◆説教2002.07.21.◆

ヨハネ伝講解説教 第122回

――ヨハネ12:20-23によって――
 
 主イエス・キリストが過ぎ越しの祭りの5日前に、エルサレムに入られた時、「世をあげて彼のあとを追って行くではないか」と、敵対するパリサイ人も認めざるを得ないような状況であった。そのことを、前回、12節以下で学んだのであるが、人々の歓呼のうちにエルサレムに入られた主イエスが、どういう顔をしておられたかについて、我々はハッキリしたことを悟っていない。
 彼がロバに乗っておられたことは分かっている。周囲の人々が熱狂的に棗椰子の葉を打ち振って歓迎したことも読んで字の通りである。その雰囲気は我々普通人の想像力によっても或程度生き生きと捉えることが出来たのである。しかし、その中心におられた主イエスご本人の顔つき、その表情、これはどうだったのか。3年に亘る伝道の成果を収穫した人のように、あるいは凱旋将軍のように、「我が意を得たり」という自信に満ちた顔をしておられたか。それとも、周囲の人全部が浮き立っている中で、彼ひとりは、貧弱なロバの背で、沈んだ表情をしておられたのか。
 彼が十字架に向けての最終コースに入りたもうたことは見て来た通りである。その彼が人々と同じように浮き浮きしておられたのでないことも確かだ。といって、屠場に引かれて行く羊のように悲劇的な表情をしておられたと想像しても正しくない。彼は「イスラエルの王」と称えられて、その歓呼を受けるに相応しい威厳をもっておられたに違いないからである。この時の群衆の歓呼は、忽ちに消えてしまう儚いものであったが、彼がそれを知っておられて、苦々しい顔をしておられたと想像するのは間違いであった。
 人々が「イスラエルの王」という言葉を全く理解していなかったことは確かであるが、彼は事実イスラエルの王であるからである。要するに、この時の彼のお顔は我々の想像力の達し得るところではない。
 エルサレム入城の際には、ハッキリこうだと捉えることが出来なかった彼の風貌は、その次の出来事の中では、かなりハッキリして来る。すなわち、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われるからである。その言葉を語るに相応しい顔つきをしておられたであろうと想像できる。
 そのように言われたのは、数人のギリシャ人が主イエスに会見を申し込んで来たからであった。「世をあげて彼の後を追っている」とユダヤ人の指導者が言ったことの続きとして、ギリシャ人もその輪に加わった、と取るのも一つの見方である。しかしまた、ここにユダヤ人の大群衆と数人のギリシャ人との対比を読み取ることも必要であろう。
 37節に、「このように多くの徴しを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった」と書かれている通り、ユダヤ人らは結論的には不信仰に固まった。しかし、ギリシャ人がこのようにして来たのは、主イエスを信じたからである。
 とにかく、ギリシャ人がこのように申し込んで来なかった時には、「人の子が栄光を受ける時は来た」とは言われなかったのである。以上のことを心に留めて、今日の学びに入って行くことにしよう。
 「祭りで礼拝するために上って来た人々のうちに、数人のギリシャ人がいた」。………
 この「数人のギリシャ人」について、我々はここに書かれている以外に、何の情報も持たない。しかし、謎めいた話し、あり得ない物語り、というふうには思わない。ユダヤ人以外にも、アブラハムの神を信じ、その約束を受け継ぐ人たちが当時いたのである。
 使徒行伝の中からその証拠を拾い上げることは全く容易である。例えば、エチオピヤの女王カンダケは、イスラエルの神を信じていた。ただ、自分はエルサレムまで行くことが出来ないので、家来の一人の宦官を礼拝のために派遣した。また、パウロが海外伝道に出掛けた時、町々で先ずユダヤ人の共同体を捜し出して訪ねて行くのであるが、その共同体にはどの町でもギリシャ人が幾らか加わっていた。使徒行伝の中に「神を敬う者」と言われているのがその人たちである。
 ユダヤ教が排他的な民俗宗教であったように見られる節は確かにあったのだが、その逆の面もあって、異邦人に神の言葉を宣べ伝えようとの熱心な動きもあった。現にこの時すでに、旧約聖書のギリシャ語訳がエジプトのアレクサンドリアで完成していた。そのような聖書翻訳が行なわれたのは、ユダヤ人でギリシャ語世界に住む者が多くなったから、その人たちに読ませるためであるが、この聖書は当然、ギリシャ語を使う人にも読まれた。それがエジプトを経てエチオピヤにまで及んでいたのである。
 旧約聖書を読むようになったギリシャ人が、その書物の内容に打たれて神を信じるようになったが、ユダヤ人と同じようにエルサレムに礼拝に行くのが正式であると考えられたわけではない。それは彼らが不熱心であったから、遠い国まで行くことを嫌がったためだけではない。ギリシャ人の間に広まり始めたユダヤ教は、もう儀式宗教、民族宗教としてのユダヤ教ではなく、人類史上最も古く国際化した宗教であり、儀式宗教を脱皮した「書物の宗教」であった。
