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ヨハネ伝説教 第13回

――1:30-31によって――

「私のあとに来る方は、私よりも優れた方である。私よりも先におられたからである」というヨハネの証言は15節ですでに一度聞いた。ただ、そこではヨハネの証言は間接的な引用文として挙げられたから、彼の言わんとするところを強く打ち出すものとは言えなかった。その言葉の意味を、今ここで本格的に学ぶのが相応しいであろう。
 私の後に来られるにも拘わらず、私より先におられたから、彼は私よりも偉大である、と言う。難しい言い方ではない。その偉大さの本領は34節にある「神の子」という言葉によって確定的に示される。「私よりも優れた方」というだけでは相対的な比較であるから、ことはハッキリしなかった。それより更に優れた人がおられるかも知れないからである。しかし、人の子でなく「神の子」であるなら、比較はそこで打ち切られるであろう。神の子とはそういう意味である。メシヤが来るという期待は持たれていたが、それが神の子であるとはハッキリ言われていなかった。
 私よりも先におられた、という点がこの証言では重要である。私よりも先、とは私よりも前に生まれた、年上だという意味ではない。ヨハネの第一の手紙の冒頭にある「初めからあった」という意味である。この点は、荒野に叫ぶ以上に重要である。初めからおられたことを示されたから、こう証言したのである。
 ユダヤ人の間には、来たるべきメシヤが、実は前からおられる。それは天に隠されている。時が満ちれば天から降りて来られる、という黙示的理解があったようである。例えば、ダニエル書7章13節の「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って来て、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」という言葉は、永遠者の御座の前に人の子の形をしたメシヤが進み出る場面を描いているが、その人の子はすでに天上のどこかに存在し、現われる準備をしていたということがここでは読み取れるのである。
 メシヤがすでに天で準備を完了し、地上に降るのを待っているという意味の言葉を旧約外典やユダヤ教の文書から引くことが出来るが、その引用は省略しても良かろう。とにかく、そのような理解が一般にあったことは容易に分かるのである。
 しかし、ヨハネの語った時代の人々のメシヤ理解・メシヤ期待がどうであったかを論じても、歴史的状況についての知識が加わるだけであって、あまり信仰の益にはならないように思う。それよりは我々にとっての意味を考えるべきであろう。
 イエス・キリストは人となって世に降って来られて以来、人々に知られるようになりたもうた。しかし、知られる前は存在しなかったという意味ではない。ヨハネ伝8章58節で主イエスご自身ハッキリ言っておられる。「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から私はいるのである」。
 主イエスはまたヨハネ伝5章46節で「モーセは私について書いたのである」と言われた
。モーセの書は久しい昔からキリストを語っていた。だから、初めからいますキリストを知らなければならない。
 今日、偏見をもって福音書のイエスを見る人は、彼について様々の冒涜的なことを言うが、拗けた心を持たない人なら、聖書の描くままのナザレのイエスの人間としての偉大さを認めずにはおられないであろう。彼を人類の教師として尊敬するのは当たり前のことである。しかし、我々にとって、イエスを人間として尊敬することには、それほど重要な意味はない。すなわち、彼を慕い、彼を尊敬していても、滅びの中にいる我々の救いにはならないからである。
 ナザレのイエスが人間として素晴らしい魅力を持ったお方であるのは確かであるが、そのことよりも、彼が私のために死んで下さったことの方が遥かに重要であると我々は心得ている。すなわち、彼の死によって我々は罪の中から贖われたからである。だから、キリストの生涯と言葉の中に示される素晴らしい知恵よりは、キリストの十字架の死に我々は重点を置く。ヨハネが「見よ、この素晴らしい教師を」とは言わず、「見よ、世の罪を負う神の小羊」と言ったのはそのためである。
 キリストの福音は屡々「十字架の言葉」と呼ばれる。パウロはIコリント1章22節23節で、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と断言した。
 そのパウロは続いて、2章2節では「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと決心した」とまで言う。キリストについて語ることは山ほどあるが、特に、十字架につけられたことを専ら語らなければならない。そこに救いが掛かっている。
