◆説教2002.09.22.◆

ヨハネ伝講解説教 第128回

――ヨハネ12:34-36aによって――
 
 イエス・キリストがご自分の死について語られた時、聞いていた群衆は、「キリストはいつまでも生きるはずではないか」と疑問を持った。したがって、キリストについての理解の変更を迫られている戸惑いがあると考えられるとともに、死んでしまうような者はキリストではないのではないか、という不信感も含まれることが読み取れる。この二つの線が絡んだままで、キリストとの対立が深まって行く。
 「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになると聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならない、と言われるのですか。その人の子とは誰のことですか」と群衆は疑問を投げつける。「どうして上げられるのか」、「人の子とは誰のことか」と二つの問いがある。
 ここにいるのは「群衆」である。ユダヤ人の指導者のように、頭からナザレのイエスを否定しているのではない。期待と不信感の入り交じった目で見ている。キリストについてのユダヤ人の常識がキリストの御言葉によって揺すぶられているところを、先ず見ることにする。ここまでにお語りになった要点がご自身の死についてであることに、人々は気付いたようである。「どんな死に方で死のうとしているかを示したもうた」と33節で福音書記者は注釈したが、群衆はその註釈なしで、「上げられる」と言われたのは、「私は死のうとしている」と言われたのだと受け取ったのである。
 ところで、「キリストはいつまでも生きている」と彼らはどこで教えられたのか。それは「律法によって」であるが、律法とは、ここでは広く旧約聖書という意味、あるいはもっと広げて旧約外典まで入れて、古くからの言い伝えと取っているように見て良いであろう。旧約聖書、とくに外典にはこのようなことが幾箇所も教えられている。今、外典にまで範囲を広げるには及ばない。旧約の正典の中に、例えば、ダニエル書7章に「その国は終わることがない」と言われる。これは「人の子のような者」といわれるメシヤが天から降って来る場面である。
 このユダヤ人の群衆は、律法学者ではなく、普通のユダヤ教信者であるが、旧約聖書に教えられて、キリストの来臨を或る程度は把握していた。そういう知識があったというだけでなく、信じ、待ち望んでいたのである。すなわち、キリストが来られると、それで全てが完成する、というふうに彼らは歴史を捉えていた。世界には初めがあって、その時に全てが創造され、歴史が始まり、定まった時が満ちて、約束されたキリストが来られると、歴史は終わり、世界も終わり、後は終わりなき至福の時が始まるというのが、彼らの理解していた世界の歴史なのである。
  この固定観念と、キリストが口ずから説きたもうた死の予告とのギャップを、彼らはついに乗り越えられなかったのである。キリストが来られても、殺され、上げられてしまい、しかし、それでおしまいというのでなく、何か新しいことが始まるらしい。そこで、彼らは訳が分からなくなる。なるほど、そう言えば、この新しい教えは混乱を来たらせたであろう。世の初めについての教えと、世の終わりについての教え、またその中間の時をどう生きるべきかの教え、つまりそれは律法に従って歩んで、神の祝福と加護のもとに生きよ、との教えであるが、その三つの教えが一つのセットになっていた。これを胸に刻んで、神の指示したもう方向に進んで行くならば、永遠の幸福に与ることが出来る。やがて来たりたもうキリストは、永遠にともにいて、終わりなき祝福を注ぎたもう。
  旧約の教えの基本構造はそういうものであったと見られたのであるが、それだけの単純なものでないことは、少し踏み込んで読めば分かる。例えば、現実には義人が苦難を受けると教えられる。非常にハッキリしているのは、キリストが苦難の僕として来られると預言されている点であろう。だから、キリストが到来されて、それで目出たし、目出たしということにはならない。その先にもう一段階がある。もっとも、キリストの苦難が始まり、終末の到来が先送りされ、またもや長い歴史が始まるということではない。キリストの苦難は比較的短期間で終わる。では、苦難の期間が終われば、いよいよ終わりなのか。いや、終わりはまだ来ない。キリストが来られても、おしまいにならないで、信ずる者の歩みが続く。そのもどかしさ、これがユダヤ人には躓きになったのである。
 キリストが来られれば、約束された民イスラエルの救いが完成する、とユダヤ人たちは期待していた。ここで彼らは二つのことをシッカリ考えなければならなかった。一つは約束の基づいて来たりたもうたキリストを、信仰と悔い改めをもって受け入れなければならないのに、彼らはそれを無視したのである。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」と1章11節で聞いたが、この実例はヨハネの福音書で何度も見て来た通りである。彼らは自分の幸福追求という観点でしか救いを考えていないから、神が救いのためにどれだけのことをなしたもうかを考えていず、自分に何が問われているかにも思いが及ばなかった。
