◆説教2002.06.23.◆

ヨハネ伝講解説教 第119回

――ヨハネ12:1-3によって――
 
 「過ぎ越しの祭りの6日前に、イエスはベタニヤに行かれた」。――荒野に近いエフライムという町に滞在しておられた主イエスは、ベタニヤに行かれた。それは、過ぎ越しの祭りの6日前であった。
 先に11章55節で、人々が祭りに先立って身を潔めるために各地からエルサレムに上ったことを読んだ。主がベタニヤに行かれたのは、それと同じ時期であり、民衆と同じ姿勢である。彼は過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上って行く人々のうちの一人であられた。人々が身を潔めるために、祭りの前の週にエルサレムに入ったように、主イエスも前の週にエフライムを発たれた。エフライムはエルサレムの北、恐らくサマリヤに属する地にあったから、多分エルサレムを通り抜けないで、ほかの道から先ずベタニヤに
入られた。そして、その翌日エルサレムに入られた。
 エルサレムに上った人たちの重大関心事は、主イエスが今度の祭りに来られるかどうかであったことを我々は11章56節に記された彼らの言葉で読んでいる。また、「イエスの居所を知っている者があれば申し出よ」とのお触れが出ていたことも知っていたため、人々は非常な緊張感をもってことの成り行きを見守っていたのである。そして、主イエスがベタニヤに入られたことは人々には分からなかった。彼らは翌日になってそれを知ったのである。
 とにかく、これ以後、福音書は周辺的なことを描かず、もっぱら主イエスにスポットライトを当てるのである。我々も周辺事情に関心を分散させないで、ひたすら主イエスに目を注ぐ。そこに我々自身の救いが懸かっているからである。
 さて、「過ぎ越しの祭りの6日前」と書かれている。ヨハネ伝によれば、この年の過ぎ越しの祭りの小羊を屠る日、1月14日は金曜日であった。だから、その6日前の8日は安息日であったのではないか。恐らく安息日が来る前に、金曜日の夕方以前に、ベタニヤに入られたのであろう。
 それが何日であっても、別にどうということはないように思われる。しかし、福音書記者ヨハネは日付をハッキリさせたかったようである。それは一日一日が緊迫した情勢の中で最後の日に向かって進んでいた時であるから、そのことを我々に感じさせようとしているのである。重大な事件が起ころうとする時、人々は指折り数えて一日一日を刻むのであるが、そういうことが始まっていた。
 ベタニヤの夕食が終わったその次、12節には、「その翌日」と書かれている。すなわち、エルサレムに入りたもうたのは祭りの5日前ということになるが、その日が安息日であったとすれば、その日にはじっとしておられたはずである。だとすると、エルサレム入りをされたのは週の第一日であったことになる。その頃の人の日の数え方を我々の感覚に合わせようとすると非常に難しい。一生懸命に計算して、今日は何をされた日であるかを偲んでも間違っているかも知れない。それでも、一日一日主に密着する修練を積むことは愚かなことではない。
 その次に日付が分かるのは、13章1節に「過ぎ越しの祭りの前」と書かれているところである。過ぎ越しの祭りの前日である。13日の夕である。所謂「最後の晩餐」の記事である。この夜更けに主はゲツセマネで逮捕され、スグに裁判に掛けられ、翌日十字架に架けられたもう。
 では、エルサレム入りをされて、過ぎ越しの前日までの数日間、何があったのか。他の福音書では、真っ先に宮潔めをされ、その翌日から連日、宮の中で民衆に説教をし、また律法学者と論争したもうたと書いている。その部分がヨハネ伝にはない。その代わりになる出来事は書かれていない。空白なのである。13章1節によれば、過ぎ越しの祭りの前日の夜、弟子たちと最後の食事を共にしたもうたまでは数日の空白がある。12章36節の後半には、「イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった」と書かれている。どこかよそに行かれたというのではないようである。エルサレム市内におられた。 最後の晩餐はエルサレム市内で行なわれたことは、18章1節に「これらのことを語り終えて、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた」とあることから明らかである。しかし、人々には姿が見えなかった。すなわち、信じて、エルサレム入りを歓呼して迎えた群衆と決裂され、彼らは去って行ったのである。主イエスの後について行くのは12人だけであった。ちょうど6章で弟子の多くが去って行ったのと同じことが起こった。
 ところで、最後の晩餐が過ぎ越しの祭りの前日と書かれていることについて、いずれまた触れなければならないが、受難週の日程が、ヨハネ伝と共観福音書では食い違っていることは聖書を読む人たちにはよく知られている。共観福音書では、最後の晩餐が過ぎ越しの食事なのである。ヨハネ伝では、主イエス御自身が弟子たちの足を洗いたもうたことと、非常に長い説教が記される。明らかなこの食い違いについて、難問を解きほぐす努力が必要である。