 先にも触れたが、使徒行伝8章に記された一つの場面を思い起こす。礼拝のためにエルサレムに来たエチオピヤの宦官は、帰国の途次馬車の中でイザヤ書を読んでいて、その解き明かしを願っていた。彼は遠路はるばる礼拝に来たほどであるから、儀式を無視してはいないが、自分として力を傾けていたのは、聖書を読むこと、御言葉を読み解くこと、解き明かしてくれる人から聞くことである。
 ヨハネ伝12章に登場する数人のギリシャ人。この人たちが評判の高いナザレのイエスという方に会いたかったのは、故郷への土産話のためではなく、人生の思い出のためでもない。イエスの姿を見るだけなら、すでに見たはずである。
 では、何を求めたか。人柄に触れることか。そばまで行って印象を確かめることか。そうではない。聖書の解き明かしを聞くためである。エチオピヤの宦官の場合から推定して、そのように見て、間違いないのではないか。
 律法学者ニコデモが訪ねて来た時、彼が予約を取って訪れたのか、誰かを介して面会を申し入れたのか、何も分かっていないが、時間を掛けて教えを聞こうと思っていたことは推定出来る。律法学者の間では聖書解釈に関して討論することがよくあったから、ニコデモも主イエスの聖書解釈を聞きたいと願って、夜訪れたのであろう。
 さて、「数人のギリシャ人」と言うが、ここで「ギリシャ人」とは、ギリシャ語を使う人という意味である。ギリシャの国民に限らず、ユダヤ人以外の人は全部それである。ギリシャ語はローマ帝国の中では世界語であった。だから、この人たちはアジア人であったかも知れない。シリヤ人であったかも知れない。出身地はどちらでもよかった。それならば、ギリシャ語を話すユダヤ人が当時エルサレムにもかなりいたから、それではないのか。ギリシャ語を使うユダヤ人の会堂がエルサレムにあって、へブル語を語るユダヤ人とは別の集団を作っていたことが、使徒行伝6章の始めの記事から分かる。この時の「数人のギリシャ人」というのがそういうグループの人ではなかったかと推定する学者もいる。しかし、そう考えるのは無理である。ギリシャ語を使うユダヤ人のことはこのようには言わなかった。この言い方はユダヤ人以外の人たちを指すとしか考えられない。ただし、この人たちがユダヤ人であったとしても、訪ねて来た意味がなくなるとか、意味が大きく変わるということはない。
 先にも触れたように、ギリシャ人が訪ねて来たことには、一つにはイエス・キリストの名がユダヤ人だけでなく、ギリシャ人の世界にも広がったことを暗示し、今後の拡がりを予想させるものである。
 もう一つ、ギリシャ人とユダヤ人の対比を読み取らなければならない。この二種の人々が対立したということではない。ユダヤ人の不信の故に、福音は彼らを離れて、結果として、ギリシャ人の方に伝わっていった。今学んでいる場面の少し先で、「イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。このように多くの徴しを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった」と書かれている
が、この彼らはユダヤ人である。ユダヤ人が拒絶したのに、ギリシャ人はキリストを受け入れた、というふうにはここで単純には言われないから、対照を強調し過ぎては行き過ぎになるかも知れない。しかし、視野に入れて置いて良いであろう。
 さて、この人たちの接近の仕方を見よう。 「彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところに来て、『君よ、イエスにお目に掛かりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行って、そのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた」。イエスに会うためには、このように幾重にも紹介されなければ道がないのか。主イエスはそれほど遠い存在なのか。そうではない。直接来ても会ってもらえたのである。ただ、この時には、主イエスの身辺警護が大事であったから、簡単には近づけなかったのではないかと思われる。
 彼らはピリポのところに先ず行った。ピリポと顔見知りであったからかも知れないが、必ずしもそうでなかったであろう。しかし、何かのツテがあった。第一に彼の名前がギリシャ名であることから、彼がギリシャ人と繋がりを持ちやすい立場にあったらしいことが分かる。もっとも、ギリシャ風の名前は珍しいものではないから、ピリポが特別な立場であったと考えることは余計である。
 ピリポについては、1章43節に先ず登場したことが思い起こされる。彼は弟子のうちで4番目に召しを受けた。召された直ぐ後で、彼は友人のナタナエルに会って、これを仲間に引き入れているほどの率直な人である。「私たちは、モーセが律法の中に記しており、預言者たちが記していた人、ヨセフの子、ナザレのイエスに今出会った」。そう聞いたナタナエルが「ナザレから何の良いものがでようか」と冷ややかに対応したのと違って、最初から非常に的確に主イエスを捉えていた。
