◆説教2002.05.19.◆ |
ヨハネ伝講解説教 第115回
――ヨハネ11:39-44によって――
「イエスは言われた、『石を取り除けなさい』。死んだラザロの姉妹マルタが言った、『主よ、もう臭くなっております。四日も経っていますから』」。
主イエスはマリヤと話しておられたのに、いつの間にかマルタが出て来ている。もう腐り始めている体を生き返らせることは出来ないと言いたいようである。マルタは先ほどあのように立派な告白をしたのに、また不信仰に戻ったのか。そう考える必要はないが、信仰は揺れ動くのである。死体がどんどん腐敗して行くという現実の前で、信仰は無力化されてしまう。 マリヤはどうしたのか。墓までついて来たはずだが、何も言わない。彼女はマルタほどには動揺していないのか。そこは分からないが、マルタもマリヤも同一条件であったと見るのが妥当であろう。 「四日も経っている」ということがこの11章では繰り返される。それ自体では重要な意義を持つ言葉とは言えない。むしろ、これは不信仰の言葉として用いられると言って良い。しかし、この不信仰の言葉によって主の業がくっきりと浮かび上がる。すなわち、死後四日したとは、蘇生の可能性が全くなくなったことを示す。非常に稀なことだが、葬られた後、実は生きていた、あるいは蘇生した場合がある。それは死人の甦りに該当しない。もう臭くなっているとは、まさしく死人であることをハッキリさせる言葉である。 「石を取り除けなさい」と主が命じられたのは、墓穴の入り口の前に来られた時であろうか。しかし、38節にあったように、すでに墓に入られたのである。とすると、洞穴の入り口にでなく、墓の奥の石室の入り口に石があったということであろうか。ある程度の大きさの入り口の蓋となるのであるから、かなりの重さの石だった。ここでマルタの言う言葉は、苦労して石を取り除けても、無駄ではないか、という含みのように思われる。その言葉を主イエスは不信仰の言葉として却下したもう。 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 こういう言葉を主はどこでマルタに語りたもうたのか。確かに、この通りの言葉はなかった。しかし、章の初め、4節で、「この病気は死に至らない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」と弟子たちに言われ、この出来事全体が神の栄光と、神の子の栄光を顕すという目標のものであることが示されていた。だから、「神の栄光を見る」あるいは「神の栄光」は、端的に言えばラザロを復活させることと重なるのである。ただし、出来事全体の目標がマルタに示されたわけではない。 マルタに語られた言葉は、25節から27節に記されたものである。この御言葉が11章のラザロの復活の物語りの中心であることは繰り返し学んだ。それを言い換えて、「信ずるならば神の栄光を見るであろう」というふうにしても、主旨が違ったことにはならないであろう。 だが、「神の栄光を見る」と言われたのは、具体的にはどういうことを指しているのか。葬られて四日経ったラザロが墓から出て来たという出来事であろうか。そのように受け取った人もいるようである。主イエスが徴しを行ないたもうた時、見ていた群衆が神を讃美したという記録が多くあるが、彼らはここに神の栄光を見た思いをしたのである。しかし、45節に、「イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちはイエスを信じ た」と書かれている通り、彼らは「イエスを信じ」たのであって、ラザロが出て来たことを信じたのではない。 イエスを信じたとはどういう信じ方であったのか。いろいろな信じ方がある。2章23節には、「過ぎ越しの祭りの間、イエスがエルサレムに滞在しておられた時、多くの人々は、その行なわれた徴しを見て、イエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らに自分をお任せにならなかった」と書かれていたが、このような信じ方もある。 ラザロの甦りに接した人たちは、それよりは幾分進んだ信じ方をしたと見るべきであろう。後で学ぶように、「こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたが私を遣わされたことを信じさせるためであります」と主イエス自身が言っておられるからである。 重点は主イエスが神から遣わされて来たことを信じるところにある。奇跡を見てイエスが超能力者であると信じるのが、2章の終わりに書かれていたエルサレムの人々の信じ方であった。 あの時のエルサレム滞在中に、パリサイ派の指導的な学者ニコデモが訪ねて来たことがある。彼は「先生、私たちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるような徴しは、誰にも出来はしません」と言う。ニコデモは主イエスが単に超能力者であられるのではなく、神から遣わされた方であると把握していた。「私たちは」と言うのは、これと別の見解の人もいることを匂わせている。しかし、主はニコデモを突き放すように、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」と言われた。