◆説教2002.06.09.◆

ヨハネ伝講解説教 第117回

――ヨハネ11:48-52によって――
 
 イエス・キリストがベタニヤで大いなる徴しを行ないたもうた時、祭司長とパリサイ人は、自分たちの立場が危うくなったのを見て、「お互いは何をしているのか」と語った。彼らは主イエスの行ないたもう業そのものを見ようとせず、その影響、いわばその波紋の広がりがどれほどかに目をやったのである。彼らの予感は当たっていたと言える。
 ユダヤ人が信じて結束するならば、ローマの威力を恐れなくなる。ローマもまた弾圧を一段と厳しくする。実際、ローマ人が大軍を率いてユダヤ全土で殺戮を行ない、エルサレムと神殿を徹底的に破壊し、ついにユダヤ人をこの地から追放した。それは主イエスの死の30数年の後のことであった。
 エルサレムが大軍に攻め囲まれ、ついに町の破壊の時が来る、ということは主イエスも多くの機会に言っておられた。そして、その通りのことが起こった。福音の本質に関わることではないが、主イエスが福音を語りたもうた時代、迫り来る破滅を感じる危機感に満ちていたことを弁えて置いて良いであろう。祭司長もパリサイ人も、ローマ人が我々の国を滅ぼしに来る恐れがあると感じていた。
 この人たちは議会の議員であったことを47節で知るのであるが、彼らには指導者としての責任感があった。ユダヤの宗教を守らなければならない、という使命感もあった。ローマの統治のもとに置かれているこの国、国民と土地、財産を守らなければならない、と彼らは考えた。そのためにはローマを刺激しないようにしなければならない。ローマはユダヤの議会にある程度の自治権を与えている。ユダヤ人たちはローマの支配のもとに置かれていることに並々ならぬ苦痛を感じていたのだが、一応その秩序を守って行こうとし、ユダヤの自治を穏やかにやり遂げようとした。「我々の土地も人民も奪ってしまう」ということを議会の議員たちは恐れたというが、土地と訳されているのは所という意味の言葉で、土地かも知れないが神殿を指すのではないかという節もある。とにかく、紀元70年にはその通りになった。
 彼らが現実を良く見ていたと感心することは要らない。何よりも、彼らは本当に見るべきものを見ていない。見てならないものを見た、と言うのではない。そういう現実は確かにあって、当然目に入って来る。その現実を見ないように目をつぶるのが正しいとは言わない。けれども、キリストとその徴しが示されている時、それには目を向けないということは問題である。
 信じない者も目を開かざるを得ないように、徴しが示される。そして、それによって神との関わりが問われ、自分自身が何であるかが問われているのに、この第一義的なことを見ようとしない。
 第二に、みんながキリストを信じると、ローマ人がやって来て国を滅ぼす、という予想の間違いを指摘することは容易である。キリストは確かに王であるが、その王たることの意味はこの世の王の持つ意味と全く違う。これは再々触れているように、18章36節で、主イエスが「私の国はこの世のものではない」と言っておられる通りである。このことは総督ピラトにも分かった。ピラトはイエスが政治的危険人物ではないことに気付いていた。だから、主イエスを信頼する人々に軍隊を差し向けて殺戮をしようとは考えない。紀元70年、エルサレムがローマ軍に包囲された時、エルサレムの住民は徹底抗戦を叫んだが、エルサレムにいたキリスト者はそれと行動を共にせず、全員町を去った。おそらく、その態度は激しい非難の的になったであろうが、キリスト者たちはキリストの王国に属する者として、地上の国におけるしがらみを敢えて断ち切り、また武器を手にすることを拒否したのである。
 さて、49節以下に記された言葉は重大である。「彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、『あなたがたは何も分かっていないし、一人の人が人民に代わって死んで、全国民が滅びないようになるのが私たちにとって得だということを考えてもいない』」。カヤパがこのように語ったのは何のためであったかという解釈が51、52節に福音書記者によって施されているが、これまた難解な言葉である。しかし、先ずカヤパの言葉自体を見よう。
 カヤパは紀元18年から36年まで大祭司の地位にあったという。ローマ総督グラトゥスによって認可されてこの地位につき、総督ピラトによって廃位された。本来、祭司は終身職であって、途中で任務を終えるというようなことはない。「この年の大祭司」という言い方は、当番で大祭司の務めをしていたと言っているように取られるかも知れないが、主イエスの死にたもうた年の大祭司が彼であったということのようである。しかし、大祭司はローマ総督の支配のもとにあったから、実際、総督の意向によって更迭されることがあった。詳しい記録がないのだが、この年は幸いに大祭司であることが認められていたということかも知れない。
