◆説教2002.09.08.◆

ヨハネ伝講解説教 第126回

――ヨハネ12:28b-30によって――
 
 主イエス・キリストが苦悶を語りたもうた時、天から直ちに応答があった。直ちに父なる神が答えたもうたということは、彼の苦悩が軽減されたという意味に取らない方が良いであろう。その苦悩は我々の理解を遥かに越えて深いのである。苦悩は真実大きかったのであるが、主イエスご自身、これを克服し、御父はそれを助けたもうた。天からの応答は、キリストの苦悩がジレンマとか行き詰まりというようなものとして捉えられるべきでなく、神の計画の勝利を表わすのである。
 ここで読み取られる特有な点は、父が直接に御子イエスに答えておられることである。他の福音書と比較すれば、ゲツセマネの苦悩の時、祈っても祈っても、天から応答があったようには書かれていない。神は沈黙したままであられた。ルカ伝では、「イエスは苦しみ悶えて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血の滴りのように地に落ちた」と記す。神の子が孤立無援の、殆ど絶望的と言えるほどの苦闘をされたのである。これは十字架の上で、「我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたまいし」と叫ばれた状況と符合する。ただし、父なる神がその最も愛する御子を捨てて、叫びを無視したもうたと推測することは、我々に緊張を促すものではあるが、結局は無意味である。すなわち、ここには悲劇が語られているのでなく、聖書が成就されたことの証言がある。
 ルカ伝のゲツセマネの場面には、「その時、御使いが天から現われてイエスを力づけた」という情景が描かれている。「御使いが天から現われた」とは、神が御旨を行なわせるために、これを派遣したもうた、という意味にほかならない。神に捨てられた神の子を、御使いが見るに見かねて慰めに来て、そっと汗を拭いて差し上げた、というような解釈は、俗っぽい人情話へのすり替えである。神の子が神から捨てられたという矛盾の中に放置されているのではなく、この苦悶を続け、彼の使命を遂行することが出来るように、すなわち、御子が苦しむことの意味を全うされるために、御使いが彼を力づけたのである。神は見放してしまわれたのではない。見放したとしか思われない状況であったことはその通りなのだが、そこに御旨が遂行されたのである。このことの確認がないならば、我々は悲劇を見て涙を流しているだけである。そこには救いの確かさはない。
 ゲツセマネの出来事に触れたついでに、ゴルゴタのことにも触れた方が良いであろう。ヨハネ伝のゴルゴタの記事の中には全然出て来ないのであるが、他の三つの福音書には、その金曜日、12時から3時まで、全地が暗闇に閉ざされたことを書いている。十字架の苦しみが絶頂に達していた時の間、闇が全地を閉ざし、したがって、苦しみたもう御子の姿は人には見えなくされたのである。我々の目から隠されたのである。知るべきでないとして退けられたのである。そこには父なる神とキリストのみの果たしたもう領域がある。御子の苦しみが余りにも凄惨であったため、見るに忍びないで、光りは光りがあることを恥じ、闇になったという解釈は、単に底の浅い思い付きであるに過ぎない。我々の経験でも、悲惨な情景を前にして思わず目をつぶることはあるが、それで何の解決にもならないのは言うまでもない。
 ここに神の力強い関与があったことを見落としてはならないのである。神が全く手をひいてしまわれたというのでなく、むしろ、神の御手がそこに介入して来られるのである。ただし、この時の暗闇の意義について、我々にはなお分からないところが多くある。それでも、意味の深遠さを偲ぶ手がかりとして、神が大いなる約束を携えてアブラハムに臨みたもうた夕方、大いなる暗闇が襲ったという創世記15章の記事を思い起こさずにおられない。闇は隠すのであるが、隠すことは神の御業である。そのように、ゲツセマネでもゴルゴタでも、神は不在であられたのではない。神が不在であるかのようにイエス・キリストが苦しみたもうたと解釈するのは、何の実りもない妄想である。神は厳然としてそこにおられたのである。けれども、神が直接に答えて、ご自身を顕したもうことはなかった。間接的に働き、ご自身の関与を示したもうただけである。すなわち、御使いを通じて、あるいは暗闇を通じて、御旨を遂行させたもうた。それも、少し注意して読まなければ、そこに父なる神の御旨があるということが見落とされてしまうような形においてであった。ところが、それと対照的に、ヨハネ伝では、神が直接に、また即刻に、御子の苦境に答えたもう。ただし、苦悩がそこで消滅するということではない。苦悩はこれから頂点に達する。しかし、そこに栄光が現われる。
 では、神が御子に直接に語り掛けたもうことは、ヨハネ伝以外の福音書には書かれていないのかというと、それは書かれているのだ。福音書の中でも特別に重要な場面である。
