◆説教2002.08.11.◆ |
ヨハネ伝講解説教 第124回
――ヨハネ12:26によって――
「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言する言葉によって、主イエスは一般民衆を交えた聴衆に対する最後の教えになる一連の教えを語り始めたもうた。教えの部分の初めには、「よくよくあなた方に言っておく」、「まことに、まことに、汝らに告ぐ」との厳かな告知がなされた。ここには、主イエスの教えが凝縮されており、それゆえ、短い言葉でも、意味は幾層にも重なった深みがあるから、十分に読みとかなければならないということを我々はすでに感じ取っている。 最初に言われたのは、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という教えであった。これは、ご自身の死によって我々が罪による死から生かされる、しかも、全世界に亘って多くの者が生かされる、という教えに纏めることが出来る。一粒の麦は死ななければそのままの一粒なのであるが、死ぬことによって多くの者に命をもたらし、その命は全世界に広がるのである。これは、視点を換えて、我々に当てはめて言うならば、自分の命を惜しみ愛することによって、自分の命そのものを乏しくしてしまい、自分の命を惜しまない者、さらに言えば憎む者、あるいは捨てる者は、真に豊かな命、すなわち永遠の命を受けることが出来る、という意味である。 ごくごく単純化して言えば、己れの命を固守しようとすればこれを失ない、これを惜しみなく差し出すことによって、永遠の命を与えられる、という教えになる。これは分かり易いのだが、単純化し過ぎると、命を得ると言われることの深みも確かさも見えなくなって、ただ命を捨てさえすれば永遠の生命に転じるとか、命を捨てる覚悟をすれば自由に生きられるという、単なる人生観、独り合点の思い込みに終わってしまう。だが、単なる自己放棄は尊いことでも何でもない。 自分の命を惜しまずに投げ出す人々のことが昨今話題になっている。所謂「自爆テロ」である。これは自殺行為である上、無差別殺人行為なのだが、自分の安楽を追い求める人ばかり多い時代の中で、利益も安逸も求めないで自分の命を投げ出す人がいると、人々は厳粛な衝撃を感じ、動揺する。同情すべき面があることは確かだが、同情では何の解決も来ないし、報復の連鎖を断ち切るどころか助長するだけである。 そのような感銘を受ける事件は、決して珍しいものではないと知っている人は少なくないのではないか。この国においても、57年前にはそのような命知らずの若者が大量に作り出されていたのである。人々はそれを崇高な行為であると褒めそやした。彼らは戦争目的のために自分の命を捨てることを承諾したのであるが、戦争は目的を遂げないで瓦解し、そもそも大義なき侵略戦争に過ぎなかったことが明らかになった。戦争の真相を知らないままに死んだ人は別として、命を捨てるという覚悟をしていた人々は、生き残った後で、命を献ぐべき対象を見失った。というよりは、それまで見えていたつもりの目標は作られた幻想に過ぎなかった。だから、彼らは崩れて行かざるを得なかった。少なからぬ若者が、戦後その生活を持ち崩して行った。そのような空しいものに対する献身、実質は空虚にほかならず、また犯罪と言うべきものなのだが、それが犠牲的献身である故に純真であると思って誉めていた人々の判断、その責任については、何も根本的反省がないままに、57年が過ぎ去った。だから空虚なままであった。この空虚さを表面だけ取り繕っていたのが戦後の経済的繁栄であった。その繁栄も破綻した今、人々は途方に暮れている。 しかし、この空虚さについて、最も厳粛かつ痛烈に反省しなければならないのはキリスト教会である。すなわち、主イエスは「自分の命を愛する者はそれを失ない、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命にいたるであろう」と教えたもうたが、自己犠牲や、まして全く別のものである自己嫌悪や、単なる自己放棄を教えたもうたのではない。マルコ伝8章35節では、「自分の命を救おうと思う者はそれを失ない、私のため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言っておられる。「キリストのため」、また「福音のため」ということが抜け落ちたなら、どんなに感動を呼び起こす純真で献身的な働きがなされたとしても、それは空しいし、罪であるということが分からなければならない。