彼は新しく生まれた人ではなく、神の国を見てもいないという含みである。 主イエスが神から遣わされて来たということについて、7章から8章にかけて、主御自身がかなり丁寧に論じておられる。その一部であるが、42節に「神があなた方の父であるならば、あなた方は私を信ずるはずである。私は神から出た者、また神から来ている者であるからだ。私は自分から来たのでなく、神から遣わされたのである。どうしてあなた方は、私の話すことが分からないのか」と言われる。そのとき、ユダヤ人はイエスが神から来られたお方と信ずべきか、彼を危険思想の持ち主と見るかで分かれていた。 イエスが神から来られたと悟ったなら、信仰に入ったことになるのか。必ずしもそうではない。最後の晩餐の告別説教の後に、16章29節30節で、弟子たちは言う、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。あなたは全てのことをご存じであり、誰もあなたにお尋ねする必要のないことが今分かりました。このことによって、私たちはあなたが神から来られた方であると信じます」。弟子たちも今やっと主イエスが神から来られたと確認したのである。しかし、それに答えて主は言われた。「あなた方は今信じているのか。見よ、あなた方は散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を独りだけ残すときが来るであろう。いや、すでに来ている」。イエスは神から来られたと認めていながら、彼を捨てて逃げてしまうほど彼らの信仰は頼りないものである。 イエスを信じると言っても、さまざまな程度がある。さらに、さまざまな程度にある人がそれぞれ刻々に動揺したり躓いたりしている。しかし、今ここでは、主イエスが神から遣わされたと信ずるか信じないかが分かれ目である。多くのユダヤ人がこの事件でイエスを信じたのである。45節に「マリヤのところに来て、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた」と書かれる通りである。 さらに48節には、「もしこのままにして置けば、みんなが彼を信じるようになるであろう」とのパリサイ人の予測が記されている。そこで、彼らはイエス・キリストをこの段階で殺してしまわなければならないと決断した。そのように、ラザロを復活させた事件は、主イエスへのユダヤ人の信仰を確立したものではないが、一挙に飛躍させた。ところで、「信じるなら神の栄光を見るであろう」とマルタに言われた場合の信仰はどういう信仰であったか。これはユダヤ人が信じたと書かれているその場合の信仰とは違って、27節でマルタが「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じます」と告白されているような信仰である。 今この場合、信じて、それ故に栄光を見るということと、栄光を見た、だから信じたということとを考察しなければならない。マルタに求めたもうたのは第一の方である。葬られて四日目の死体が甦ることはあり得ないと疑っていたなら、栄光を見ることは出来ない。あなたは、私が奇跡を行なう時、信じて、祈れ、と言われたのであろう。一方、多くのユダヤ人が信じたのは第二の方である。 ところで、信じなければ栄光を見ることが出来ないとは、栄光が見る人の信仰のあるなしに依存しているということなのか。とすれば、問題が二つある。一つは、あると信ずる人には、なくてもあると見えるということが人々の経験の中で知られているが、信仰はそういうことで良いのか。それでは、信仰とはファンタジーと同じなのか。客観的な確かさはどうなのか、という問題である。救いの確かさはどうなのか。 もう一つ、マルタたちが傍にいて、信じて、一心に祈って、それで徴しが現われるということに意味があるとしても、そういう祈りとか念力というものに支えられなければ、キリストの力は働かないのか。 この二つの問題を片付けなければならないが、信仰がないならば栄光が現われていても見えないということはある。信仰のない者にも信ずることを促す栄光が現われる場合があるが、本来は栄光は信じることによって見るものである。1章14節、「言葉は肉体となって、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た」というのがヨハネ伝で学ぶ栄光の基本形である。すなわち、言葉が肉体となって我々のうちに生きたもうた、そこに神の独り子の栄光を見るのが信仰なのだ。 彼が何も奇跡を行ないたまわないときも、その栄光が見えるのは信仰によってである。信仰は御言葉を聞くことによって立ち上がる。主がマルタに、そして我々に求めておられるのはこの信仰である。 「イエスは目を天に向けて言われた、『父よ、私の願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでも私の願いを聞き入れて下さることをよく知っています。しかし、こう申しますのは、傍に立っている人々に、あなたが私を遣わされたことを、信じさせるためであります』」。 石が取り除けられて、ただちに「ラザロよ、出て来なさい」と呼びたもうたと考えて良いのであるが、我々に事柄を正しく理解させるためにこの部分が入っていると見て良いであろう。 