◆説教2002.08.04.◆

ヨハネ伝講解説教 第123回

――ヨハネ12:24-25によって――
 
 主イエス・キリストは「一粒の麦」になぞらえて、御自身の死と、その豊かな実りとを予告したもうた。この比喩は、マタイ伝13章、マルコ伝4章、またルカ伝8章にある有名な「種蒔きの譬え」と似た点があると誰もが感じるであろう。それは神の国の譬えであると言われている。豊かな実りという点では確かに似ている。また、主イエスは15章5,8,16節で、あなた方が行って実を結ぶのだと強調しておられる。4章36節でも「あなたがたは、永遠の命に至る実を集める」と言われる。そして、すぐ続いて言われる25節で、「自分の命を愛する者はそれを失ない、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言われるのは、この世における、使命を担った生き方に関係した教えである。だから、「一粒の麦」の譬えを、キリストにあって実を結ぶ我々自身に当てはめる人がいるのは当然であろう。
 しかし、一粒の麦の譬えを我々自身に当てはめることは、今、24節を読む段階では、しばらく差し控えて置かねばならない。というのは、ここで教えられる主題が、混乱し、ぼやけて、深い理解に到達出来なくなる恐れがあるからである。すなわち、主イエスはご自分が栄光を受ける時が来たことを語っておられる。キリストの栄光は我々の使命の充実と大いに関係があって、切り離してはならない。しかし、キリストの死によって起こる大いなる実りを、我々の働きとその実との関係と同一視してはならない。簡単に言うならば、キリストの死の独自性を把握しなければならない。これこそ救いの信仰の第一番目の確認である。
 一粒の麦という言葉は聖書を読んだことのない人の間でもかなり知られている。我々は一粒の麦にならなければならないのだ、と考える人たちもいる。その志は良いのだが、聖書の本来の言葉から離れてしまっている場合が多い。我々は主イエスの語られた本来の意味を聞き取りたいのである。キリストの死が捉えられないうちに、一粒の麦になる、と勇み足になることは正しい道を踏み外す機縁にならぬとは限らない。
 キリストの死と我々の死は、確かに無関係ではない。これはキリストに召されて、彼の後について行く者ならば、誰でも知っている。しかも、それは我々がキリストの死を見て、感動して、自分もそれにあやかろう、あるいはそれに見習う生き方をしようとするという意味での関係ではない。15章で言っておられるように、葡萄の枝が葡萄の樹に結び付いて、それ故にこそ実を結ぶのであって、葡萄の樹から離れては実を結ぶことが出来ないように、キリスト者はキリストに直接に結び付き、彼にあって生き、それ故にこそ実を結ぶのである。すなわち、キリストが死んで生きたもうたように、我々もその命に与って生きるのである。
 ではあるが、キリストの死なれた死の意味と同じ死を我々は遂げることが出来ない。我々が人のために犠牲になり、命を捨て、それによって人を生かすことはある。それは、キリストの死と似ていないとは言えない。しかし、我々が人のために、例えば生きた心臓を提供してその病人を救うとしても、その救いはイエス・キリストが我々を救って下さる救いとは別のものである。すなわち、我々は身代わりになることによって人を病気や事故から救うことは出来ても、人を罪の拘束から救うことは出来ないし、自分の命を提供したとしても、永遠の生命を与えることは出来ない。罪の問題の解決は、我々が全力を振り絞っても得られない。このことのために父のもとから遣わされた御子が、我々のために死んで下さったことと、我々が兄弟のために命を差し出すことは、関係はあるが、同じことではない。キリストの死はキリストのみの成し遂げたもう死であり、贖いである。キリストのほかに救いがないということは我々の信仰の知識の第一歩である。この点を掴んでいないなら、クリスチャンは他の人より幾分さわやかに生きているかも知れないが、ただそれだけである。
 主は「今や、人の子が栄光を受ける時が来た」と言われた。その栄光と言っておられるのは、十字架の死ではないか。だが、殺されてしまって、どうして栄光なのか。死は失敗であり、敗北であり、機会を失うことであり、そこからは何も生じないのではないかと人々は言う。そこで、主イエスは「一粒の麦」を譬えとして、十字架の死が終わりではなく、断念ではなく、出発であり、発展であり、唯一の死であるが故に、死の死、死を滅ぼすものであり、死に勝つ勝利の栄光であることを説明されるのである。これは全く平易な説明である。人は麦を畑に蒔く。その一粒から豊かな収穫が生じる。それだけの単純なことを示しておられる。
