◆説教2002.09.15.◆ |
ヨハネ伝講解説教 第127回
――ヨハネ12:31-33によって――
キリストの死はその栄光である。あるいは、彼の栄光はその死であると言っても良い。彼の生涯が、一面では決して人々から仰ぎ見られることのない、目立たぬものであったが、しかも、そこに栄光が現われていたことを我々は知っている。しかも、28節の御言葉にある通り、神はさらに栄光を顕すのだと言われた。その栄光の時とは十字架に上げられる時である。それが栄光の時だということを、ハッキリ教えるのが、今日、31-32節で学ぶ御言葉である。分かり易く言うならば勝利宣言である。あるいは、大変動が起こったことの告知がなされると言っても良い。 主は言われる、「今はこの世が裁かれる時である。今こそ、この世の君は追い出されるであろう」。「今」という言葉が繰り返され、ここに非常な強調が置かれる。今までとは違う事態になったのである。今までと同じに考えてはならないのである。キリストが来て、十字架に架けられたが世は何も変わらなかったと思っている人は多いが、あなた方はそう思ってはならない、と我々は教えられる。 「今」と言われるのは、彼が直面しておられる今である。「今、私は心が騒いでいる」、「今、私は憂えて死ぬばかりである」と言われた「今」、「父よ、この時から私をお救い下さい」と嘆願された「この時」である。この事態についてはやや詳しく見て来た。人々の言い方によれば、絶体絶命の危機の時である。だが、その今の時が、同時に、この世の裁かれる時、この世の君が追い出される時である、と宣言される。「この世」はズッと彼を認めなかった。 それは福音書の初めに、1章9節-10節で「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。そして世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた」と総括して言われた、その「世」である。世は彼を認めようとしなかった。その実例をヨハネ伝で数多く見て来た。羊は羊飼いの声を知っているから、その声が聞こえるとたちまち駆け集まって来るはずである。けれども、世は彼の声、彼の言葉が聞こえても、動かなかった。それはもともと彼の羊でなかったからであると説明出来る一面がある。だから、この後の時代でも、来ない者は来ない。けれども、もう一面、今日のところで学ぶように、これまでは、或る力が働いて、主の招きを聞くことも、それに応じることも出来なくさせていた。その力が今崩れ去るのである。 彼は人々に悔い改めの呼び掛けをされただけでなく、世の人々の前で数々の徴しを行ないたもうた。10章37-38節で、「もし、私が父の業を行なわないとすれば、私を信じなくても良い。しかし、もし、行なっているなら、たとい私を信じなくても、私の業を信じるが良い。そうすれば、父が私におり、私が父におることを知って悟るであろう」と言われたが、そのような徴しとなる業をも、人々は見ようとしなかった。見たことは見たのであるが、何も変わらず、見ないのと同じであった。 その世が裁かれる時が来た、と主イエスは宣言される。これまでも裁かれていたのではないか。確かにそうであった。3章18節-19節で、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者は、すでに裁かれている。神の独り子の名を信じることをしないからである。その裁きというのは、光りがこの世に来たのに、人々はその行ないが悪いために、光りよりも闇の方を愛したことである」と言われた通りである。これまでも裁かれていた。信じないこと自体が裁きであった。信じないということは、救いへの道を自ら断ち切ることであるから、自分で自分を裁きに引き渡すことであった。そして、自分自身はその裁きに全く気付かなかった。そのように、これまでは裁きが個別的に、そして秘かな形で行われていた。しかし、今は違う。今、裁きは露わになったのである。そう宣言される。そして、これまでは、光りが来ているのに光りよりも闇の方に執着して光りを無視したが、それが今や出来なくなったのである。 主イエスは8章15節以下で、裁きについて語っておられる。「あなた方は肉によって人を裁くが、私は誰も裁かない。しかし、もし、私が裁くとすれば、私の裁きは正しい。なぜなら、私は一人ではなく、私を遣わされた方が私と一緒だからである」。これまでは、「私は裁かない」と言っておられた。しかし、今、裁きが行われるようになったのである。私が裁くときには、私を遣わされた方が一緒に裁きたもう。これまでは、裁かれても、裁かれなくても同じであるように考えていた。 だが、今や違うのである。これまでと違う。大転換が起こったのである。これまでは、世がキリストを拒否したなら、世界を神なき世界として固めることが出来た。この世がキリストを抹殺すれば、キリストの存在も、神がキリストを遣わされた計画も否定出来ると思われていた。しかし、今や、それが出来なくなった。