目を天に向けて祈るのはユダヤ人の通常の祈りの姿勢であった。祈りは自分自身に聞かせる独り言ではない。まして、人に聞かせるための思わせぶりの、あるいは当てつけの言葉ではない。真っ直ぐ神に届くように呼ばわるのが祈りであって、人に聞かせようという動機が入るなら不純になってしまう。 この祈りは父への求めではなく、感謝であった。「私の願いをお聞き下さったことを感謝します」。すなわち、祈りがすでになされて、聞き上げられたことが確認され、そこで感謝をしているのである。 どこで、いつ、ラザロを甦らせる業の成し遂げられる事を祈られたのか。ここに至るまでズッと祈りの時があったと思われる。主イエスはヨルダンの向こうのベタニヤにおられた時から祈って祈って、それからエルサレムのそばのベタニヤに来られ、ベタニヤに着いても村に入らないで外で祈っておられた。そして、祈った確信を掴んで洞穴に入って行かれた。「激しく感動された」と二度書かれていたこと、また「涙を流された」というくだりは、主イエスの人間としての感情を記したものであると見て来たが、これはまた主の渾身の力を傾けた祈りにも関係していると考えられる。 主イエスが感謝の祈りをして、それから奇跡を行ないたもうた前例として、6章に記されていた5000人の給食の奇跡がある。「イエスはパンを取り、感謝してから、座っている人々に分け与えた」と書かれていた。ただし、この場合の感謝は食事の感謝また祝福と重なったものである。しかし、今はラザロを甦らせる業のための祈りが聞かれたことの感謝が祈られる。 祈りが聞かれたとは、ラザロがすでに墓の中で生きていたというふうにも取ることが出来る。起きていたから、出て来いと言われると、直ぐに出て来る服従が出来たのであろう。しかし、祈りが聞かれて既に生き返っていて、主イエスの呼び出しの声によって出て来たのか、神の子の声を聞いたから死人が起き上がったのか、それを議論することは余り意味のないことであろう。 祈りがすでに聞かれているとの感謝は、同時に栄光の神の讃美である。順序として先ず父なる神の栄光が現われ、これは人の目には見えず主イエスには見えた。次に、主イエスの栄光が現われた。 次に、この願いがなされたのは、そばに立っている人たちに御自身が神から遣わされたことを信じさせるためである、と言われる。先に述べたように、イエスが神から遣わされた人かどうかが、ユダヤ人の間では大問題であった。その問題はラザロが呼び起こされるに及んで一挙に解決する。ただし、これは世の終わりの死人の甦りの幕開けという意味ではない。ラザロは死人の甦りの初穂ではない。初穂はキリストなのだ。キリストは甦ってもはや死にたまわない。ラザロは甦りの徴しの役目を果たした後、死んだのである。 さて、人々がナザレのイエスを神から遣わされた方として受け入れることに決着すれば万事解決なのか。そうでないことを主は知っておられる。すなわち、信じるということも極めて不確かな要素を交えている。信じた人もボロボロこぼれて行く。キリストの力が示されたのに対抗してサタンの戦いが始まる。そして、メシヤは死に渡される。 しかし、メシヤが遣わされて来たと人々が認めることは重要である。キリストが人知れず殺され、復活して天に去って行かれた後に、やはりキリストは来ておられたのだと言う人が出て来ても、昔話が語られるだけである。約束の主が来られたにもかかわらず人々は信じなかったのである。 「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出て来なさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔覆いで包まれたまま、出て来た。イエスは人々に言われた、『彼をほどいてやって帰らせなさい』」。 ラザロが布で包まれたまま出て来たことに、何か象徴的な意味が含まれているのではないかと考えても、大して意味はない。死人は布にくるんで墓に納められる慣習であった。それに何の意味があったかを問うても慣習の解説以上のことは答えられない。もとは防腐剤である香料をあてがって布で巻いた。ラザロの場合は香料がない。布だけである。ただし、布は手足と顔を包むだけであった。これは貧しい人たちの埋葬の仕方であったと言われる。香料が買えなかったし、全身を布でくるむ余裕もなかったのである。 この時、主イエスはラザロに対する語り掛けはしておられない。彼は生き返っても、その肉体は病み衰えたままであった。病を癒された人が喜んで躍り上がったという場合もあったが、ラザロはそうではなかった。彼は家に帰ってまた床について、体力を回復させなければならなかった。彼が人から見られるようになるのは12章9節である。そして彼は何も語らなかったようである。これとは全く別の話しであるが、ルカ伝16章に義人である乞食ラザロの物語りがある。地獄に落ちた金持ちはアブラハムに願って「私の兄弟のもとにラザロを遣わして下さい」と言う。アブラハムは答えて「彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中から甦って来る者があっても、その勧めを聞き入れはしない」と言う。ベタニヤのラザロも甦った者として何かを語る務めはなかったのである。 |