◆説教2002.07.14.◆

ヨハネ伝講解説教 第121回

――ヨハネ12:12-19によって――
 
 ヨハネ伝における主イエスの受難の物語りは、切れ目なしに画面が次々に展開するのでなく、いわば活人画のように、断続的に情景が映し出される。記事は飛び飛びである。
 他の福音書のように、受難週における主イエスの連日のお働きを語ることはしない。12節から19節までは過ぎ越しの5日前のエルサレム入りである。そして、20節以下に述べられているのは、その同じ日と思われるが、数人のギリシャ人が主イエスに面会を申し入れて来た出来事である。このことの意義が大きいと言われるのであるから、このギリシャ人たちと会われたのは確かだと思うが、その場面は記録されていない。 この日、エルサレムに入ってから主イエスは群衆としばらく論じ合っておられたが、36節に「イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった」と記される通り、姿を隠したもうのである。そして、13章の初めには「過ぎ越しの祭りの前」と書かれる。祭りの前日という意味である。5日前から1日前まで記録は空白なのである。「身をお隠しになった」というヨハネ伝の記事と、毎日、朝から夕方まで宮で説教されたという共観福音書の記事との食い違いは、今は取り上げないでおく。一つ一つの場面で、立ち止まって、見るべきことを見、聞き取るべきことを聞く。それから次の場面に移って行くのである。
 12-13節、「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、棕櫚の枝を手に取り、迎えに出て行った。そして叫んだ、『ホサナ』」。
 「その翌日」というのは過ぎ越しの5日前である。ヨハネ伝ではこの年の過ぎ越しは金曜日というふうに捉えているのであるが、その5日前とは、週の第一日、日曜日ということであろうか。しかし、この日が何曜日であったかはどちらでも良いことである。
 「祭りに来ていた群衆」というのは、11章55節に言うように、地方から上京した者たちであろう。彼らはエルサレム市内に宿をとっていた。しかしまた、12章17-18節に、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死人を甦らせた時、イエスと一緒にいた群衆が、その証しをした。群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのような徴しを行なわれたことを聞いていたからである」とあるから、群衆と呼ばれている人の幾らかは、祭り
で巡礼者が集まって来る前からエルサレムに住む市民であると考えられる。
 11章19節には、「大勢のユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤを慰めようとして来ていた」と書かれ、45節には、「マリヤのところに来て、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた」と書かれていたそのユダヤ人たち、これは先にラザロの死を聞いて、エルサレムからベタニヤにマリヤたちを慰めに来た人たちである。その人が今日は主イエスを迎えに来た。
 祭りのために地方から上った人も、エルサレムに着いた後でベタニヤにおける出来事を聞かされた。前回、9節で、「大勢のユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押し寄せて来た。それはイエスに会うためだけでなく、甦らされたラザロを見るためでもあった」という所を読んだが、この人たちの中には、エルサレムの住民も、地方から上京中の人も混じっていたに違いない。彼らがベタニヤに押し寄せたのは昨日のことであった。そのうちの幾人かは、今日、主イエスがエルサレムに入りたもうという予定を知らされたのであろう。
 この人たちはこの日になってから「イエスがエルサレムに来られる」と聞いて、急遽、家を飛び出して駆けつけたのではない。すでに棕櫚の枝を用意していた。一つの祭りが始まるのに備えていた。物見高い人々が集まったと考えてはならない。彼らがことの意味を理解したかどうかは別として、重要な出来事に参加しているのである。
 ところで、ルカ伝19章37節には、「いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大勢の弟子たちはみな喜んで、彼らが見た全ての力ある御業について、声高らかに神を讃美して言い始めた」と書いてある。12人の弟子だけでなく、多くの弟子、したがってその大部分はガリラヤの人であったが、彼らが主としてガリラヤで見た奇跡について主を讃美しながらエルサレムに入って行った様子が書かれている。そこでは、エルサレム市民は、どちらかと言えば冷淡な傍観者、あるいは聞いて驚かされる側である。マタイ伝21章10-11節では、「町中がこぞって騒ぎ立ち、『これは一体どなただろう』と言った。そこで群衆は『この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである』と言った」と書いているのも同じ趣向である。
