◆説教2002.05.12.◆ |
ヨハネ伝講解説教 第114回
――ヨハネ11:32-44によって――
「マリヤはイエスのおられる所に行ってお目に掛かり、その足元にひれ伏して言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう』」。
マリヤが主イエスの足元にひれ伏したのは、マルタの迎え方と違っている。マルタはひれ伏さなかった。ということは、マリヤの方が深い敬意を抱いていたということなのか。あるいは、悲しみがより大きくて、崩れ伏したということなのか。どちらとも取れるが、憶測は控えて置こう。 それよりも、マリヤが言ったのは、21節でマルタが言ったのと同じ言葉であるという点に注目しよう。言葉が同じだとは、言葉を発した思い、信仰の程度が同じであると見て良いであろう。マルタとマリヤの姉妹、これは仲の良い姉妹であっても、一人一人個性が違うことは言うまでもない。主イエスがベタニヤに到着されたと聞くと、マルタは直ちに村の外まで出て主を迎えた。しかし、マリヤは家で泣いていた。戻って来たマルタに促されて、マリヤは主のもとに行く。このように、別々の行動をしているが、その違いを取り上げることは難しい。我々はこの二人が別々の行動をしているとはいえ、結局は同じ思いであったと見る。それ以上掘り下げて、二人の違いを浮かび上がらせることは我々には無理である。 「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」。 これは愚痴をこぼしたり、呼んだのにスグ来てもらえなかったことの恨みを述べたものではない。恨みがあるなら、マリヤは村の外まで出て来なかったし、足元にひれ伏すこともなかったのである。この言葉の中では、「私の兄弟は死ななかったでしょう」という点に重きが置かれたと読むべきであろう。すなわち、どんな病をも癒すことが出来る主イエスの能力への絶大な信頼の言葉である。これまでの経過はよく分からないのであるが、マルタとマリヤは、その見聞きしたところにしたがって、ナザレのイエスの持っておられる大いなる能力を信じていた。だから、彼がいて下さるなら、ラザロの病気は治ると信じていた。そしてラザロが死んでしまった今も、主イエスに対する信頼は変わっていない。 ただし、それは主イエスそのものへの信頼というよりは、彼の持っておられる能力のゆえの信頼に過ぎなかった。だから、ここにいて下さって、能力を発揮して下さらなかったから、兄弟は死んでしまった。そしておしまいだと言う。 主イエスがラザロとその姉妹たちを愛しておられたことを我々は知っているが、この兄弟も主イエスを愛し尊敬していた。だから、単に超能力を持つ人を畏敬しているというのではなく、非常に敬愛していた。しかし、信仰とは言えない。ある意味で信じてはいたが、その信仰は、彼がいて下さったなら癒されたであろうという程度のものであった。それは、本当は信仰とは言えないものである。本当の信仰とは、マルタが27節で告白したものである。「主よ信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じます」。 マルタに対して、主イエスは彼女の信仰をまともなものに立ち上げたもうた。彼女は立派に信仰を告白した。では、マリヤに対してはどうだったのか。ここで、主イエスがマリヤの信仰をもマルタと同じく確立したもうたというふうに先ず読み取るべきであろう。先ず信仰が確立して、次に奇跡が起こるのである。40節でも、 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と再確認を促しておられる。 主がマリヤに信仰を説きたもうたことは書かれていないし、そういう言葉が語られたと判定するにはいささか無理ではないかと思われるのである。すなわち、マリヤに対しては信仰的な言葉を語り掛けることもせず、マリヤが泣き、一緒に来たユダヤ人も泣いているので、御自身も泣いておられるではないか。このやりとりの間に信仰の教えを語る時間があったとも思われない。 しかし、主イエスがマルタに対してとマリヤに対してと、別々の対応をされたと読むのは正しくないであろう。前回見たように、「私は甦りであり命である。私を信ずる者は、たとい死んでも生きる」、この宣言がベタニヤにおける事件の中心主題なのだ。その宣言が真実であることを証しするために、ラザロを墓から出て来させるということが付随したのである。 マルタに対して語られた御言葉がこの出来事のいわば正面なのだ。マリヤと一緒に墓に行かれてなさったことは、謂わば裏側、あるいは内側のことで、表裏一体ではあるが、我々は必ずしもその裏側を覗き見なくても良い。御言葉を受け入れて応答することこそ重要なのだ。これがこの事件を理解する基本的な姿勢である。 だから、マルタが正面に出ており、マリヤは裏に回っていると取らないで、マリヤもまた告白者とされたと見て、ことの全体を理解したい。