 第一に、御子がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時、天が開けて 、聖霊が鳩のようにご自身の上に下って来るのを見られた。そして、同時に天から、「これは私の子である」との御声があった。第二に、マタイ伝では17章、マルコ伝では9章、ルカ伝では9章に記される事件であるが、主イエスが3人の弟子を連れて山に登り、山の上で御姿が変わって真っ白に輝いた時、天から直接の御声があった。「これは私の子、私の選んだ者である。これに聞け」。他の三つの福音書に共通しているヨルダン川の洗礼と、変貌の山におけるこの二つの出来事、これはヨハネ伝にはない。そして、ヨハネ伝12章28節にある天からの御声について、他の福音書は全く沈黙する。ただ、この直接の語り掛けという意味で、似ていると言える。福音書の証言が一致しないという異議申し立ては、我々には縁のないものと言って良いであろう。むしろ一枚の紙の裏表のように一致していると我々は思うのである。
 主イエスに対する天からの直接の語り掛けは、どの福音書にも再々記録される出来事ではなく、その記録は限られている。二回だけである。それ以外の機会には、主イエスは祈りを通じて父との交わりを持っておられ、父に対する信頼と確信を揺るがず保っておられたのであるが、その確信は彼ご自身のうちだけのものであった。
 今回学ぶ30節に、主は「この声があったのは、私のためではなく、あなた方のためである」と言われる。これは、ここで天から聞こえた御声だけでなく、同じようにヨルダン川で、また高い山の上で、天から直接に響いた御声、またその言葉の持つ意義を説明したものである。
 29節には、「そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷が鳴ったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使いが彼に話し掛けたのだ』と言った」と書かれている。天から大声で語られた御言葉は、聞き分け出来なかったということである。圧倒される大音声であることだけが分かったのである。それでも、ナザレのイエスが只者でないことは分かった。ただし、圧倒されても信仰には至らなかった。ご自身が何者であるか、彼は十分知っておられるから、そのことについて教えられる必要はない。だから、天からの声が彼に聞こえる必要はなかった。しかし、彼とともにいる人々は、教えられなければ分からない。いや、さらに踏み込んで言うならば、教えられても、そしてかなりの程度進歩して、理解するようになったとしても、深い確信にはまだ到達していない。だから、彼らには地を揺るがすほどの大音声で、ナザレのイエスが何者であるかを教える必要があった。我々にもそのような大声で語り掛けられることが必要である。
 しかも、この大声で何もかもが解決したのではなかった。天からの大声を聞いた人の中にも、結局、主イエスを信じないまま離れて行った多数の人がいたのである。だから37節には、この一連のことの纏めとして、「このように多くの徴しを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである」と書かれている。天からの大音響も徴しの一つであった。それは人々を驚かせ、人々は気を呑まれて、反論が出来なくされた温順な状態にさせられたのではあるが、正しい意味での信仰、イエスを救い主として受け入れ、イエスを信じる信仰によって義とせられ、救いを得させられるそのような信仰に到達させる力は与えられなかった。
 では、何が必要か、ということについて、今は少しだけ触れておくが、福音書記者ヨハネは、37節以下のこの纏めの中で、預言者イザヤの言葉を引いて、その預言が成就したから、人々は信じなかったのだと説明する。「神は彼らの目をくらまし、心を頑なになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである」。つまり、見ることは見たし、聞くことは聞いたが、悔い改めを通しての救いの道を歩こうとしなかったのである。
 同じことと言って良いが、16章12節以下に記されている主の言葉を読んでおこう。「私には、あなた方に言うべきことがまだ多くあるが、あなた方は今はそれに堪えられない。けれども、真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう」。つまり、真理の御霊が窮極の解決の鍵になると約束されるのである。そして、すぐあとに言われる、「御霊は私に栄光を得させるであろう。私のものを受けて、それをあなた方に知らせるからである」。「御霊が私に栄光を得させる」と16章14節で言われることは、今日、天からの御声で、栄光について教えられたその栄光と関連している。この栄光は最終的には御霊によって齎らされ、確かにされるのである。御霊については今は詳しく論じる時がないので、別の時に譲らなければならないが、最終的には、御霊についての教えによって我々の目が開かれ、問題が決着するのである。