 彼が「ガリラヤのベツサイダの出」であると書かれていることも何か含みがあるのかも知れない。ベツサイダはガリラヤではなく、正確にはガウラニテス地方に属する。そこはユダヤ人の住む地域ではなかった。ユダヤ人はガリラヤにいたのである。それだけに、ギリシャ人との繋がりがつきやすかったと理解しても良いであろう。もっとも、ペテロとその兄弟アンデレも、カペナウムと他の福音書は言うのであるが、ヨハネ伝1章44節では、ガリラヤのベツサイダの出ということになっている。弟子の中にはほかにもベツサイダ出の者がいたかも知れない。ヨハネは何かのわけがあって、ベツサイダをガリラヤの町として扱っているのである。
 イザヤ書9章1節に「異邦人のガリラヤ」という言葉が出ているが、これと関係しているかも知れない。36節以下ではイザヤ書の言葉が頻りに引かれるが、イザヤ書との関わりの中でここを読むべきことが示唆されているようである。
 さて、ピリポがアンデレに話したのは、アンデレの方が12人の中で地位が上で、主イエスに近かったからだと考える人がいるかも知れぬが、そう考える必要はない。相談したかったからである。アンデレは同じ町の出身で、どちらもギリシャ風の名前であるから、ピリポとしては親しいし、思想の傾向が同じであって、相談し易かった。そこに相談を持って行ったのは、ピリポにとっても驚くべきことであったからである。
 これまで、主イエスは主にガリラヤにあってユダヤ人に伝道しておられた。マタイ伝10章の弟子を伝道に遣わしたもうた記事によると、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失なわれた羊の所に行け」と言われる。ガリラヤにもヘロデが作ったテベリヤというギリシャ風の町がある。そこにはギリシャ人がいたが、主イエスはそういう町には行かれない。だから、ギリシャ人への伝道は考えたこともなかったであろう。この人たちを主のもとに連れて行って良いものか、アンデレと相談したのだ。そして、全く確信したのではないかも知れないが、紹介して良いということで合意して、二人で主に報告に行った。
 このギリシャ人は、「イエスにお目に掛かりたい」と願った。「見る」という言葉を使っているが、見ることはもう果たしている。会って話しをし、いろいろ質問したいという意味である。しかし、このギリシャ人が主イエスに会ったという記録はない。会ったのだと思うが、ここで登場しただけで意味がある。
 「するとイエスは答えて言われた、『人の子が栄光を受ける時が来た』」。
 ギリシャ人が来ることが、キリストの栄光の時が来たことを告げる徴しだという意味ではない。今度の過ぎ越しの祭りがそういう時であるということは前から分かっている。我々もそのように読んで来た。最終の時に向かって用意されていた一つ一つの事が起きる。ラザロの甦りも、マリヤによって香油が塗られたことも、人々が棗椰子の葉を打ち振ったことも、主がロバの子に乗りたもうたことも、それぞれに重要な意味を帯びている徴しであることは見た通りであるが、徴しという意味の事件はこれで終わる。後に残っているのは、主自ら弟子の足を洗って、愛と奉仕とへりくだりの模範を示したもうことと、夕食の食卓でこれまでの教えの総括をされることである。だから、このことがあった後、28節に天からの声が聞こえたのである。つまり、父なる神が答えたもうたのである。「私はすでに栄光を顕した。そして、更にそれを顕すであろう」。
 「すでに栄光を顕した」とは、幾人かのギリシャ人が来たことまでの一連の事件を指している。確かに、これらの事によって御子の栄光が顕されたことを我々は読んだはずである。「そして、更に顕すであろう」とは、すでに何度も繰り返し教えられたように、十字架の死と三日目の復活を指すのである。そのように「栄光を受ける時が来た」と言われた意味は重要である。すなわち、一つ一つの出来事において、それは必ずしも栄光を顕しているとは見られないかも知れないが、信ずる者にはそれが見えるのである。
 イザヤ書53章の初めに、「誰が我々の聞いたことを信じ得たか。主の腕は誰に現われたか」と言われるが、信じていない者には主の腕が現われ、主の栄光が輝き出ても見えない。しかし、信じる者には見える。そして、ここに現われた栄光を見ない者には、この後に現われる栄光も見えないと予告されたようなものである。栄光は人の子に現われたのである。人々は「神の栄光」ということについては全然問題を感じない。しかし、人の子の栄光は受け入れまいとした。ところが、栄光は人の子にこそ現われたのである。それを見ることが出来たのは、ユダヤ人よりもむしろギリシャ人であった。




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