◆説教2002.09.01.◆

ヨハネ伝講解説教 第125回

――ヨハネ12:27-28aによって――
 
 今日、ヨハネ伝12章27節以下で学ぼうとしている聖書箇所は、他の福音書では、主イエスが最後の晩餐を過ぎ越しの祭りとして終えて後、11弟子を引き連れて、エルサレムを出、オリブ山のゲツセマネという場所に行かれ、そこで逮捕直前まで祈られた場面に該当する内容を持っている。言うまでもなく、一連の受難の出来事の中で、最も深刻なくだりである。「出来事」と言うよりは「秘義」と言い表した方が適切であると思われるほどである。すなわち、我々の理解力の限度を超えている。しかも、難しいからといって、敬遠するわけに行かない深い意味を含んでいる。
したがって、我々の主にして救い主なるイエス・キリストの悩み苦しみたもう有様が、あからさまに示されて、衝撃と動揺を感じない者はないであろう。しかも、ここで躓いて去って行くかと言うと、そういう人は不思議にもいないのである。たしかに、最大の躓きと言うべき事件であるが、躓く人はその前に躓いて去っており、あるいは接近を恐れて避けてしまうから、彼らにおいては本格的な躓きは起こらない。そして、躓きながらも去ることが出来ない人においては、この最大の躓きのゆえに、もろもろの躓きを越える信仰の飛躍を与える力に捉えられ、ここで、本格的な信仰の世界に参入するのである。ここでこそ我々の救いの奥深さと確かさが見えて来るのである。
 主イエスの言葉と業の立派さに心捉えられて、御跡を慕う人は昔も今も少なくない。しかし、そういう人は、それだけである限り、主に対する尊敬を失わないとしても、彼の御苦しみや、十字架の事実の前で、たじろぎ、挫けてしまうのである。つまり、十字架と面と向き合うことを回避するのである。それゆえに、本格的な信仰の境地に踏み込むことをしないで終わる。
 そこでは、心の慰めや、淨い世界への情緒的憧れは残っているかも知れない。だが、罪の贖い、義とされること、悔い改め、新しい命、罪と死に対する勝利、砕かれつつも立ち直る不退転の勇気と力、救いの確信、といった信仰に固有な事柄には全く触れることが出来ない。信仰者と、信仰に心惹かれている人との決定的な違いがここにあるということに、信じる者ならば気がついているであろう。信仰とは、確かに、決断によって不信仰を乗り切って、ある一線を越え出たところに立つことである。一線を越えていないのに、すでに越えたのではないかと甘く推定する人がいることは事実であるが、回心して、「われ信ず」と告白できるようになった人と、そうでない人との区別は、比較的簡単につく。信じているのかいないのか分からない、というような曖昧な状態ならば、それは信じていない方に入ると見るべきである。
 また、福音を宣べ伝える務めに携わる人も、自らの務めが実り空しくならないために、十字架のキリストを十全に宣べ伝えて、確実な信仰に入れるように、聞く人々を十字架の前に立たせようと、精魂を傾けて語るのである。Iコリント2章2章で、パウロは「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなた方の間では何も知るまいと決心した」と断言しているが、神がいまし、真実でかつ恵み深くあられて、我々を救いに導きたもうと教えるだけでは足りないのである。
 このような経験を持っている我々は、キリストの救いが己れの魂のうちにキチンと定着するように、ゴルゴタの場面と並んで、あるいはそれ以上に、ゲツセマネの苦悩の場面を大事に心に留めて繰り返し思いめぐらしている。ところが、ヨハネ伝では書き方が違っていて、18章にあるゲツセマネの場面、また19章にあるゴルゴタの場面を、描かれたとおりにシッカリ読み取ったとしても、彼はそこではむしろ勝利者として描かれていて、キリストの死から読み取るべき深刻なことが十分に読み取れたことにならない。しかし、ヨハネがその大事な点を無視したのでないことが、今日の学びの中で明らかになって来るのである。
 人の子となりたもうた神の子、これを受け入れることが、命であり、救いであり、信仰の要諦である、ということについて我々はつねづね教えられて来ている。このことは素直に受け入れねばならないのであるが、単純化して、ごく当たり前のことのように受け入れただけでは、受け入れたと思っていることが、頭の上を素通りしたに過ぎないかも知れない、ということに気付いて置きたいのである。
 神の子ならぬ人の子である我々、この我々を、ご自身の子とし、永遠の命を授け、救いに与る者とするために、神が旧約において予め約束された通り、ナザレのイエスにおいて人となりたもうた、と言うならば、これは聖書の教える通りであるし、分かり易い教えであり、これは決して間違った言い方ではないのだ。ただ、我々がこのことを「こともなげに」軽々と受け入れるだけでは、分かっていると思っていたことも、分からなくなる時が来るかも知れない。すなわち、信仰が試みにさらされる機会は、至る所にあるからである。分かったと思っていたことがガラガラと崩れ去り、あるいは空しいことにしか思われなくなる場合が必ず来るのである。