世は裁かれてしまった。だが、まだ裁かれていないかのように振る舞っているではないか。なるほど、そう見えることは事実だ。しかし、それは上辺の見せ掛けに過ぎない。だから、そこを見抜かねばならない、と主イエスは我々に教えたもう。 次に、ほぼ同じ意味で、「今こそ、この世の君は追い出される」と宣言される。――「この世の君」とはサタンのことであるが、この世を支配し、この世がこの世でしかあり得ないように縛り付けている者である。この世の君については、この先の14章30節で、「私はもはや、あなた方に多くを語るまい。この世の君が来るからである」と言われる。これはゲツセマネで逮捕される前のお言葉であって、まもなく逮捕する人の手に陥るから、語っている時間がない、という意味である。 それでは、裏切り者、それに導かれた一隊の兵卒、祭司長の送った下役たち、これらが「この世の君」だと言われるのか。逮捕に来たこの人々がこの世の君であるというわけでないことは言うまでもないと思う。彼らはこの世の君から遣わされて、この世の君の意志を行おうとしている器である。彼らは神から遣わされたキリストを捕らえ、抹殺し、その処置が神の定めに適って正しいことを自分で確認する。こうして神の意志が行われることがないようにする。彼らはこの世の君の意図の実現、キリストを死に付することの成功、その勝利を喜び歌うであろう。しかし、彼らが勝利だと思ったことがこの世の君の没落であった。 この世の君の裁きについて、もう一度、16章11節で語られる。「裁きについてと言ったのは、この世の君が裁かれるからである」。この事情はもう少し前から聞いていなければ分かり難いであろう。こう言われる、「私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう。それが来たら、罪と義と裁きとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らが私を信じないからである。義についてと言ったのは、私が父のみもとに行き、あなた方は、もはや私を見なくなるからである」。こう言った後に、続けて、「裁きについてと言ったのは、この世の君が裁かれるからである」と言われるのである。こういうことについて、あなた方の目は開かれていたが、世の人の目は閉じられていた。それが開かれるようになる。彼らの目を遮っている力が没落するからである。 さて、罪と義と裁きについて、世の人の目が開かれるのは、助け主、聖霊が到来するからであると教えられる。この聖霊の派遣が、一般に語られているように、五旬節の朝の聖霊降臨のこととして捉える必要はない。ヨハネ伝では、死、復活、昇天、聖霊降臨が日程表のように時間の経過のなかで、一つまた一つと起こって行くようには書いていない。死がすでに栄光なのであるから、栄光に関わることが殆ど一挙に現われると見て良いであろう。復活のその日に、主は弟子たちに、息を吹き掛けて、「聖霊を受けよ」と言っておられる。とにかく、裁きは、聖霊が降ることによって、明らかになると言われるのである。 その君が追い出されるとは、この世におけるサタンの支配権が破綻したということである。これまでは、サタンは本当は絶対者でないのに、絶対者であるかのように振る舞っていた。サタンの意図に逆らうことは出来ないと思われていた。サタンの支配を象徴するのが死であった。死が来れば、すべてお手上げだと人々は言う。そして、死の問題を掘り下げるときに明らかになって来るのは、死が罪の結果であるというさらに深く絶望的な事実である。この事実の前に我々の足はすくんでしまった。 しかし、今や、サタンの支配以外の秩序がこの世に入って来たのである。死の力を持つ者に対して、復活の力を持つ神の子が来たりたもう。死に閉ざされた世界の一角は破られた。14章30節で言われるように、この世の君サタンは私に対して何の力もない、とキリストは言われるのである。へブル書2章14節に、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自身の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを解き放つ」という言葉が書かれているが、今日学ぶのはそのことである。死によって死を滅ぼすという勝利を獲得したもうたのである。 闇を滅ぼすのが光りであるように、死を滅ぼすのは命であると言えなくはないようである。しかし、命の光りが照って、死の闇が消え行くと言っても、それはお伽話しのようなもので、確かさという点では無意味である。そのようなことは言わないほうが良いのではないか。死の満ちた世界に命の君が来たりたもうても、それで一挙に明るくなるわけではなかった。死を滅ぼすのは高次元の死、祝福であるような死、キリストのみが担い得たもう死である。 我々に教えられる確実な教えは、命の君がご自身の死によって死の大本を打ち倒し、しかも、力においてはご自身の方が遥かに優っておられたから、共倒れというようなことに終わるのでなく、ご自身は復活し、死の敗北だけが残ったのである。 