◆説教2002.06.02.◆

ヨハネ伝講解説教 第116回

――ヨハネ11:45-48によって――

  ベタニヤのラザロの甦りは、ユダヤ人の社会を大きく変える衝撃となった。45節には「イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人はイエスを信じた」と記されている。これまで、彼らのうちには主イエスに好意的な人と敵意を抱く人とがいたが、好意的な人も信じていたとは言えない。ところが、今度の事件を見て、多くの人が主イエスを信じる側に回った。形勢が一変したのではないかと思われるほどである。しかし、実際は主の受難がここで本格化した。
 次の46節には、「そのうちの数人がパリサイ人のところへ行った」とあるが、この人たちは素直に信じなかったということであろう。告げ口をしに行ったということでは必ずしもないが、好意的ではなかった。彼らは一大事と思って、彼らの派の指導者たちのところへ状況を知らせに行った。それでも、圧倒的に多くの人は信じたのである。それでは、主イエスが支持されたことになったのか。そうではなく、多くの人が信じたことで
パリサイ人は危機感を募らせ、主イエスを殺す計画を一挙に練り上げる。
 ユダヤ人の多くが信じた。そして、信じない者もいた。この信仰と不信仰の対立について、ここではこれ以上は議論しないで置く。なぜなら、この人たちの信仰がどういうものであるかを問い詰めて行ってもハッキリしないし、ハッキリしたとしても、余り意味がないからである。彼らの信仰が偽りであったと言うならば、言い過ぎである。また、彼らはラザロの甦りの出来事を目撃することよって信仰を得たが、その後、主イエスの
十字架の出来事に出会って信仰を失った、と断定するのも、乱暴な判定である。つまり、彼らが「信じた」と書かれていることはウソではないのだが、信仰があるとかないとかを論じても余り意味がないような状態であった。信仰は明白な告白として表明されるに及んで初めて議論の対象になる。
 例えば、11章27節で、マルタが信仰を告白して言った。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じております」。その箇所についてなら、マルタの信仰を論じることが出来る。信仰の内容がハッキリしているからである。
 また、9章に登場した生まれつきの盲人、この人は、「私はただ一つのことだけを知っています。私は盲人であったが、今は見えるということです」と言った。これだけでは信仰がハッキリ表明されたとは言えないが、彼は次第に信仰の姿勢を固める。また、「私の目を開けて下さった方がどこから来たか分からない、とあなた方が言う、それは余りに詭弁ではないか」とパリサイ人を詰問するに至る。そしてついに主イエスに出会って、「主よ、私は信じます」と言った。この人の場合、その信仰がどういうものであったかを解明するのは十分意味のあることである。告白される内容は単純であるが、信仰の姿勢はハッキリしているからである。
 しかし、「多くの人が信じた」と書かれている場合の信仰については、論議しても、殆ど掴みどころがないということに我々は気付いているであろう。彼らの信仰が曖昧であったと批判的に論じることすら大して意味があるとは思われないないのである。信仰を論じる時、我々の信じるのがどなたであるか、また、どのように信じるかについて語る以外には、ただ信じる・信じないを論じても、定まりなき議論の空回りに終わってしまう。それよりも、我々はここでは別の面に目を向けよう。すなわち、キリストそのものをもっとシッカリ見よう。
 10章37節で学んだことであるが、「もし私が父の業を行なわないとすれば、私を信じなくても良い。しかし、もし行なっているなら、たとい私を信じなくても、私の業を信じるが良い。そうすれば、父が私におり、また、私が父におることを知って悟るであろう」と主イエスは言われた。彼の業を信じるだけでも意義があると教えておられるのである。多くのユダヤ人が信じたのは、主イエスのなさったことを信じたに過ぎないが、これはまことの信仰に至る入り口であった。
 さて、主イエス・キリストの生涯は十字架の道に終始したということを我々は知っている。その理解で間違っていないことは確かであるが、彼が生涯に亘ってただただ痛めつけられるだけで、ついに殺され、三日目の復活によって初めて栄光を示したもうた、と解釈するのは、ヨハネ伝によって教えられて来た我々としては問題である。栄光を顕したもうた機会はときどきあったのである。
 ナザレのイエスは、イザヤ書53章に預言された「苦難の僕」であられた。彼は虐げられ、辱められ、ついにはなぶり殺しに遭われた。イザヤ書53章の預言が間違っていたのではないことは確かである。しかし、預言された通りの苦難の僕の姿は、彼の地上の御生涯を図式化して言ったものであって、実際のお姿は必ずしも常に鞭打たれた、やつれた形ではなかった。
