、いつでも呼び出せるようにして置くということではない。交わりを持つ、共に生きる、という意味である。「心の淨い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう」とマタイ伝5章で言われた。神を見るとは、神についての知識を持つことよりも、神と共に生きる幸いな状態に入って行くこと、すなわち救いを把握することである。
 「私は光りとしてこの世に来た。それは、私を信じる者が闇のうちに留まらないようになるためである」。
 キリストが光りとして来られたことについては、先ず1章9節で、「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」という言葉が我々の心に植え付けられた。つい先頃、12章35節で教えられた。そこでは「光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」と切実な思いを込めて呼び掛けられた。光りを信じる者は光りの子になると約束された。今日の所では、「私を信じる者が、闇のうちに留まらないようになるためである」と言われるが、同じ主旨である。光りはそれ自体が光りであるだけでなく、物を照らす。闇を照らす。照らされた者が或る意味で光りとなる。それは真の光りに照らされたからそうなるのであり、その真の光りから離れても光りであり続けるという意味ではない。我々がキリストに背いて離れたならば、闇に転落する。しかし、例えば、反射板が光りを当てている間だけ輝いているが、光りを取り去ると闇になるように、キリストを信じていてもキリストから離れると、とたんに闇になるというのではない。
 「私は光りとしてこの世に来た」と言われる時、我々は8章12節に、「私は世の光りである。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう」と言われたのを思い起こす。「世の光り」ということについては、9章5節に、「私はこの世にいる間は世の光りである」と言っておられる。初めから光りがあったことは全く確かであるが、その光りが世に来ないうちは、世の光りは見えなかったし、光りによって光りに変えられるという出来事も起こらなかった。キリストが世に来られて、福音の光りを照らしたもうて以来、福音を信じる者が闇のうちを歩かないということは現実となった。
 キリストが来られたことによって大変動が起こったのである。キリストとの関係が始まる時には、変革が起こるのである。「この水を飲む者は誰でもまた渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりでなく、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」と4章で言われた。7章では、「誰でも渇く者は、私のところに来て飲むが良い。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われたのも同じ主旨である。
 つい先にも、光りを信じる者は光りの子となるのだ、と言われた。そのことがさらに強められた言葉で語られる。「私を信じる者は、闇のうちに留まらない者となる」。これをさらに強めた言い方にすれば、「私が来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである」となる。
 その前に、「たとい私の言うことを聞いて、それを守らない人があっても、私はその人を裁かない」と言っておられる。これは8章11節で、姦淫の女に、「私もあなたを罰しない」と言われたのと同趣旨の言葉である。つまり罪の赦しである。聞いても行なわない者が裁かれなくて済む、と言われたわけではない。私は裁かないと言われたのは嘘ではないが、私は罪の赦しと救いのために来た、というのがこの言葉の真意である。
 主は「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て子に委ねられた」とヨハネ伝5章20節で言われ、続いて27節に、「子に裁きを行なう権威をお与えになった」と言われたではないか。8章26節には、「あなた方について、私の言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」と言われたではないか。キリストが裁きたもうことは確かである。マタイ伝16章27節に、「人の子は父の栄光のうちに、御使いたちを従えて来るが、その時には、実際の行ないに応じて、それぞれに報いるであろう」と教えられている。
 聞いても行なわない者に対する警告を我々はマタイ伝7章26節で聞いている。「私のこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることが出来よう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そして、その倒れ方は酷いのである」。
 主の言葉を聞くだけでそれを守らない、すなわち、その言葉に聞き従わないのは、見せ掛けの家と同じであって、嵐が吹けば壊れてしまう。そのように、聞いてもそれを守らない人でも、裁かれないで済むのか。その問題は次の48節の教えによって解決するのであるが、「聞いても守らない」ことと、「言葉を受け入れない」こととは問題が少し違うと見られるかも知れない。前者は「主よ、主よ」と言うけれども、何もしない。後者は「主よ」と言うことすらしない。しかし、結局は同じである。
 「私を捨てて、私の言葉を受け入れない人には、その人を裁くものがある。私の語ったその言葉が、終わりの日にその人を裁くであろう」。なぜなら、私の語った言葉は父に命じられた言葉で、それを語ったのは私でなく父であるから、私は裁かなくても、私にその言葉を語らせたもうた父は裁きたもう。どういう言葉か。多くの言葉が語られたが、絞り込んで言えば、「私の遣わす子を信ぜよ」という一語に帰する。
 「私はこの命令が永遠の命であることを知っている」。………この命令とは、前の節にあった、御子に対する命令、これを語れとの命令であるように思われるかも知れない。
 そうではなく、御子が父の命を受けて、これをせよと人々に命じられたこと、すなわち御子を信ぜよとの命令である。それに背く者は裁かれる。
 「私はこの命令が永遠の命であることを知っている」。これはキリストを通して与えられた戒めが命の道であるという意味である。モーセは「イスラエルよ、今、私があなた方に教える定めと掟を聞いてこれを行ないなさい。そうすれば、あなた方は生きることが出来る」と申命記4章で言い、律法を朗読し終えて、32章でまた言ったものと同じ骨子の言葉である。これを行なえば生きると約束された。キリストも似た形の約束を与えたもう。ただし、律法の行ないによって生きるというのではなく、御旨に従って御子を信じるなら生きるという内容になっている。モーセの約束した命は、約束の地で生きる命であったが、キリストの約束は御子を信じることによって得られる永遠の生命である。