次の32節に行く。「私がこの地から上げられる時には、全ての人を私のところに引き寄せるであろう」。「上げられる」とは、十字架の上に上げられることであり、それは極みまでの苦しみを受ける事ではあるが、しかも同時に、その上げられるのは、栄光の位置へと高められるという意味を持つ。昇天の持つ意味と同じなのである。これはヨハネ伝でしばしば聞いて来た特徴ある言葉である。 この「上げられる」ということについては、3章14節に、「ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられねばならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と予告されていた。そして、イザヤ書52章13節-14節で、「見よ、我が僕は栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、損なわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである」と預言されたものの実現である。 「上げられる」を直ちに栄光の位置へと高められることと取るならば、それはこの言葉の意味の半分を読み落とすことになり、半分を読み落とすことによって、肝心のところは全く掴めなくなってしまうのである。「上げられる」には、形損なわれ、人とも思われない様相を呈し、侮られて人に捨てられ、顔を覆って忌み嫌われる者のように蔑まれたという意味が結び付けられているのである。「地から」上げられるというのは、今述べた「上げられる」ことなのだが、地にある民を救うために地に来た者として、その地から上げられ、したがってもはや地にはいましたまわない天上の方となられることである。 その次の「全ての人を私のところに引き寄せる」。これは彼が上げられたもうように、信じる者も、引き寄せられてキリストの後に続いて行き、苦難も受け、栄光も受ける、という意味であると取ることは出来る。しかし、ここでは特に高めるという方の意味が強いのではないか。というのは、「引き寄せる」という言葉にすでに一定の意味があるからである。 「引き寄せる」という言葉は6章44節にも用いられたものである。「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない。私はその人々を終わりの日に甦らせるであろう」と言われた。ここでは、引き寄せたもうのは父である。父はご自身の民を御子へと引き寄せ、御子はその人々を終わりの日に甦らせて、永遠の生命に入れ、こうして救いの計画を全うしたもう。「全ての人」を引き寄せるとは、誰でも彼でも永遠の救いに入れられる、という意味でなく、ユダヤ人のみでなく全ての異邦人もという意味である。20節で学んだように、数人のギリシャ人がイエス・キリストに会おうと訪ねて来た。それは万国の民が続々と来るという出来事でなく、一つのささやかな徴しであるに過ぎない。けれども、主イエスはその徴しが人の子の栄光の時の到来の徴しであることを読みとりたもうた。 ヨハネ伝は大祭司カヤパが一つの奇妙な預言をしたことを伝えている。それは11章49節以下に記されているが、「あなた方は何も分かっていないし、一人の人が人民に代わって死んで、全国民が滅びないようになるのが私たちにとって得だということを考えてもいない」という言葉である。カヤパ自身、何も分かっていないが、分からぬままに、「イエスが国民のために、ただ国民のためだけでなく、また散在している神の子らを一つに集めるために死ぬことになっている」と預言したのである。このことは今の御言葉を解釈する伏線になるであろう。33節、「イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしているかを、お示しになった」。18章32節に、「これは、ご自分がどんな死に方をしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである」と書かれているが、12章33節の御言葉の預言としての意味を示している。 どのような死か。ユダヤ人の判断を実行するならば、石打ちの刑であった。しかし、ユダヤ人は死刑執行の権限が認められていなかったので、やむなくローマ人に身柄を引き渡して、ローマの刑法によって死刑を執行させる。それは十字架の上に人々の手で上げられる死である。それは「木に架けられる者は呪われる」と言われていた呪いの死であるが、同時に栄光の地位に神によって高められる死、一粒の麦が死ぬことによって多くの実を結ぶような、祝福された死、死が勝利であり、死が復活であるような死であった。 教えられる大事なことは、キリストの死による死への勝利、それが我々のものとなったということである。彼が死にたもうただけでなく、我々のための勝利者となり、我々をその勝利に与らせておられるということである |