 しかし、同じ主の同じ弟子たちの目の間でなされた御業の日付が違っていることの説明は容易ではない。当時のユダヤに、一日ズレた二種類の暦があったということが明らかになって来た。伝統的な暦と、新しい宗教集団で用いていた暦である。死海の荒野のクムラン教団の用いていた暦とヨハネ伝の暦は同じである。これは問題の解明に或る程度役立つと思われるが、スッキリしないものが残る。
 一日ズレているのがどういう所であるかを見れば、核心部分が何であるかが分かる。共観福音書は、最後の晩餐を過ぎ越しとして捉え、過ぎ越しの成就の確認がここで制定され、それが教会で代々にわたって守られる聖晩餐の主題とされる。一方、ヨハネ伝では、ゴルゴタにおける主の死こそが過ぎ越しの小羊の死であると捉える。過ぎ越しの小羊の屠られる時刻に主は死にたもうた。
 意味が食い違っていないと分かっても、書かれたことは変わらないのであるから、食い違いが解消されたことにはならない。だが、どちらの福音書も主イエスの死による贖いの成就を証言している点では食い違っていない。
 1節にはなお、「そこは、イエスが死人の中から甦らせたラザロのいた所である」と書かれている。そういうことは、ここに記すまでもないではないか、と言われるかも知れない。まるで読者が直ぐ前の11章のラザロの復活の事件を知らないと思って説明しているかの如くである。そう言えば、11章2節に「このマリヤは主に香油を塗り、自分の髪の毛で主の足を拭いた女であった」と記されるのは、12章にある香油の物語りと別の文脈の物語りであることを匂わせているように読まれるのではないか。別々に成立した伝承が、後で綴り合わされたのだと主張している学者もいる。しかし、我々は単純に理解した方が良いであろう。つまり、ヨハネは繰り返しの手法を用いているのである。我々も繰り返しを示されて、強調点を深く悟らせられるのである。
 過ぎ越しの6日前のベタニヤにおける夕食の模様については、余りにも簡単にしか語られていないけれども、重要な意味があるということに気付かせられる。ここではマリヤが香油を注いだことに端を発するイスカリオテのユダの非難と、それを反駁する主の言葉が記されているだけで、食卓の情景を示すものは何もない。だから、大した出来事ではない、と読み過ごされがちである。
 「イエスのためにそこで夕食の用意がされた」という記事をシッカリ読んで置こう。これはイエスのための晩餐なのだ。マリヤは高価なナルドの香油を一斤、この日のために取って置いた。マルタは心を籠めて接待した。招待した人が別にいて、マリヤ、マルタ、ラザロがそこに来たと読むことも出来無くないが、この三人が主を迎え入れたと取って置こう。彼らがこの夕食の意義を弁えていたかどうかは分からない。しかし、何かを感じていたらしい。「貧しい人たちはいつもあなた方と共にいるが、私はいつも共にいるわけではない」と主イエスの言われた言葉が彼らに分かっていたかどうかもハッキリしない。しかし、「何かがある」、「これが終わりかも知れない」という予感があったことは我々にも読み取れる。
「ラザロも加わっていた」と言われる。それは当然のことである。死から甦らせられた
 ラザロが感謝を覚えて、主を迎えてそこに侍るのは当たり前である。だが、それにしては、主イエスとラザロとの会話が何もないではないかと言う人があろう。だが、ここではラザロとの会話は大して意味のないものである。ラザロが黙ってここにいるだけで十分であった。すなわち、彼は復活を語り伝える証し人というよりは徴しだった。終わりの甦りの日の祝宴を映し出す鏡である。
 だから、この夕食をラザロの快気祝いとか、感謝の晩餐会とか説明しては意味付けにならない。そういう説明で身近に感じられるかも知れないが、事柄はもっと崇高であった。これは来たるべき大いなる出来事の徴しという意味を持つ。端的に言って、メシヤの晩餐会が祝われ、それが一幅の画になったのである。
先ず、ラザロがいる。彼は何も言わないし、顔かたちがどうであったかも分からないが、甦らせられた者としてそこに侍るだけで良かった。次にマルタがいる。彼女はもてなしをした。ルカ伝10章40節には、「マルタは接待のことで忙しくて心を取り乱した。云々」と書かれていて、マルタの接待はマリヤの信仰的な姿勢と対比されて、マイナスのイメージで描かれる。ルカ伝で接待と訳しているのと、ヨハネ伝で給仕と訳している言
葉は同じである。ここでも、マルタとマリヤを対照的に読むことが出来なくはないが、マルタの奉仕でこの夕食が成立したことを見た方が良いのではないか。そしてマリヤ。彼女は三人の中では一番積極的な働きを担っている。もちろん、マリヤが主人公なのではない。この晩餐はキリストのための晩餐である。我々の目をイエス・キリストに向けなければならない。キリストとマリヤ、マルタ、ラザロ、これでこの場面の意味の殆どが占められる。あとの弟子たちは謂わばおそえ物である。