 そのような試練が、予防注射で病気を未然に防ぐような具合に、回避出来ると簡単に思ってはならないが、躓かないように備えをしていなければならない。また、確信が揺るがぬように事柄を深く理解して置くことは望ましい。すなわち、神が人となり、神の子が神の子でありつつ人の子となるということは、単純に信じなければならない真理であるけれども、その単純さは、人間的な意味での単純さとか、分かり易さというものと同じではないからである。
 とはいえ、我々の救いの仕組みが非常に込み入っていて、単純な頭の人間には分からない、よほど深遠にことを考え、良く精進を積まなければならないという意味ではない。恵みは無条件で差し出されるからである。だが、気安く受け入れられるというような意味に取り違えてはならない。表現は必ずしも適切でないが、人間の知性によって判断するならば、「愚か」、あるいは「矛盾」、あるいは「不合理」と言うほかない要素が信仰の道に含まれているのである。パウロはIコリント1章で、「十字架の愚か」とか、「十字架の躓き」とか、「宣教の愚か」というような言葉を頻りに使う。それは救いに至る信仰を揺るがぬものとして把握させるためである。そこでは、「神の愚かは人の知恵よりも賢い」と言われる通り、愚かと見えたものが実は愚かではない。「愚か」と言ったのは、賢いことを愚かとしか見ない人間の浅い知恵を皮肉った反語である。だから、我々は「愚か」という言葉を使う場合も、十分な弁えと慎みを必要とする。調子に乗って愚かを売り物にしてはならない。
 筋の通った話しをしておれば、人々は次第に手引きされて前進し、救いの奥の院まで達するのではないかと思われるかも知れない。学問や技術は単純な手ほどきから始めて、次第に程度の高い教えに進むようになっている。それはそれで良いのだが、そのことを救いの知識に当てはめようとすると、失敗するのである。
 人間の「罪」というものの複雑さ、たちの悪さ、根本的な捻じ曲がりというものがある。渇いた時には、水を飲めば渇きは癒されるのであるが、罪の問題の解決に際しては、そのように単純に恵みが注がれるだけではいけない。すなわち、罪は解決が与えられても、その解決をこじれさせてしまうのである。だから、我々の脳細胞の一部を使って、「分かった」という心境になっただけでは、必ず崩れる時が来る。それが崩れないようにするには、救いの恵みを、頭だけでなく、全存在をかけて会得するように修練して置かなければならない。
 罪のこの複雑さに対処して、我々の側でも複雑に考えねばならない、と取るならば、それは決して実りある結果にならない。ただ、その複雑さは罪のなせる複雑さであると気付いておくことが大事である。以上のことを念頭に置いて、今日与えられる御言葉の学びに入って行こう。
 27節から28節にかけて主は言われる、「今、私は心が騒いでいる。私は何と言おうか。父よ、この時から私をお救い下さい。しかし、私はこのために、この時に至ったのです。父よ御名が崇められますように」。
 「今、私は心が騒いでいる」と言われる。――これは人の子が、今の状況の中で胸中の矛盾を吐露したもうた言葉である。「今」という危機の時に至った、と言っておられるのである。主イエスが敵に取り囲まれるような場面はこれまで何度かあったが、そういう時、主は決して今が危機だとは言われなかった。事実、危機ではなかった。
 キリストは常に平静であられ、常に堂々としておられたのではないのか。そう見ても良いのであるが、たしかに、彼は短い時間であったが、危機に立たされたもうた。ところで、我々の救い主たるべきお方に矛盾があるとは、たしかに不穏当な言い方であるが、その不穏当さの原因は、我々の罪の側にあるということを弁えて置きたい。
 絶対に揺らぐことのないお方が滅びの中にいる我々を助けるために来たりたもう、と言ったならば分かり易いであろう。また、そのように言って支障のない場合もある。けれども、聖書では、主イエスが「私の心は憂えて死ぬばかりである」とご自身の危機について語りたもうたことを伝えている。このことを明らかにして、我々の救いが如何に価高きものであるかを示そうとするのが神の御旨である。
 次に「私は何を言おうか」と言われる。言うことを失なっておられたと取るよりは、他に言うべきことがあっても、このことだけは言って置きたいという意味ではないかと思われる。「父よ、この時から私をお救い下さい」。先に少し触れたように、「この時」という言葉がここでは重要である。主は危機に陥っておられた。と言うよりも、自ら危機に陥ることによって危機の中にある人間を救おうとされた、という意味を読み取らなければならない。その意味を明らかにするのが次の御言葉である。「しかし、私はこのために、この時に至ったのです」。だから、この時から私が免れるとすれば、私がこの世に来た意味はなくなることになる。