しかし、そのことが教会の中でよく分かってもい なかったし、シッカリ宣べ伝えられていなかった。教会は「意味のないことのために死ぬな」と確信をもって教えなかった。そのため、クリスチャンは浮き草のように漂い、風のまにまに流されるだけであった。今に至るまで、教会はその責任を真剣に考えようとはしていない。 「ほかの事のためではなく、私のため、また福音のために自分の命を捨てる者は………」と主は言われるのである。空しい事、不確かな事、真実でない事のために、どんなに無私の思いで犠牲的に尽くしても、意味がないのだ。空しくないことにこそ身を捧げよ。そして、空しくないものとは、私だけなのだ、と主は言われる。――たしかに、我々の依り頼むべき確かなお方は、イエス・キリスト以外にはないのだ。全てを捧げて空しくならないのは、キリストへの献身だけなのだ。すなわち、彼は初めからいますお方、永遠に変わらずまことであられるお方、しかも彼は我々のために命を捨て、さらに我々のために命を得て下さったお方であるから、彼のために命を捨てることは決して空しくならず、永遠の生命に与ることなのである。 そのメッセージがボヤケ、曇らされ、いや抹殺されてしまったことについて、今もそのままであって、検討を加えないままで放置していることについて、教会の説教者は恐れおののいて悔い改めなければならない。――そういう反省を踏まえて、今日は26節から学んで行く。 「私に仕えようとする者があれば、その人は私に従って来るが良い」。――すでに見たように、ヨハネ伝12章24節以下に集中して出ている主イエスの教えは、状況はやや異なるが、同じ骨子、同じ意味で、またマルコ伝8章34節以下にも集中して出て来るのである。だから、マルコ伝の聖句を参照しつつ、というよりも重ね合わせつつ、読み進むのが大いに有益である。 今日学ぶヨハネ伝12章26節は、マルコの8章34節と合致する。言葉は同じではないが、文 章の構造は同じである。そこではこう言われる、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」。これは、弟子とともに群衆を呼び集めて語り掛けた言葉であった。特定の人に語られたのではない。今後キリストの弟子になりたい人なら、誰でも、自分自身に向けて語り掛けられたものとして聞くことが出来るのである。 ヨハネ伝の方では「もし私に仕えようとする人があれば………」と言われている。これも特定の人々への呼び掛けではない。「もし仕えようとするなら」。だから、仕えようとしない人には縁がない。だが、仕えようという意志があるなら、だれでも、これを自分自身に向けての主イエス・キリストの言葉として聞くことが出来る。 この「仕える」という言葉が26節では3度繰り返される。この「仕えようとする者」という言葉に対応するのは、マルコ伝で「私について来たいと思う者」、「随いて来ようとする者」と言われる。「随いて来る」という言葉がそこではキーワードとして繰り返される。言葉としては別々である。そして、どちらも新約聖書では、その一語で信仰生活を総括できるほどの大事な言葉として用いられている。しかも、この二つの言葉は今日学ぶところにおいては、主の御口によって、一つに重ね合わせられる。「もし私に仕えようとする人があれば、その人は私に従って来るが良い」。「仕える」と「従う」とは合致するのである。 「仕える」ということを具体的な形で捉えたいなら、「弟子になる」と言い換えれば良いであろう。実際、弟子たちは教えを受けるだけでなく、大小さまざまなことにおいて主イエスに仕え、また主の後に従って行く人たちに仕えていた。仕えることを抜きにして、ただ主イエスから学び、主を信じるというのは、抽象的な信仰である。「仕える」ということを、さらに具体的に描きたければ、食卓の世話をすることである。例えば、一行13人が移動する時、掛かりの者がパンと干した魚を持って行った。5000人の大群衆が随いて来て、夕暮れになって食べる物がなかった時、主イエスは弟子たちに命じて、自分たちの食糧を供出させ、群衆の食事に仕えさせたもうた。ここでは、弟子たちが「仕えた」とは福音書には書かれておらず、上に述べたような意味で仕えたと書かれているのは女弟子たちである。また、ベタニヤの姉妹のうち、マリヤは御言葉に聞き入り、マルタは仕えたと書かれていて、仕えることが卑しいことのように思う人もいる。しかし、仕えることは女弟子に任せ、男弟子はもっと高度なことをしたと取るならば、明らかに間違いである。 ヨハネ伝のこの節でまず学ぶのは「仕えること」。