 もう一つは、旧約の中で神は異邦人の救いにも言及しておられたが、それはこれからなのである。約束を受けて待っていた者らだけが神の国に入って、門は閉じられ、後の者は外に閉め出されたまま、ということではない。神は選び置き、選びを告げられた者に、先ずキリストの到来を告げて、悔い改めを促したもうたが、その次に、救いの予告すら知らされていなかった異邦人に、キリストの福音による救いを与えたもう。ここにいるユダヤ人の救済理解では、この異邦人の救いが抜け落ちている。ここでも、彼らは躓きを乗り越えなければならなくなる。
 先に23節で、「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言されたことを聞いたのであるが、主イエスがこのように宣言されたのは、数人のギリシャ人がピリポのところに、キリストに会いたいと申し入れて来たからである。すなわち、約束の民イスラエル以外のもろもろの民族の救いが計画されており、その計画がいよいよ実現し始めたのである。
 先に、「私がこの地から上げられる時には、全ての人を私の所に引き寄せるであろう」と32節で言われたが、「全ての人」というのは異邦人を含む地上の全民族という意味であると我々は理解することが出来た。その異邦人の救いの時に入ったのである。それは始まったばかりで、全てはこれからである。「その人の子とは誰のことですか」とユダヤ人は困ったように言うのである。人の子の来ることは知っているし、信じている。それはダニエル書7章13節に、「見よ、人の子のような者が天の雲に乗って来て、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と栄光を賜い、諸民、諸族、諸国民の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることはなく、その国は滅びることがない」と教えられている通りであった。人々が思い描いていた「人の子」のイメージはこういうものであった。
 それに従ってナザレのイエスはあるいは人の子かも知れないとの期待が高じていたが、それとは違うではないか、死んでしまうような人は約束されたメシヤとしての「人の子」ではないのではないか、と彼らは騒ぎだす。その「人の子」とは誰なのか。あなたは、自分のことを「人の子」と呼んでいるが、それは約束された救い主という意味の「人の子」ではないのではないか。あなたの他に約束の救い主がいるのではないか。彼らは混乱してしまっている。
 そういう人たちに主イエスは答えたもう。「もうしばらくの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい」。問われた質問に答えたことになっていないのではないかと思われるかも知れない。しかし、答えになっていると我々は思う。すなわち、今まで見て来たことは、このユダヤ人が終わりの日、またメシヤの来臨について知っていた知識をめぐってのことであった。今、主イエスが持ち出したもうのは、「あなたは私を受け入れるのか、受け入れないのか」という問いである。ここで決着がつくのである。つまり、我々もこのときのユダヤ人がどういう知識を持っていたか、というようなことで、聖書のここの箇所の理解を終わらせるのでなく、私自身も、この光りを受け入れるかどうかを問われるのである。
 主イエスは先に8章12節で言われた、「私は世の光りである。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことなく、命の光りを持つであろう」。この御言葉と今日学ぶところは若干似ている。私に従って来る、とは「光りとともに歩く」ことである。また、11章9-10節に、「1日には12時間あるではないか。昼間歩けば、人は躓くことはない。この世の光りを見ているからである。しかし、夜歩けば躓く。その人のうちに光りがないからである」と言われたのも似た言い方である。光りがなければ、方向も見えないし、足元も見えない。光りがあるうちに歩かなければならないのである。時間が限られていることを示しておられる。
 闇に追いつかれないように、光りのある間に光りを捉えねばならないが、それを捉えるための時間としては、「しばらく」の猶予があるだけなのだ、と主イエスは言われたのである。ユダヤ人たちの期待していたところと全く食い違っている。彼らはキリストが無限に生きたもうように、自分たちも終わりなき幸いを味わうことが出来る、と考えていたが、キリストが来て、そこで光りの子となるかどうかの分かれ目は、僅かの間に決めなければならないと教えられる。
 「闇は追いついて来る」。光りに会うことの出来る時は、間もなく過ぎて行く。こういうことは彼らとしては考えたこともなかった。救いはいつでもある。神の国に予約席が取ってあって、好きな時に行けば良い席に座ることが出来るとユダヤ人は考えていた。しかし、旧約聖書でも、例えば、イザヤ書55章6節に、「あなた方は主にお会いすることの出来るうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と教えられている。限定された時間の中に置かれていることを弁えよ、と言われる。