 もちろん、我々がキリストを尋ね求めて、麗しい人たち、キラキラ輝いている者ら、力に満ちた者らのうちを捜している限り、決して彼と出会うことはない。彼は貧しい、惨めな者の側にこそ立っておられるからである。しかし、その貧しい人がキリストそのものであると見るのは無理である。
 ルカ伝16章に、大金持ちとラザロの譬え話しがある。ラザロは乞食であり、全身出来物で覆われ、犬がその出来物を舐めていた。二人とも死んで、大金持ちは地獄の苦しみに落ち、ラザロは御使いに連れられてアブラハムの懐に送られた。このラザロこそキリストを象徴したものだという解釈があるが、それも一つの読み方として留意して良いであろう。或る意味ではラザロはキリストを象徴していると見られる。しかし、乞食ラザロはつねに乞食ラザロであったが、主イエスはつねに乞食ラザロのようであられたのではない。彼が地上を歩みたもうた時のことを考えて見れば容易に分かる。
 例えば、2章11節には、「イエスはこの最初の徴しをガリラヤのカナで行ない、その栄光を顕された。そして弟子たちはイエスを信じた」と書かれていた。彼の御姿が常時栄光を輝かしていたわけではないが、時に徴しを行なって、栄光を輝かせたもうた。人はそれを見て信じないわけに行かなかった。彼らが見た栄光は、本当に父の独り子としての栄光であったのか、彼らの信仰は、それによって義とされて、永遠の命に至る信仰であったか、という問題はここでは問わない。
 主イエスが或る面で乞食ラザロそのままであられたことは確かであるが、それだけではなかったという事実も、我々は福音書によって教えられているのである。人々によって十分理解されていなかったのであるが、彼が神から来られた方であることは、普通の人間としての感覚を持つ人には分かったのである。少なくとも抗弁出来なかった。キリストのお姿を思い浮かべる時、後光に包まれた姿を思い描くのは避けた方が良いが、十字架像はともかくとして、固定的に痛々しく描くのは行き過ぎであろう。
 神としてのキリストの栄光を絵に描くことは第二戒によって禁じられている。では、痛々しい姿なら描いても差し支えないのか。いや、それも慎みをもって控え目にしなければならない。すなわち、苦悩をテーマとした芸術にはなるであろうが、信仰に関わる事柄を形に描くことは無理なのだ。
 ベタニヤのラザロを四日経ってから甦らせたことは、主イエスのなしたもうた徴しの最大のものである。この最大の徴しによって、地上の日のキリストの栄光が最も強烈に現われたと言ってよいが、これを見て、信ずる人が最も多く出たのも無理からぬところである。だから、「このままにして置けば、みんなが彼を信じるようになる」とパリサイ人らが慌てたのは、彼らの立場からすればもっともである。だが、事件そのものはそう大きい出来事ではなかった。人々を回心させるものではなかった。我々はヨハネ伝でこの事件を知り、その事件を受け入れているが、他の福音書にはこれは書かれていない。
 これは徴しの一つであるが、救いそのものを我々に齎らしはしない。
 苦難の僕としての彼の御姿を見て、衝撃を受けて、深く考え、回心する人が全くいないとは言えないかも知れない。全身が皮膚病で覆われた悲惨な乞食を見て、この人が来たるべき神の国でアブラハムの懐に至る人だと想像したり、さらにこの人こそ救い主であると想像することは、非常に難しいとしても、全く不可能とは言えないかも知れない。しかし、全身を病んだ乞食を見て、これこそ私の救い主であると確認する人がいることはあり得るとしても、そういう非凡な想像力による飛躍が、我々に求められているとは言えない。聖書はキリストが徴しを行なって栄光を示したもうたと証ししているのだから、それを無視してはならないであろう。
 それでは、ラザロの甦りという徴しはどういう意味を持つか。徴しとしては最大のものであるが、すでに語ったように、それ自体としてはさほど大きい意味はない。これを見て、「父が私におり、私が父におることを知って悟る」ということがこれに続かなければならない。
 今回の徴しには二つの意味がある。一つは徴しを見ても信じない者は裁かれるということである。今回の徴しは特に明確であるから、有罪の証拠物件を突きつけられるように、裁きはここでハッキリする。もう一つは、ラザロの甦りによって多くの者が信じたことに促されて、主イエスの死を画策する人たちの決意が確定したことである。
 多くの人が信じた故にキリストが殺されることになった、とは筋が通らないではないか、と思われるかも知れない。しかし、聖書が言っているのはこの通りのことである。どうしてこういうことになったかと言えば、先ず、人々が信じたというその信じ方の不確かさがあるが、この問題は今日は取り上げない。次に、信仰の王国と地上の王国の違いということを考えなければならない。主は18章36節で言われる、「もし私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし、事実、私の国はこの世のものではない」。信ずる者がいくら多くなっても、それが地上において勢力を占めて、キリストを渡さないようにすることはあり得ない。