そうでなければ、ベタニヤのラザロの事件は統一を失った物語りとなり、メッセージは分散してしまう。 「イエスは彼女が泣き、また、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた」。 「激しく感動した」という言葉をどう解釈するかが少し厄介な問題である。「心を痛め、悲しみて」と文語訳では訳していた。人々が悲しんでいる時、主は悲しみをともにしたもうたと取ったのであろうか。それとも、死に征服されて泣くことしか出来ない無力さの中にいる人々の哀れさを悲しみたもうたということかも知れない。しかし、「激しく感動し」と訳されているギリシャ語は「憤る」という意味に取るのが正しいと言われる。 解釈の混乱が起こっているのは確かであるが、その原因は、最初にこの事件を記録したアラム語の文書からギリシャ語に移す時に起こったのではないかと考えられる。すなわち、「憤る」とも「激しく心を動かす」とも取れるアラム語がもと使われていたらしいのである。 言葉について探求することを却けるわけではないが、なお詳しく議論しなければならないことがあるので、それよりも事柄自体が何であったかを捉える方が先ず重要であろう。 何よりも、我々は、主イエスが全き人間であり、罪をほかにしてあらゆる点について我々と同じであられたことを、ここで入念に、またハッキリと示されるのである。27節のマルタの告白で見た通り、「あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じます」という信仰がここで決定的に重要である。「神の子」であると信ずることが第一に不可欠である。「信じるなら神の栄光を見るであろう」と言われたことはこの点 に懸かっている。 これまでに学んだことを振り返って見ても、5章25-26節で聞いたが、「まことにまことに、あなた方に言う、死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」と主は言われた。父なる神と本質を同じくする御子であればこそ、命の本源であられ、死人を生かすと言われるのである。 彼が単に憐れみ深い真実なお方であられ、死の恐れと悲しみのもとにある人間を愛し、これに同情し、重荷をともに担って下さったとしても、それだけでは人を生かすことは出来ないのである。無から有を創造する神、その神の子たるキリストにこそ死人を生かす力がある。 しかし、今5章26節で読んだ御言葉の続きに、主イエスは「子は人の子である」と言われた。これは人の子に裁きが委ねられるというもう一つの教えのために語られたものであるが、「人の子」ということは「神の子」と並んで重要なのである。 恵みの獲得は、我々の主が「神の子」であられるというだけでは、十分に確立しない。「神の子」が我々と同じ肉体を具えた「人の子」となり、人々の中に生き、神の恵みが人に移されるということが確立しなければならない。キリストが人間であられることが、ここほどあからさまに示される場所は、ゲツセマネの苦悶の場合を別とすれば、他になかったのではないか。憤りたもうた場合はほかにもあるが、ここではまた「涙を流したもう」のである。受難週にエルサレムを望み見て泣きたもうたことが思い出される位である。 彼が涙を流されたのを見て、ユダヤ人は「ああ、何と彼を愛しておられたことか」と言ったのであるが、我々はその程度の理解に留まってはならない。キリストが全き人間性を具備されたことをここで見よう。ユダヤ人らは主イエスが悲しむ者とともに悲しむ同情心の深い方として捉えたらしいが、それだけの理解では足りないのではないか。 主イエスが我々よりも一段上にいます神々しい存在で、御自身の持ちたもう命を我々に注ぎたもうたと受け取って、何ら間違いではないのだが、彼が下に降りて来て、肉体を受け、我々と同列になられ、我々の側に立たれ、我々のために死の対するすさまじい戦いを戦って、勝利を勝ち取りたもうたと理解することも重要である。 ラザロの救い主として駆けつけて来られたイエスが、いよいよ墓穴に入って行こうとされるとき、彼がこのように、我々の側の者であることをハッキリ示しておられるのである。我々のために勝ち取りたもうた死への勝利は、彼が代わって戦いたもうた戦いの結果であって、我々の誇るべきものではないが、彼が我々の側で戦って勝ちたもうたものであるから、我々がシッカリ自分のものとして捉えていなければならないものである。 さて、「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって」憤激されたとはどういう意味であろうか。ユダヤ人に対して憤りたもうたのか。すなわち、ユダヤ人が如何にも悲しんでいるかのように、見せ掛けの同情で一緒に泣いているのを見て、憤りたもうたという解釈がある。そういう見せ掛けの同情のしぐさはあったかも知れない。しかし、彼らが心からラザロの死を悲しんで泣いたと取って支障があるだろうか。