 だから、「世の罪を担い、かつ取り除く神の小羊」というヨハネの証言はキリスト証言として特別に重要である。しかし、今、ヨハネはそれに続いて、「彼は私の先におられた」と証言する。これもまた、欠かすことは出来ない証言である。人間としてのイエス・キリストの偉大さに感銘を受けているだけの人には、取りつく島もない遠い距離にあると感じられる言葉であろうが、我々信仰者にとっては、ここにこそキリスト理解の決定的な違いがあると思われるのである。この点がヨハネの証言においても重要だということを見落としてはならない。
 この福音書の冒頭に「初めに言葉があった」と語られた。その言葉がやがて肉体となって我々のうちに宿り、我々もそれを見た、と証言されるのであるが、肉体となって啓示される前にあったという事実の確認がキリスト教信仰には重要である。この事実を見極めなければ我々の救いの確かさはなく、刹那的な幸福感と異なるところのないものになってしまうであろう。
 神が我々の救いの歴史を作って来られたことは確かである。歴史が進んで行くうちに見えて来たものが多いことも確かである。したがって、この後さらにハッキリすることがあるのも確かである。しかし、我々の側から見てそう言えるのであって、神にもまだ分からないことがあると考えてはならない。救いの設計図は細部まで出来上がっている。だから我々の救いは確かだということになるが、救いの確かさの中心点はキリストが初めからおられた、という一言で集約出来る。
 さて、31節の「私はこの方を知らなかった」という言葉には、先にも触れたところであるが、疑問を投げ掛ける余地がある。すなわち、ルカ伝1章の記事によれば、ヨハネはイエスより半年早く生まれており、両者の母親同士は親戚関係にあった。さらに、ヨハネが生まれた時、父ザカリヤは息子を祝福し、聖霊によって預言し、「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いをその民に知らせるのであるから」と言ったとルカは言う。ヨハネはそのような父母に育てられたのである。マリヤの子イエスを意識しなかったはずはないではないか。
 しかし、ヨハネ伝では、バプテスマのヨハネは31節でも33節でも「私はこの人を知らなかった」と繰り返す。知らなかったということが、ヨハネにとっては重要な証言であったことが分かる。幼児ヨハネと幼児イエスが遊び戯れる絵をかいた画家がいるが、そういう絵は空想画であっても、実際にあり得たのである。しかし、ヨハネとイエスが所謂幼友達で、何から何まで知りあっていたとしても、「私はこの人を知らなかった」というヨハネの証言は真実であり、確かである。すなわち、その人の上に御霊が下って留まるのを見るまでは、知ったことにならなかった、という意味である。
 イエスを知ることは、その頃生きた人なら誰にでも出来たのではないか、と考えられるかも知れない。我々はマルコ伝6章にある出来事を思い起こすのである。それは主イエスが生まれ故郷のナザレに行かれた時のことである。安息日に会堂で説教をされたところ、人々は言った、「この人はこれらのことをどこで習って来たのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力ある業がその手で行われているのは、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」。
 彼らはイエスを知っているつもりであった。知っているつもりが、実は何も知らないことだという実情があらゆる事柄について言えるのであるが、そのような一般論は今は棚に上げて、イエス・キリストを知ることに絞って思い巡らしたい。イエスを知っているつもりのナザレ人は、知っているつもりであることによって、致命的な無知に陥った。そして、「私はこの人を知らなかった」と言っていたヨハネがイエスを知ったのであるが、このヨハネにおいて、イエスを知るというその知り方を学び取りたい。
 ここでハッキリ示されているように、ヨハネは御霊によってイエスを知ったのである。親の代から知っていたということは何の意味も持たなくなる、そのような知り方である。彼についての情報をたくさんもっているという知り方でなく、彼が何者であるかを知る知り方である。告白である。パウロはIIコリント5章16節で言う、「それだから、私たちは今後、誰をも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」。肉によって知るのでなく、霊によって知る、ここにキリストを知る知り方が示されているのである。
 ヨハネのイエスを知る知り方は、御霊に示されて知るという知り方であったが、今はヨハネが31節で言うことを学ぼう。「この方がイスラエルに現われて下さるそのことのために、私は来て水でバプテスマを授けているのである」。
 ヨハネは「私の後に来られるお方は、私が何をしようと、来る時には来られる。だから、私は後から来る方について講釈するか、ないしは、その方を指さしておれば良い」とは言わなかった。ヨハネは人々に水でバプテスマを授けていなければならなかった。それがキリストの出現のために必要であった。