 「矛盾」という言葉を使ったが、このためにこの時に至った私が、この時から逃れようと願うのは、確かに矛盾なのだ。それなら、主イエスの語っておられることは支離滅裂ではないのか。たしかに、支離滅裂に見える面がある。しかし、取り乱して闇雲に言葉を父に投げつけておられるのではない。すぐに続いて、「御名が崇められますように」と締めくくっておられるからである。
 それにしても、はしたなく泣き喚くのはおかしいではないかと言われる。なるほど、幾らかでも修養を積んだ人なら、苦難をグッと押さえて、耐えるのだ。主がここで耐えられても当然であった。しかし、彼がここで何事もないかのように平然としておられたなら、我々は自分の救いの奥深さが分からなかったであろう。
 さて、「崇められる」という言葉は「栄光を顕す」とも訳せる。そう訳した方が適切ではないかと思われる。そして、直ぐそれに答えて、天からの御声は「私はすでに栄光を顕した。そして、更にそれを顕すであろう」と言う。天からの声については、次回にもう少し詳しく見ることにするが、この栄光を顕すという言葉は、これまで主に御子の栄光を顕すという意味に用いられて来たものであることに気付かせられる。したがって、ここでも御子の栄光を顕すという意味に取る方が良いのかも知れない。とすると、28節の初めの、「父よ、御名が崇められますように」との祈りは御子の名に栄光が帰せられるように、との祈りであるかも知れない。ただ、我々の目の前に開かれている聖書の28節の、「御名が崇められますように」というテキストは、今のところ「あなたの御名」と取るほかない。すなわち、私の従順によってあなたの御名が崇められる結果になりますようにという意味である。
 このくだりは、内容的に言えば、マタイ伝26章37節以下、またマルコ伝にもほぼ同様に、「そして、ペテロとゼベダイの子二人とを連れて行かれたが、悲しみを催し、また悩み始められた。その時、彼らに言われた、『私は悲しみの余り死ぬほどである。ここに待っていて、私と一緒に目を醒ましていなさい』。そして、少し進んで行き、うつ伏しになり、祈って言われた、『わが父よ、もし出来ることでしたら、どうか、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい』」と書かれているのと符合する。
 「御心のままに」、すなわち私の思いではなく、という従順あるいは服従がそこでは結論となっているが、ヨハネ伝では、先に見た通り、御名が崇められることが目標である。主の祈りの初めで、御心が天になる如く地にも行なわれるようにと祈り、同時に、御名が崇められるようにと祈るが、我々の祈るそのような祈りは、受難の主の従順に基礎づけられていることを読み取って置くことは十分に意味ある読み方である。なお、他の福音書では、この後、二度目に行って同じことを祈られ、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、御心が行なわれますように」と言われ、さらに三度目に行って、同じ言葉で祈られたと書かれている。かなり長時間に亘る祈りの戦いがあったと思わなければならない。ヨハネ伝に書かれていることは、過ぎ越しの夜更けでなく、過ぎ越しの5日前のことであり、弟子の中でも3人だけの前で語られたのでなく、民衆の前で語られたのである。同じ場面を別々に描いたものとは言えない。しかし、異なった場面であっても、同じ真理が示されたと理解しなければならない。
 「今、私は心が騒いでいる」と言われた。取り乱しておられるのである。それは神の子にあるまじきことではないのか。一見そう見える。しかし、ここには我々の罪のために背負い込まれた二重の矛盾がある。一つは、初めからいます永遠な神が人とならねばならなかったという矛盾である。神と人とが矛盾なく結び付くのを理想と考える人は多いようである。だが、創造者なる神と、被造物である人間とは、矛盾すると考えるのが当然であろう。神が人となるということは、言い慣れているため抵抗なしに語られる場合も多いが、実は矛盾に満ちている。
 もう一つは、神であるお方が、一瞬であるとしても死を忍ぶという矛盾である。人は死に直面する時、往々にして恐怖のあまり取り乱す。主イエスの場合はそれでない。10章18節で聞いた通り、「誰かが私からそれを取り去るのではない。私が自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」と言われる。小心な人が死を恐れておののく場合を考えない方が良い。それと別の恐れであるが、主は恐れたもうた。それは人間の持つ弱さを負いたもうたことと取っても良いであろうが、もっと根元的な矛盾を負われたことを示しておられる。我々には十分に汲み取れないほど深い。しかし、それだからこそ、我々の救いは深い根をおろした大木のように揺るがないのである。


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