あるいはまた、このように泣くのは不信仰であるから、その不信仰に対して憤りたもうたということか。そうかも知れない。 しかし、むしろ、死が支配し、ほしいままに振る舞っているこの世界の現実に対して、救い主イエス・キリストが憤りたもうたと見るのが最も妥当であろう。彼がこの悲しみに満ちた世界の中で涙を流したもうたことは真実であるが、それに対して憤りたもうたことも確かな事実である。彼はこの実情と戦いたもうお方である。 「そして言われた、『彼をどこに置いたのか』。彼らはイエスに言った、『主よ来てご覧なさい』」。 いよいよラザロの置かれている所に行こうとされるのである。 ベタニヤはキリスト者の間で、ラザロの復活の場所として記憶され、ここを訪ねる巡礼は古くから多かったようである。「ラザロの墓」と伝えられる広い洞穴が今でもあり、それに接して教会がある。教会が建ったのは4世紀後半であるから、正確に昔の場所を示しているかどうかについては何とも言えない。ラザロの墓と言われるものは、道路わきに入り口があって、22段の階段を下りて行ったところに棺を置いた部屋があるということである。もし、言い伝えが正しいとすれば、主イエスはユダヤ人に案内されて、その階段を憤激しながら降りて行かれたことになる。それは、あたかも宿敵と決闘する戦士のような意気込みであった。 我々はまた42節に、主が「こう申しますのは、傍に立っている人々に、あなたが私を遣わされたことを、信じさせるためであります」と祈って言われる言葉に注目しなければならない。この御言葉から読み取られるのは、主イエスが今、御自身が神から遣わされた者であることを示して、人々を信じさせるために、奇跡を行なおうとしておられ、その業が行なわれるように祈ると言っておられることである。 彼に大いなる力があることは確かであり、当然であって、一世一代の大決戦をしようとして全神経を緊張させ、闘志を全身に漲らせている人の場合を引き合いに出しては相応しくない。しかし、主イエスが軽々とこの御業をやってのけられたと考えるのも適当ではない。彼は祈りに祈ってこのことを成し遂げたもうたのである。そこに我々は我々の側に立って死と戦いたもう主を見るのである。 次に、「イエスは涙を流された」という聖書の中で一番短い節がある。 「涙を流す」という言葉については、先の「激しく感動された」という言葉のような事情の説明は要らないであろう。このまま受け取るほかないし、それで分かるのである。これはマリヤが泣き、一緒に来たユダヤ人が泣いていたと言ったその「泣く」とは別の言葉である。それによって表明されている感情も同じものではない。マリヤたちが泣いたのは、死が猛威を振るう前で何の処置も出来ないから泣くのである。主イエスが涙を流したもうのは、敗北を意味しない。しかし、本当に泣いておられたのである。悲しむ者の悲しみを負いたもうたのである。 これを見て、ユダヤ人の間に二通りの反応があった。 ひとつは、36節に記されている。「するとユダヤ人たちは言った『ああ、何と彼を愛しておられたことか』」。 こう言ったユダヤ人はラザロの死を一緒に悲しみ、また主イエスに対して好意を持っていた人であろう。主がラザロの死を悲しんでおられることに感動しているように思われる。 次の37節には、別のユダヤ人たちの反応が書かれている。「しかし、彼らのある人たちは言った、『あの盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なせないようには出来なかったのか』」。盲人の目を開けたというのは、9章にあった安息日にシロアムの池で目を洗って見えるようになった人の事件である。目を開けたのがイエスだということをハッキリさせたがらないユダヤ人がいて、盲人だった人の両親を脅迫して、それが誰であるかは知らない、と言わせたのである。だが、ラザロの死を悼んでベタニヤに来ていたユダヤ人は、素直にそれが主イエスの御業であると認めている。生まれつき盲人だった人の目を開けることは出来た人だが、ラザロを死なせないようには出来なかった。死ぬべき人を生かすことは、盲人の目を開けるより難しいという含みで言ったのであろう。主イエスの力の限界を冷ややかに見ているのである。 「イエスはまた激しく感動して、墓に入られた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった」。 また憤激して墓に入って行かれた。今度は何に憤激しておられたのかハッキリしない。死に対して憤っておられたと考えて良いだろう。渾身の力を振り絞って死と戦おうとして墓に入って行かれたのである。 死が支配者として我が物顔に振る舞っており、人はそれに何の抵抗も異議申し立ても出来ず、ただ泣いてばかりいることに主は憤りたもうたのである。死の支配が是認されている状態は、今日も続いている。その支配を止めさせなければならない。主は甦りたもうた。彼を信ずる者は死に対する勝利を獲得したのである。 |