 しかし、ヨハネ伝では、ラザロの復活を見たユダヤ人、しかもエルサレムから見に行った人たちがかなり積極的な役割を演じる。彼らは大挙して主イエスを出迎えたのである。準備して迎えに出たのである。それは彼らがベタニヤで見た奇跡が、特に大きい出来事であったからである。それは、ガリラヤで行ないたもうた癒しや、パンを分かつだけの奇跡とは段違いに大きい出来事であった。その出迎え人の多さに比べると、主イエスを取り囲んで行った人の数は少ないし、陰も薄い。
 要するにここでは、全国から都に上っていた人たちも、またエルサレムに居住していた人たちも、一丸となってキリストを迎えたということに注意を促される。さらに、今回は取り上げることが出来ないが、先ほど少し触れた数人のギリシャ人、この人たちも歓呼する群衆の中にいて、単なる見物人でなかったと見るのが妥当であろう。
 「迎えに出て行った」と書かれているが、迎えに行ったのはベタニヤまでの人もおり、エルサレムの外れまで、町の門から宮に至る道筋まで、といろいろな程度があった。彼らは棕櫚の枝を持って迎えた。
 他の福音書では、主がエルサレム入りをされる際、弟子たち、またガリラヤから随いて来た人たちが、主イエスの周りを取り巻いて、讃美の声を上げながらエルサレムに乗り込んだように読めるのであるが、ヨハネ伝では、エルサレムが主を迎える。入城に当たって弟子たちの役割は実に小さく扱われている。16節で少し触れているだけである。
 つまり、エルサレムが挙げて主を迎え、彼を讃美している場面を見るべきである。弟子たちの占める特殊な位置、それを無視して良いとは言わないが、ここでは、殆ど全ての人が主を迎えに出ている点を強調しなければならない。パリサイ人が19節で、「世を挙げて彼の後を追って行ったではないか」と言った通りである。
 では、主イエスのこれまでの御業の集大成のようなことがここに実現したのか。そうではない。彼らはまもなく散り失せる。これまで、人々が熱心に集まってはまた散って行くことが何度かあったが、今度もそうなのである。いや、これまでは群衆も多くの弟子たちも散って行くが、12人だけは離れなかった。ところが、今度は12人さえも散って行く。16章32節で主は言われる、「見よ、あなた方は散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を一人だけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている」。
 それでは、エルサレムが挙げてキリストを迎えたのは空ごとであったのか。そうではない。信じない人たちには全てが空しかったのであるが、示されていることは決して空しくない。我々はそこから学ぶべきことを学ぶのである。エルサレムは主を迎えねばならない。
 ここでは、特に主がラザロを墓から呼び出して、死人の中から甦らせたもうたことに力点が置かれているのを見たが、これは我々にとって重要である。彼は単に癒しの教師ではなく、死人の復活を成就する者としてエルサレムに入って行かれる。人々がそれを迎えたのは当然であった。
 彼は死んで三日目に甦りたもうのであって、この時はまだ殺されていず、死が予想されてもいないし、人々はむしろ凱旋将軍のように彼を迎えたのであるから、復活については向こうにある受難のさらに向こうのものであるため、予感も出来ないし、殆ど考えて見ることも出来ない。浅薄と言っては言い過ぎであろうが、エルサレム入城では一時的熱狂が繰り広げられるだけの事件であった。
 だが、そのように見えるとしても、それだけのものと捉えてはならないのである。人々には見えないし、思いつくことも出来なかったのであるが、我々には死人の甦りを実現させる救い主の到来が示されているのである。我々はここからさらに目を高く挙げて主の栄光を見なければならない。
 人々は叫んで言った、「ホサナ、主の御名によって来たる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
 人々は棕櫚の枝を手に手に集まって来た。ここに棕櫚と訳されているのは「棗椰子」とするのが正しい。枝というのは柄の付いた葉のことである。
 レビ記23章の仮庵の祭りについての記事を思い起こす。「あなた方が地の産物を集め終わった時は、7月15日から7日の間、主の祭りを守らなければならない、すなわち、初めの日にも安息をし、8日目にも安息をしなければならない。初めの日に、美しい木の実と、棗椰子の枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、7日の間あなた方の神、主の前に楽しまなければならない」。棗椰子は祭りに最も広く用いられる木であった。
 ユダヤ人にとって喜ばしい祭りは仮庵であり、それと棗椰子が結び付いたのであるが、我々にとってさらに印象的な情景は、ヨハネ黙示録7章9節に描き出されたそれであろう。「その後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数え切れない程の大勢の群衆が、白い衣を身に纏い、棕櫚(すなわち、棗椰子)の枝を手に持って、御座と小羊の前に立ち、大声で叫んで言った、『救いは、御座にいます我らの神と、小羊から来たる』」。我々は昔の日に起こったことでなく、終わりの日に我々も参加して起こることとして、棗椰子の葉をかざす祝いを思い見なければならない。
 「ホサナ」とは、「今、救いたまえ」という意味であるが、本来の意味はかなり薄くなって、喜ばしい讃美の掛け声になっていたようである。