 大祭司は議会の議長を務めていた。これもローマに占領されている時のもので、ユダヤの歴史の中では変則的なことだったのではないかと思う。すなわち、ユダヤ教の伝統によれば、祭司も祭司長も大祭司も、専ら神に仕える者であった。議会はモーセの時から始まったもので、部族の長老たちの会合であり、祭司は入っていない。この変則的なことを問題にすることには意味があると思うが、我々には調べ切れない。
 49節に記された言葉は、カヤパが議長として議会の中で語ったものである。この時の議会が極めていかがわしいものであったことを我々は知っているのであるが、それはその通りであるとしても、カヤパの言葉に含まれている、いやむしろ隠されていることを不注意に読み過ごしてはならない。
 「あなた方は何も分かっていない」。カヤパはユダヤの中では権威を持っている。しかも、彼は祭司であるからサドカイ派であったことは確かである。そして議員の中にはここに書かれている通り、パリサイ派がかなりいた。パリサイ派がナザレのイエスは何者なのかを問題にし、そのうちの多くがイエスに対して批判的であったことはすでに繰り返し見て来た。そのパリサイ人がかなり含まれている議会に向かって、カヤパは「あなた方は何も分かっていない」と言い切る。パリサイ派の考えに対するサドカイ派の批判がこの発言の骨子であると見るべきではないか。
 確かに、ここでは我々がこれまで見て来たユダヤ人の対応の仕方と違うものが感じられる。パリサイ派は律法に照らして判断していた。大祭司の言うことが、そのままサドカイ派の主張であったというのは乱暴な取り方であるが、律法の規定に合っているかいないか、というような発想とは全然違う。世俗的な政治的発想をしているということか。この面が確かにある。「一人の人の死ぬのと、全国民の死ぬのと、どちらが得か」というような、計算を主とした考えはパリサイ人から聞いたことがない。 我々の時代を見ても分かることであるが、政治家たちや商売人たちは数を考える。だから、多数者にとって都合の良いことが採択され、そういうところでは必ずと言ってよいほど少数の見捨てられた犠牲者が生じる。これを直ちに心なき政策と言うべきかどうか、しばらく保留して置いて良いであろう。歴史を遡り得る限り、権力を用いる政治はこういうことばかりやって来た。権力を用いる政治においてはこういう考えしか出て来ないと理解するのが適切であろう。
 ところが、これと全く逆な考え方があることを我々は知っている。主イエスの教えたもうた譬えの中にある。ルカ伝15章に記される99匹と1匹の譬えである。気を付けて考えたいが、主はこの譬えによって、第一に、良き羊飼いである御自身を語っておられ、次に、一人の人の悔い改めには99人の善人にまさる喜びが天であることを教えたもう。1匹の羊の譬えが示す原理をもし政治家がそのまま政治の世界で実行して、99匹を放り出したまま1匹を捜しに出掛けるなら、99匹も散り失せ、求めた1匹も見出せないということになる危険がある。そういう危険があるから、これは採用出来ない、ということになっている。しかし、この譬えによって主イエスは御自身の真実と愛、また一人の悔い改めを追い求めることの意味を語っておられるのであって、これをこのままこの世の指導者の行なうべき原理として教えておられると見るのは間違いである。
 同時に考えなければならないのは、多数者を幸福にする時には必ず少数者が不幸になり、それは已むを得ないことなのだ、と断定すべきかどうかの検討である。政治に携わる者らは殆ど例外なく多数者の側の人であって、少数者の状況を思い見ることが出来ないから、不幸な少数者は見放される。もし、そういう少数者が目に付くようなことがあれば、これを見えなくする。あるいは、隠しきれない不幸の場合、国家の権力を操作して、その人の犠牲は貴かったのだという価値付けをする。本当は価値はないのであるが、価値あるかのように国民に思わせる。こういうことをしている限り、犠牲者はいつまでもなくならない。しかし、多数者の幸福が少数者の不幸であることを動かぬ真理と看倣すのは問題であろう。小さき隣人がいることが見えるようにして置けば、そういう人を踏み潰して当たり前であると言ってはおられなくなる。だから、多数者の都合を考えなければならないとしても、少数者を犠牲にしないで置くことは出来ないかを探って行く必要がある。これがまともな政治なのだ。
 今日与えられている聖書の言葉からかなり外れたところへ逸れて行ってしまったが、「一人の人が人民に代わって死んで、全国民が滅びない」という考えが必ずしも忌まわしい考えではなかったことも見て置きたい。人が人に代わって犠牲になるという祭りは旧約聖書では堅く禁じられている。しかし、人の罪を他の何かに負わせるということはあった。イスラエルには昔から罪のための犠牲という教えがあった。人々の捧げる捧げ物は、第一に犠牲の捧げ物であった。人間の罪を負って小羊が殺され、人は贖われる。贖罪の日には山羊の頭に人間の罪を負わせて野に放つ。こういう祭りの仕方を我々は聖書を読んで知っているが、見たことはないから具体的に把握しているとは言えない。それは象徴であって、その象徴の示していたことは成就したから、儀式は廃止されたのである。