 祭司長とパリサイ人は言った、「この人が多くの徴しを行なっているのに、お互いは何をしているのだ。もしこのままにして置けば、みんなが彼を信じるようになるだろう。その上、ローマ人がやって来て、私たちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。つまり、「我々は何もしていないではないか。このままにして置いては、国全体が滅びてしまう。彼を早く殺さなければならない」ということになる。だから、ラザロの甦りの奇跡があったばかりに、キリストは殺されたもうた。主イエスがラザロを甦らせたまわなければ、死ぬことはなかった、と言うわけではない。これまでも何度か見た通り、これまでは時が来ていなかったから、主イエスを殺すことは出来なかった。しかし、時が来たなら、何事もないのに死ぬということではない。彼は時を知っておられ、時が来たので引き金を引かれた。こうして、キリストを殺そうとする仕組みは、止め金を外されて動き出す。議会が召集されることになった。これまでは、様々の企みがなされたが正式に議会が招集されることはなかった。
 しかし、主導権がユダヤ人の側に移ったということではない。10章17節以下で学んだように、主イエスはこう言われた、「父は私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが私からそれを取り去るのではない。私が自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」。何一つ、主の思い、意図、計画に逆らってなされたのではない。主イエスは全てを見通しておられた。
 ここで祭司長たちとパリサイ人の言った言葉の一つに注意したい。48節の後半であるが、「その上、ローマ人がやって来て、私たちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。すなわち、みんながナザレのイエスを信じて結束するならば、それは彼を王として立てて、約束の王国を建設し始めることになり、それは勢いローマ帝国に対する反乱を意味するから、彼らが攻めて来て、土地も人民も奪い取ることになる。6章15節で見たところであるが、主イエスが五千人にパンを配りたもうた時、人々は彼を捉えて王として擁立し、ユダヤ人の王国をガリラヤに立てようとした。前からそういう機運はあった。そして主イエスはそれを避け通された。彼の王国は地上のものではなかったからである。
 先にも引いたが、主イエスはピラトの法廷で、私の王国はこの世のものではないとハッキリ言われた。主イエスのその主張はポンテオ・ピラトにも或る程度は分かったのである。だから、ピラトは無罪を宣告したいと考えた。
 ユダヤ人の指導者が恐れたのは、イエスがキリストだということになれば、ローマ人がそれを反乱と見るに違いない。そして、今辛うじて平和を保っている生活が破壊されるということである。それは間違った判断であって、ピラトには主イエスに何の政治的野心もないことは分かっていたのである。ピラトに分かる程度のことはユダヤ人の指導者には分かって当然であったが、彼らはわざと分からぬふりをした。
 さて、議会が召集され、開会された。何を議したのか。裁判か。裁判と言えなくはないが、裁判なら事実に基づいて公平に裁かなければならない。しかし、事実については何一つ吟味していない。憶測を語っているだけだ。公平な裁判では全くなかった。しかし、この議会を非難しても始まらない。議会がこういう判定を下すことは主の御旨であった。議会がまともなことを相談していたなら、主イエスを裁くことは出来なかったのである。ここには我々の思いを越えた神のはかりごとがある。
 議会は初めから結論を決めていたと見られる。主イエスはゲツセマネで捕らえられ、アンナスのところに引いて行かれ、ついでカヤパのもとで裁かれ、それからピラトの官邸に引いて行かれた。議会で行なわれた裁きについて、ヨハネ伝では内容的なことは何も書かれていない。
 ユダヤ人の指導者らはナザレのイエスがキリストだとは思うまいと頑なに心を閉ざしていた。7章の終わりで見たような見解を彼らは固持しようとしていた。「良く調べて見なさい。ガリラヤからは預言者が出るものではないことが分かるであろう」。また、主イエスが地上的な意味での王であるとも、霊的な意味での王であるとも考えてはいない。しかし、主イエスが御自身をユダヤ人の王として主張しておられた、とピラトに訴え
た。そして、ユダヤの裁判としては、ローマの裁判と別の罪状で訴え、神冒涜として死刑に処そうとした。
彼らの不正は明らかである。しかし、人間の思いを越えたものがあるから、我々の判断を押し立てて、ユダヤ人の裁判を否認しても意味はない。神はこれを用いて救いの業を行ないたもうたのである。

 

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