 麦の一粒は、地に下ろせば、芽を出して、やがて実を結ぶ。我々の人生もそのように他の人のために犠牲的に生きることによって実を結ぶものとなるべきか。それも考えなければならないことである。ヨハネは第一の手紙の3章16節で、「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った。それ故に、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」と教え、さらに続けて、「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、憐れみの心を閉じる者には、どうして神の愛が彼のうちにあろうか」と言う。キリストの死を知ったからには、我々も兄弟のために死ぬことを厭ってはならなくなる。しかし、だからといって、キリストの唯一の死と我々の死とを混同してはならない。我々が十字架について死んだとしても、人を一人も救えない。
 キリストの唯一の死ということは、彼以外の誰にも果たせないという意味であるとともに、彼御自身にとってもただ一度の死であるという意味がある。彼は復活して再び死にたもうことはない。彼の一回の死は永遠の贖いの効力を持つ。だから、「栄光を受ける時が来た」と言われた。すなわち、彼は御子として、唯一の贖い主として、つねに栄光を持っておられるという一面はあるが、栄光の時が常時あったのではない。今がその時なのだと言われた。
 「栄光を受ける時」ということをめぐって、なお考えておかねばならないことがある。麦が畑に蒔かれることが譬えとして引かれた。この譬えは平明であるから、人々には分かるのであるが、この譬えのうちには、麦をいつ蒔いても芽が出て、やがて実りを得るということでない、という含みがあることを思い起こしておきたい。実際的な知識でなく、抽象的な知識として、種の発芽と成長を理解しているだけでは、一粒の麦の譬えで分かったと感じるとしても、まだ本当に分かっていないかも知れない。
 実際に農業をしている人なら、種蒔きには一定の時期があることを知っている。時期を外すと、種を蒔いても芽は出ないかも知れないし、芽は出ても収穫は得られないかも知れない。人の子が栄光を受ける時が来た、と言われたその時期、それは種を蒔けば実りが得られる時期なのである。死ねばいつでも甦るということは、キリストの死にたもうた実りとしては起こるのであるが、キリストの死には、定まった時期があった。「私の時」と呼んでおられるのがその時なのだ。主御自身はその時を捉えておられた。その時期は神が知っておられる。キリストも知っておられる。我々には分からないし、また分からなくて良い。だから、時がどう定められたかを知ろうとしても無駄である。だが、時が定まっていたことは掴んで置かねばならない。例えば半年早く、つまりそれは仮庵の祭りの時期であったが、7章の44節に、「彼らのうちのある人々は、イエスを捕らえようと思ったが、誰ひとり手を掛ける者はなかった」と記されていたが、時期でなかったからである。
 言うまでもないことであるが、麦を蒔く作業は年々同じ季節に繰り返される。麦粒の命は発芽し結実する繰り返しによって、同じものとして更新される。しかし、「時が来た」と主イエスが言われたのは、その繰り返しの季節がめぐって来たという意味ではない。これは繰り返しのない時なのだ。今年失敗しても来年があるということではない。歴史の中でただ一度しかない機会なのだ。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
 麦の粒が死んで甦るという捉え方はおかしいではないかと感じる人がいると思う。むしろ、命が持続して実を結ぶ、と見るべきではないか、と今日の人は言うであろう。その考えは尤もだ。キリストの死と復活というただ一回限りのことを、一粒の麦によって譬えることに無理があった。しかし、この唯一のことを譬えようとしても、譬えとして引いて来るものがない。だから、譬えによる理解では十分行き届かないことを承知しなければならない。ただ、麦の粒が地に落ちて「死ぬ」と言われるのは、地に落ちることと葬られることとが重ねられたからである。死ななければ一粒のままである。ナザレのイエスはナザレのイエスであるだけであった。彼は立派な方であり、尊敬されていた。殺される必要がなかった。だが、彼は敢えて死にたもう。
 豊かな実と言われるのは、譬えとしては同質の実が沢山とれて、生命が継続されることなのだが、ここでは継続とか連続とかいうことを考えない方が良い。一人の死によって多くの人の命が贖われるのである。だから、譬えの通りで良いのだが、連続的な継続を考えると理解が狂ってしまう。