 この聖句で心しなければならない点が二つある。第一に、神が在ますのは当然のことであり、神と出会うのも当然だと多くの人は思っているが、これは当然のことであるようであって、そうではない。神は尋ね求めなければ会えない。「あなた方は主を求めよ、そして生きよ」とアモス書5章8節に言われる通り、探求する者こそが神と出会うのである。そして、求める者は見出すとの約束がある。だから尋ねても出会えないのではないか、と不安に思うことはない。
 第二に、神にいつでも会えると思ってはいけない。会うことが出来る時間は限られているという事実を知らなければならない。遅く来る者も入れてもらえるのではないか。これこそ福音の真髄ではないか、と考えている人は多いようである。なるほど、葡萄園の主人の譬えが示すように、神は夕方まで待って下さる。何度も機会を作ってくださる。しかし、夜が来て、作業が終わったのに、それでも広場に人を求めに行くということではない。収穫の時は閉じられた。
 「闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない」。ユダヤ人たちは自分がどこに行くかを知っているつもりなのだ。しかし、闇の中にいて、自分のいるところが闇の中だということにも気付いていない。分かっていないのにヤミクモに歩いても、滅びに入るほかないではないか。光りが照っていても、その光りを認めていないのであるから、闇の中なのである。
 主は「闇に追いつかれないようにせよ」といわれたが、今までずっと光りがあったが、それが間もなく闇になるという意味ではない。1章9節に、「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」と宣言されているように、光りは初めから輝いていたのではなく、その時になって世に来たのである。「光りが来た」と言われるのは、キリストが来られたことを指す。しかし、「世は彼を知らなかった」。光りを知ろうとしない者にとっては、光りはないのだから、キリストが来ておられても闇と同じである。しかし、光りがある間に光りを信じるならば、闇は光りになる。
 「闇に追いつかれないように」と言われるが、闇が今は待っていてくれるが、そのうちに動き出して、光りに襲い掛かるという意味ではない。1章5節で教えられた通り、「光りは闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」。光りが闇に敗北するのでは決してない。
 今聞いている主の言葉の中では、「光り」とはキリストのことである。世の初め、第一日に、創世記1章3節にあるように、神は「光りあれ」と言われ、光りが存在するようになった。その時まではなかった。そこで言われる光りと、今学んでいる光りは区別しなければならない。世の初めに造られた光りは、毎日、誰も見ることが出来る。しかし、主イエスがご自分を指して言われた光りは、それ自体としては永遠であるが、来て、去って行く。
 「光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」。――光りを信じるのは、光りがある間だけで、光りが去った後、光りを信じようと切に願っても、そこには闇しかなく、光りを信じることはもう出来ない。いつでも信じることが出来ると思っていては間違いなのである。
 では、イエス・キリストが去って行かれた後、もう彼を信じる機会はないのか。勿論そういうことではない。キリストが世を去りたもうた後でも、またキリストを拒否したユダヤ人でも、キリストを信じれば立ち返ることは出来る。我々も遥かに遅れて来たのであるが、門は閉じられていなかった。それでも、時が限られていることは十分弁えていなければならない。
 ここで教えられるのは、神から差し出された機会を捉えてこそ、信仰に入ることが出来るのであって、信仰の時が人間の手中にあると安易に考えてはならないこと、また与えられた信仰の時には「決断」という要素をこめた応答をしなければならないということである。
 「光りの子」という呼び方は新約聖書によく使われる。これと対照的なのは「闇の子」である。「子」という語が二通りあるが、区別をつける必要はないと我々は考える。I テサロニケ5章4-5節に、「しかし、兄弟たちよ、あなた方は暗闇の中にいないのだから、その日が盗人のようにあなた方を不意に襲うことはないであろう。あなた方はみな光りの子であり、昼の子なのである。私たちは、夜の者でも闇の者でもない」と言われている。
 エペソ書5章8節には、「あなた方は、以前は闇であったが、今は主にあって光りとなっている。光りの子らしく歩きなさい」と勧められる。今日の聖句とは余り関係があると思えないが、ルカ伝16章8節に、「この世の子らは、その時代に対しては、光りの子らよりも利口である」と主イエスが言っておられる。それほど、光りの子という呼び方はキリスト者の間に普及していたのである。
 「闇の子」が「光りの子」になるのである。光りの子になるのは、変化する、転換することによってであると理解することも出来ようが、むしろ、「光りの子」として新しく生まれることによってであると捉えるべきである。3章で主イエスはニコデモに、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」とハッキリ言われたではないか。我々がその「光りの子」なのである。光りの内を歩むのである。


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