 では、その象徴の指し示していた真理は何か。それは、我々の贖い主が、全ての者の罪を代わって負って、我々に贖いを齎らしたもうということである。イザヤ書53章6節では、「我々はみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主は我々全ての者の不義を彼の上に置かれた」と言う。これがイエス・キリストによって十字架の上で実現したのである。
 カヤパが一人の人イエスに人々の死の身代わりをさせようと思いついたのは、ナザレのイエスがいて欲しくない邪魔者であったという事実と関連していると思う。全人民のために誰か一人が代わって犠牲にならなければならない時、その一人が自分であるかも知れないが、その必要があるならば、自分が犠牲になろうというふうには考えなかった。ここに彼の邪心がある。
 それにしても、一人の犠牲によってみんなが助かるという考えは、ユダヤ人の中にだけあったものではないが、大祭司が先ず言い出したのはもっともなのである。彼は犠牲を捧げる務めにあったから、このような考えを思いつくのに最も近い立場にいた。
 さて、その次に書かれている福音書記者の註釈がまた難解であり、重大である。51節、52節、「このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると言ったのである」。先に見たように、カヤパの言うことは世の政治家たちの発想と同じであると気付いている人は少なくない。そのように考えることは間違っていないと思う。実際その通りだからである。しかし、我々はそのような政治的発想によって我々の主なるイエスが犠牲にされた、とは思わない。すなわち彼は一面では確かに犠牲にされる少数者と同じような様相を呈しておられるが、そのことはキリスト理解の最重要点ではない。少数の犠牲者たちが、今の世にもいるが、彼らが多数者を祝福することにはならない。また、全体を生かすために少数者を犠牲にすることは、いろいろ理屈をこねて意義付けされているが、それが偽りのコジツケであることは時の経過のうちに明らかになる。しかし、イエス・キリストが殺されたもうたことは、時と共に明らかになりやがて消えて行く偽りではない。むしろ、その真実がますます確かにまた露わになって来る。一面ではユダヤ人指導者の策略であり、それはポンテオ・ピラトにも見破られているが、策略によって、つまり人間の錯誤によって犠牲になったのだから、所謂犬死にであって、その死に意義を与えることが出来ない、と言うべきではない。
 ここに神の計画の実現を我々は読み取らなければならない。それをヨハネがここで言うのである。神の計画の実現であったからこそ、我々はここに我々の救いの確かさを見ることが出来るのである。
 「このことは彼が自分から言ったのではなく、預言であった」。彼が自分から語ったと見られる面があるではないか。確かに、彼のよこしまな心、あるいは彼の境遇のなかで培われた考え、これが出ている。その意見に指導されて議会は主イエスを殺すための相談を重ねて行き、その計画通りになった。しかし、人間の計画の成功と見えたのは、実は神の計画の実現であった。その神の計画がカヤパによって預言された。確かに、カヤパを預言者として扱うのは問題である。すなわち、預言者は召命を受け、聖別されてその務めを行なう。カヤパは預言者としての召しを受けていない。厳密に言えば、これは預言ではない。が、彼自身の意識している意味とは違って、彼は知らないながらに神の真理を語らせられていた。そういう意味で預言と同列である。むしろ異言に似ていると言って良いのではないか。異言はそのままでは意味をなさない。解く人がいて初めて意味を現わす。福音書記者ヨハネがこれを解いたのである。
 この年の大祭司ということは先にも出たが、たまたま本人の心にもない真理を語ったということではなく、この年に語るべく神の計画の中で定められていたのである。「イエスは国民のために死ぬことになっている」。この言葉の本当の意味はカヤパ自身には分かっていなかった。しかし、先にもイザヤ書53章から一句を引いたが、このような預言は旧約の時代の中でも何度か語られていたから、それらを結び付け、キリストの死による贖いを預言したものであったと取ることは我々には困難ではない。
 次に福音書記者は「ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために死ぬことになっている」と言う。国民というのはイスラエルの民である。散在している神の子らとは、世界に散らされている選びの民、福音の宣教を通じて起こされ、召し出され、集められる人たちのことである。今や、ここにその人々が集まっているのである。


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