 マリヤは300デナリものナルドの香油をこの日のためにとっていた。1デナリあれば家族が一日食べることが出来たのであるから、300デナリは1家族の1年分の収入に当たる大金である。それだけのものをこの日のために用意していた。
 ナルドの香油は、インドのヒマラヤ地方に産するナルドという香料で作ったものである。旧約聖書の雅歌にもその名が出て来るが、ソロモンがエラテ港を使って始めた南方貿易によって輸入されたのであろう。
この事件と同じものがマタイ伝26章6節以下とマルコ伝14章3節以下に記される。「イエスがベタニヤで、ライ病人シモンの家にいて、食卓についておられた時、一人の女が非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎ掛けた。すると、或る人々が憤って互いに言った、『何のために香油をこんなに無駄にするのか。この香油を300デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことが出来たのに』。そして女を厳しく咎めた。するとイエスは言われた、『するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時にはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、私はあなた方といつも一緒にいるわけではない。この女は出来る限りの事をしたのだ。すなわち、私の体に油を注いで、予め葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう』」。ここにはマリヤという名は上がっていない。
 全く無関係とは思われないが、ルカ伝7章36節に、ある町で罪ある女が主イエスに香油を注いだという物語りが記されている。すなわち、多く罪赦された者が多く愛するという真理を主イエスは語りたもう。それをここで思い起こすことは有意義である。
 では、マリヤは多くの罪を赦されたという経歴の持ち主であったのか。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。ベタニヤのマリヤは、七つの悪霊を追い出されたマグダラのマリヤと同一人物とは思われないが、同類の人であったかも知れない。そうであったとしても、ナルドの香油を注いだ事件の意義が変わるわけではない。それはイエスの死の備えであると意味づけられる。
 先頃、兄弟ラザロが死んだ時、マリヤはその葬りのために香料も香油も整えることは出来なかった。だから、死後4日経った時、その死体は腐臭を漂わせていた。マリヤは、いやマリヤだけでなく、家族を挙げてであったかも知れないが、イエス・キリストの葬りの備えを考え、葬られた後、腐臭を発することがないように願ったのである。そのように主はお取りになった。
 本来死体に塗るべきその香油を、今全部使ってしまうのはどういうわけか。我々には分からない。葬りの備えと意味付けたのは主イエスであって、マリヤはそう考えていなかったかも知れない。しかし、主の決定が正しいと見るほかない。結果的にキリストの死の栄光をこの香わしい香りによって表したのであり、主がそれを喜びをもって受け入れて下さったのである。
 ユダヤの慣習では、客を食事に招待する時、ご馳走を用意するだけでなく、客の着る物、また客の髪の毛や顔に塗るオリーブ油を用意する。そういう物として、深い考えもなしに、最高級のナルドの香油が用意されたのかも知れない。それとも、マリヤたちが主の死の時期が近づいているのを感じ取って、今でなければこれを使う時はなくなると判断したのかも知れない。我々に分かるのは、彼らにとって身分不相応な出費であったであろうということである。
 我々はキリストという言葉が油を注がれた者という意味であると知っている。どこで油を注がれたかを問う意味はないが、葬りの備えがキリストとしての油注ぎに合致するのである。
 その香油を頭に塗るのでなく、足に塗ったのは、彼女のへりくだりの徹底を示すものである。頭に塗っては畏れ多いのである。ちょうど、カペナウムの長患いをした女性が、主イエスの後ろから、衣の裾に触ろうとしたのと似ている。それを髪の毛で拭いたのは献身を表わす。
 こうして、香油の香りが家いっぱいに満ちた。徴しという意味を持った一幅の画だと言ったが、我々はこの画にさらに香りがつけられて、強化されることを学ぶのである。確かに香りは儚い物で、救いを表すには不適当である。香りの慕わしさも、感覚的に過ぎて、感覚に溺れることは信仰の表明には似合わない。しかし、我々のために命を捨てて下さった主の慈しみと真実の芳しさに我々は心を高めなければならない。



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