 「主の御名によって来たる者」とはメシヤのことである。それはまた「イスラエルの王」でもある。かつて、人々がイエスを捕らえて王にしようとして、主がそこから逃れて行きたもうたことがあるのを6章で読んだ。そういう意味での王とされることを彼は拒否される。しかし、18章37節で主はピラトに向かって「私は王である」と言われた。ただし、それに続いて、私の王国はこの世のものではない、と宣言される。王ではあるが、この世の王とは全く違う。そのことは、ここでも見られる通りである。
 次に「イエスはロバの子を見つけて、その上に乗られた」。このことは他の福音書にも共通している記述である。
 16節には「弟子たちは初めはこのことを悟らなかった」と記される。何と風変わりなことをなさるお方であろうかと考えたのである。「先生、なぜ、こういうことをされるのですか」と尋ねる者もいなかった。ロバの子に乗られた意味は、続いてゼカリヤの預言の解き明かしのうちで明らかになる。
 この「シオンの娘よ、云々」の句がゼカリヤ書9章9節から取られたことはキリスト者の間では広く知られている。この預言が来たるべきメシヤを指したものであることも、聖書に通じたユダヤ人ならば悟ったのではないかと思われるが、弟子たちは悟らなかったとヨハネは言う。まして、群衆は詰まらぬこととしか見なかったであろう。
 ゼカリヤのこの預言の解釈は難かしいものではない。次の節と併せて文脈を見て行けば、同義語の反復と、反対の句の対比から解いて行けば、意味は十分明らかになる。「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって、勝利を得、柔和であって、ロバに乗る。すなわち、ロバの子である子馬に乗る。私はエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果てにまで及ぶ」。
 エルサレムに対する祝福の言葉である。約束の成就の宣言である。約束されたメシヤが来られたと宣言する。では約束されていたお方はどういう方であったか。それは平和の主であり、勝利者であられるが、徹底して柔和なお方なのだ。
 「イエスはロバの子を見つけて、その上に乗られた。それは、『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がロバの子に乗っておいでになる』と書いてある通りであった」。
 ロバの子を道で見つけたので、それを引いて来て乗られた、と言っているわけでは必ずしもない。見つけたという言葉は、もっと広い意味に解釈して、手に入れたというくらいに取って良い。他の福音書で言われているように、2人の弟子を遣わして「主の用なり」と言って連れて来させたロバに乗られたというのと何も矛盾はしない。
 ロバは軍馬と対照的である。小さくみすぼらしい。日常的なことでは助けになるが、戦争には全然役に立たない。ロバに乗って来る王も、力強くは見えない。しかし、ロバに乗って来る王は軍馬に乗る王や将軍よりも強い。この王が来る時、地上の争いは止む。
 さて、「弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またその通りに、人々がイエスに対してしたのだということを思い起こした」と書かれている。弟子であるヨハネは自らの鈍さを正直に告白する。主の訓練を受けていながら、彼らが悟るに鈍い実例をこれまで何度も見た。我々も自分の悟りの鈍さを弁えて置きたい。しかし、重要なことを悟るまでには、しばしば時間が掛かる場合があるということをここで思い起こさなければならない。
 弟子に向かってでなく、人々に言われたのであるが、8章28節で、「あなた方が人の子を挙げてしまった後はじめて、私がそういう者であること、また私は自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、分かって来るであろう」と語られたことがある。弟子に向かっては、13章7節に、「私のしていることは、今あなた方には分からないが、あとで分かるようになるであろう」と言っておられる。
 教えられて直ぐに分かるということがあって良いのだが、直ぐに分からないのは駄目なのだと決めつけてはならない。鈍さを恥じることもない。直ぐに分からない人の方が却って本当に分かる場合があるのである。人は自分の理解力で悟るのだと思い勝ちであるが、本当の理解は神から来る恵みである。自分で分かったと思っているが、神からの悟りを与えられていないならば、分かったと感じたことも或る時フッと消えるのである。
 我々は旧約の中には来たるべきキリストについての約束が満ちていると教えられているので、ゼカリヤ書のロバに乗った王の到来の預言を読むと、直ちに、これはキリスト預言であり、ロバはキリストの柔和と遜りの象徴であると理解する。そのことではかつての使徒たちより分かりは早い。しかし、本当に分かったのかというと、別問題である。
 本当の理解のために恵みの時を待たなければならない。
 その時分からなかったことは、イエスが栄光を受けられた時に分かった。こうして得られた理解は風で吹き飛ぶような理解ではなかった。では、イエスが栄光を受けられたとは何か。これまで繰り返し学んで来たように、復活の栄光でなく、十字架においてすでに輝いている栄光である。その栄光に触れた時に分かったというのである。我々にもそのような本当の理解が約束されている。



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