 種や麦が地に蒔かれて、その後に実を結ぶことを、終わりの日の死人の甦りの譬えとして用いる実例は、ユダヤ教のラビの間では珍しいことではなかったようである。ある日畑が一斉に芽を吹く。それを見て、終わりの日の甦りを思いついたということであろうか。珍しくないことだから、主イエスもこの譬えを用いたもうたし、弟子たちもそれを奇異に感じなかったのであろう。
パウロがIコリント15章35節以下で用いる種粒の譬えも同類である。「しかし、ある人は言うだろう。『どんなふうにして、死人が甦るのか。どんな体をして来るのか』。――愚かな人である。あなたの蒔くものは、死ななければ生かされないではないか。また、あなたの蒔くのは、やがて成るべき体を蒔くのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない」。パウロがこの譬えを用いたのは、主イエスが用いたもうた種や麦の譬えを踏襲したものか、ユダヤ教のラビの用いる譬えに倣ったのか、よく分からないが、このような譬えが奥義を説くために用いられることは珍しいものでなかった。小さい粒が蒔かれたのに、全然別な形で芽が伸びて来る。そのように、死んで朽ち果てた人も甦る。
 25節に、「自分の命を愛する者はそれを失ない、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言われる。この言葉とよく似たものがマルコ伝8章35節にあることを我々は知っている。その前から続けて聞くならば、こうなっている。「誰でも私に随いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失ない、私のため、また福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」。言葉はよく似ている。表現の多少の違いがあっても、今それを問題にすることは要らない。しかし、言葉が同じでも、言葉の内容は同じとは言えない。ヨハネ伝ではご自分のことを言っておられ、マルコ伝では全ての信仰者のことを言っておられる。しかし、この二つのことがよく合致する点も、ここでは重要である。キリストと我々の結び付きを、ここで捉えなければならない。
 24節を学ぶときには、キリストの死と我々の死を混同しないことが大切だと繰り返し強調された。しかし、25節では、むしろその二つのことの結び付きを見なければならない。自分自身の命をいとおしむ者はその命を失い、自分の命を惜しまずに投げ出す者は、それをむしろ確保して、豊かな命を得るのである。何でも命を捨てる覚悟でやれば成功する、と言われたのでないことは言うまでもない。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という諺があって、真理だと思っている人が多いようであるが、身を捨てたまま浮かび上がれない多くの人が、いつの世にもいたが、特に今の世にいることを説明するまでもない。
 自分の命を救おうとする者はそれを失なう。これは真実である。ではそれを逆転して、自分の命を失おうとするならば得られる、という事実がいつもどこででも起こるかと言えば、決してそうではない。捨てたならばそのまま亡くなってしまうのである。「私のために命を失う者はそれを得る」と言われる。ここには「私のため」という限定がある。「私のため」という限定が真理であるのは、キリストが死んで甦りたもうたからである。10章の17節以下の主の御言葉を思い起こそう。「父は私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが私からそれを取り去るのではない。私が自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力がある」。死と復活の結び付きは、死と生の主であられる彼にこそある。
 ギリシャ人がキリストに会いたいと申し入れて来た。その時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われ、一連の話しが始まったのである。今ギリシャ人がキリストに来たが、弟子たちが、やがてギリシャ人の世界に、福音を携えて出て行く時が来る。その時、弟子たちも、一粒の麦が多くの実を結ぶ、と言われるような働きをすることになるであろう、という意味のことを明らかにしておられる。我々も一粒の麦になる。




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