我々には馴染み深い「ディアコニア」の動詞形「ディアコネオー」である。それとの関連でマルコ伝8章の方で聞くのは、「随いて行くこと」である。ヨハネ伝でも、従う、随いて行く、という同じ言葉、「アコルーテオー」という動詞が使われている。この言葉から従順とか服従という意味を読み取って、何ら間違いはないのであるが、本来は、「あとに随いて行く」という意味である。この「随いて行く」という言葉は、弟子となるという言葉に極めて近い。主イエスは弟子を召される時、たいてい「私に随いて来なさい」と言われた。 「仕える」と「従う」とでは、違うと言えば違うのであるが、結び付いていて、区別の必要のない場合も多い。すなわち、どちらも、キリストが目的であって、キリストに仕えることと、キリストに随いて行くこととは帰する所同じである。「仕える」という言葉は基本的には「主」であるお方に仕えるのであるが、主に仕えることは隣り人に仕えることと結び付いている。だから、本当に主に仕える人は、隣り人にも仕えるのである。「仕える」ことについて、主イエスが言われた大事な言葉がある。マルコ伝10章42節以下の御言葉である。「あなた方の知っている通り、異邦人の支配者と見られている人々はその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間で首になりたいと思う者は、全ての人の僕とならねばならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。 仕えることの基礎は、キリストが仕えられるためでなく、仕える者として来られたことにある。だから、キリストにある者は仕えられるのでなく、仕える。全ての人に仕えると言って良いであろう。 その点、「随いて行く」のは、主にのみ随いて行くのであって、隣り人に随いて行くこととは結び付かないのと対照的である。ただし、「仕える」場合、全ての人の僕になるのではあるが、唯一の主に仕えることと抵触するような形で人々に隷属してはならない。 今日学ぶところで主イエスは「私に仕えようと思う者は、私に随いて来い」と言われる。仕えるということの深い意味、あるいは実際的な指示は「随いて行くこと」なのだ。すなわち、キリストに仕えるため、それは引いてはまた隣り人に仕えることに結び付くのであるが、そのために何をするのが良いかと我々は考える。そして論じ合う。だが、考えるよりも随いて行くことが大事なのだ。考えることによって立ち止まってしまう危険がある。そう主イエスは教えておられる。 「随いて行く」のは、第一に、先に行かれるお方があるからである。その方が基準になり、その方に合わせるのである。つまり、自分を基準にするのではない。第二に、先立ち行きたもう主が獲得されたことに、随いて行く者も与るという意味があるのである。それは「苦難」と「栄光」である。「十字架を負って私に随いて来なさい」との御言葉が示すように、キリストに随いて行く者は十字架を避けてはならない。しかし、十字架を避けない者には十字架が復活の栄光になる。 マルコ伝10章29-30節で、主は「よく聞いておくが良い。誰でも、私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける」と言われた。キリストに続くことによって、キリストの苦難を経てキリストの豊かさに達するのである。 ヨハネ伝に戻るが、26節の後半で、「そうすれば、私のおる所に、私に仕える者もまたおるであろう。もし、私に仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」と言われることは、「仕える」を「随いて行く」に置き換えれば、平易に理解できるのである。すなわち、私に随いて来れば、私の行く所に私と一緒に行きつくことになる、ということなのだ。14章2-3節に言われる、「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言って置いたであろう。あなた方のために場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなた方を私の所に迎えよう、私のおる所にあなた方もおらせるためである」。 次に「その人を父は重んじて下さるであろう」と言われる。報いたもうと取って良いのであるが、御子と同じに受け入れたもう、と見るのが最も分かり易いであろう。「今や人の子が栄光を受ける時が来た」と言われた主は、「私に従って来る者も栄光を受ける」と言われるのである。 |