 来たるべき方がイスラエルに現われるのは、水のバプテスマを通ってであると定まっていたのである。だが、メシヤが水のバプテスマを通って現われるとどこで預言されたであろうか。そういう預言は旧約の中になかったのではないか。たしかに、ない。ヨハネは神からの直接の啓示によってそれを知ったのである。
 ヨハネがヨルダンで水のバプテスマを執行し続けることは、必ずしもしなくて良いことだったのではないか、と考えられるかも知れない。だが、そうではない。水でバプテスマを施すことが必要であった。何故必要であったかと言えば、ヨハネの言うことを総合的に見るならば、「ある人の上に御霊が下って留まるのを見たら、その人こそは御霊によってバプテスマを授ける方である」と言われた御言葉の成就が重要だからである。 つまり、誰がメシヤなのか見分けがつかない。ただ、バプテスマの際に、ある人の上に御霊が降って留まる。それを見たなら、その方こそメシヤだということが確認できる。それで、そういうことが起こるのを待って、次から次へと水でバプテスマを授けていた、と言うのである。
 それでは、一人の人を見付け出すために、何万人もの人にバプテスマを施していたのか。あとの人には無駄なことだったのか。そうではない。なるほど、その一人を見付け出すまでは徒労と感じられたかも知れない。しかし、その一人が来られたことによって、他の人のバプテスマの意味が明らかになって来る。三つの点を考えなければならない。
 一つは、「この方がイスラエルに現われて下さるそのことのために、私は来て水でバプテスマを授けている」という言葉は、バプテスマがイスラエルにとってキリストにあう準備という意味を含むという点である。メシヤがイスラエルに来て下さるためには、イスラエルの側に準備が必要である。それが「主の道を備え、道筋を真っ直ぐにする」ことである。それは悔い改めである。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマであった。
 第二に、マタイ伝に書かれている主イエスの言葉を思い起こさねばならない。3章15節である。ヨハネはバプテスマを受けさせて欲しいと言う主イエスを制して、自分こそバプテスマをあなたから受けるべきであるのに、逆ではないかと押し留める。主は言われる、「今は受けさせて貰いたい。このように、全ての正しいことを成就するのは、我々に相応しいことである」。全てを成就するため、と言われた。今はこの御言葉について詳しいことは言わない。しかし、主がこれを成就することを必要とされたことはシッカリ捉えたい。
  もう一つはイエスの受けたもうた水のバプテスマと、人々の受ける水のバプテスマが、共通していることの意味である。
 ヨハネがナザレのイエス一人のためにヨルダンでバプテスマを行なっていたと言うことは一面では出来る。しかし、ここで謂わば裏返しに見るようにして見れば、一人の人のバプテスマのうちに他の多くの人のバプテスマが包まれ、意義付けられ、生きて来ることが分かるではないか。
 我々の間でバプテスマが行なわれている。この制度に異を唱える人は我々の中にいないから、バプテスマを否定する議論が如何に間違っているかを論じ立てる必要はない。それでも、我々の一人一人に、時として自分の受けたバプテスマについての疑いが起こって来ることはなくはない。
 洗礼を受けたのにおまえは何だ、と非難されることもあろう。自分で自分を非難し、絶望的になることも稀ではない。
 特に我々の心を揺さぶるのは、私の受けたのは水のバプテスマに過ぎないではないかとの疑いである。実際、「水のバプテスマでは駄目ではないか。霊のバプテスマこそ必要ではないか」という声がキリスト者を惑わす場合が多い。ほかの教会においてなされているのは水のバプテスマに過ぎない。こちらの教会では霊のバプテスマを授けて上げる。こう言われると、霊のバプテスマに憧れて人々は集まって来る。しかし、そこにあるのは単なる狂躁状態に過ぎない。それに満足する人は、狂躁状態に陥ることが即ち救いであると考える迷信に陥ってしまう。そこにはキリストの贖いも何もない。これではオカシイのではないかと気づく人もいるが、気づいたとしても、そこから抜け出すのがやっとである。抜け出した後、バプテスマも霊も信じられなくなってしまう。 我々に授けられるのは水のバプテスマであって良いのである。イエス・キリストがヨハネから受けたもうたのは単なる水のバプテスマであった。彼が水のバプテスマを受けた時、御霊が鳩のように彼の上に降った。そのことは、我々の受けるバプテスマが単なる水のバプテスマであっても、彼の名によって受けるならば、御霊が降ることの保証になるというしるしが示されるのである。
1999.08.08

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