 主が世を去る前に、弟子たちに聖霊の派遣を繰り返し約束したもうたことは、ヨハネ伝では非常に重要な教えである。それについて、今日は指摘しておくだけにする。14章16節に、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」。………その少し後、25節以下に言われる、「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、また私が話して置いたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。………また、15章の26節に言われる、「私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう」。これらはいずれ、その箇所で詳しく学ばなければならない。
 天からの声が言われたことを今日は学ぶのである。「私はすでに栄光を顕した」。「そして、更にそれを顕すであろう」と御父は二つのことを宣言したもう。これは一連のことではあるが、二つのことである。この御声は、前からの続きとして、「父よ、御名が崇められますように」との願いに答えたものと見るべきであろう。「御名が崇められる」とは、主の祈りの第一項として我々に馴染み深い言葉であるが、「御名に栄光が帰せられる」ということであって、そのように訳した方が適切であろう。そして、御名に栄光が帰せられるとは、父の御旨が、妨げられることなく遂行されることであり、それが御子の従順と苦難によって実現しますようにという意味である。
 ところで、「私はすでに栄光を顕した」と天から答えられたのは、御名の栄光が現われるようにと祈る祈りに答えて、「私の栄光はすでに顕されたのだ」と言われたと取るのが自然である。しかし、前回少しだけ触れて置いたように、「栄光」という言葉は、ヨハネ伝でこれまで用いられた文脈の中では、御子キリストの栄光を指す場合が多かったのではないか。
 先ず、1章14節に「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた」と教えられた。「父の独り子としての栄光、そして恵みとまことに満ちている栄光」。すなわち、太陽を直視するする人はその威光の輝きによって目がつぶれるが、神の栄光は、その前で破滅してしまうような栄光でなく、恵みとまことに満ちた栄光である。これが主イエスの教えたもう栄光の基本的な性格である。その次に「栄光」という言葉を聞いたのは、カナの婚宴の記事の中であった。2章11節、「イエスはこの最初の徴しをガリラヤのカナで行ない、その栄光を顕された。そして、弟子たちはイエスを信じた」。これも御子イエスの栄光である。
 今、12章28節で、「私はすでに栄光を顕した。そして、更にそれを顕すであろう」と聞いたこの「栄光」を、御子の栄光のみであると狭く限定するならば、言い過ぎかも知れない。しかし、13章31節に重要な御言葉があるのを思い起こそう。「イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう』」。………子が父の栄光を顕すことと、父が子の栄光を顕したもうこととが重ね合わせられ、一つに結び付けられた。「栄光」についての理解の重要な鍵がここにあると思われる。そういうわけで、栄光にこの二つ相があるという意味をこめて読み取ることが出来る。また、御子の栄光と結び付け、その意味を含めてでなければ、父の栄光も十分には現われ出ないと確認しなければならない。
 次に、「すでに顕した」と言ったあとで、「更にそれを顕すであろう」と言われるが、二重の、二回に亘る栄光の現われとは何をさすのか。これまでヨハネ伝で学んで来たことを復習するならば、ガリラヤのカナで先ず栄光を顕され、その後、力ある言葉と業とによって何度も顕され、特にベタニヤのラザロを墓から呼び出す事件によって栄光を顕されたことを考えずにはおられない。これが「すでに顕した」と言われることの内容である。「更に顕すであろう」と言われるのは、もう一度顕すという言葉で、間もなく起こることである。それは単に死の三日後の復活における栄光だけでなく、十字架の死そのものが栄光の現われであるという意味で言われたのである。
 十字架の上で最後に言われたのは、19章30節の言うように「全ては終わった」であるが、これはすべきことを完成したという勝利宣言である。「栄光を顕す」と言われるのは、大いなる御業を行なったため、崇め、賛嘆せずにおられない威光を示すというだけではない。単なる威力の発現でなく、救いの力を顕し、救い主であることを示す、という意味である。「私はすでに栄光を顕した。そして、更にそれを顕すであろう」との御言葉は、そこに立っていた人たちにはただの大音響であった。だが、我々には真の意味の栄光の現われが分からなければならない。恵みとまことに満ちている栄光が示されているのである。



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