◆説教2002.05.05.◆

ヨハネ伝講解説教 第113回

――ヨハネ11:25-31によって――

 ヨハネ伝11章の中で、25-26節に主の語りたもう宣言、またそれに直ちに応答したマルタの告白は、クライマックスと言って良いであろう。43節で、主イエスが「ラザロよ、出て来い」と言われ、ラザロがそれに答えて起き上がったことも、クライマックスというべき、大切なくだりであるのは確かであるが、これは先に「我は甦りなり、命なり」と語りたもうた宣言が、偽りない真理であることを示す徴しに他ならない。
 墓から出て来たラザロに、我々はもはや出会うことは出来ない。甦ったラザロはまた死んで、この世を去った。徴しとしての任務を果たした彼は、任務の終わったあと、去って行った。しかし、「我は甦りなり、命なり。我を信ずる者は死すとも生きん。また、生きて我を信ずる者はとこしえに死なざるべし」との言葉は、今日も、終わりの日まで偽りなき真理の宣言として力をもって留まるのだ。御言葉と徴しの二つは切り離せない。しかし、御言葉を先ず捉えるのである。
 この御言葉を信ずるならば、ラザロが墓から出て来た事件を理解しまた信ずることは容易である。しかし、この事件が事実あったと信ずるだけならば、これに先立つ御言葉を信じていることには必ずしもならない。それは出来事のお話しを信じているだけであって、真理の言葉を信じていることではない。その出来事を信じるだけなら、ベタニヤに来ていて、事件を見たユダヤ人と同じであって、見て信じたけれども、その信仰によって生きるのではない。
 そこで、主の求めたもう信仰がどういう信仰かを知るために、前回一度学んだところであるが、25-26節の主の御言葉にもう一度耳を傾けたい。
 マルタは「死人の甦り」について、ユダヤ人の間に伝えられた信仰を守っていた。ユダヤ人の中には死人の甦りを信じない者が少なからずいたのであるから、マルタがユダヤ人の中では敬虔な人たちであったと見て間違いはない。
 しかし、マルタの信じていた「死人の甦り」は、納得はしていたであろうが、慰めにはならなかった。彼方で、終わりの日に起こる一つの出来事を信じるというだけであった。ところで、彼方に、終わりの日に期待を掛けること、これを無意味な空想、現実からの逃避、と批判する人がいる。それはこの世の知者のすることである。もっともらしく聞こえるが、この世でしか通用しない知恵である。
 いや、我々はこの世の人生経験を幾らか積むと、この世の知恵ではこの世のことすら割り切れない場合が多いということに気がつく。すなわち、この世でなく、来たるべき世、彼方の世界でようやく決着のつく事柄が多いのである。
 例えば、公平ということ。この世では不公平が横行し過ぎている。公平の原理に則って生きるとすると、いつでも人に先を越される。それよりは、人を欺いて、巧妙に富を手に入れることの方が賢い生き方ではないかと思われるほどである。
 神が支配したもう世界の中で、このような不正が行なわれるはずがないではないか、と考えられはするのであるが、現実にはそういう不正がはびこっている。それどころか、詩篇の詩人が嘆くように、神を信じている、と言っている民の中に平然と不正を行ない、この世で富と名誉を得ている人が少なくない。
 しかし、思い切ってそういう不正な生き方をしようとしても、それが出来ないような歯止めが人間には掛かっている。そういう歯止めによって、ずるく立ち回ることが出来なくされている人間は、悪が栄えているのを見て心中穏やかでないのであるが、神はこの世だけでなく来たるべき世を持っておられ、支配しておられ、来たるべき世において正義の収支決算が合うようにしておられると悟ることによって納得するのである。
 問題の解決を終わりの日に送り込むやり方は、この世でなすべきことを放棄したのではないか、と批判される。その批判は一面あたっているのだが、この世のことはこの世で処理出来るという思い込みには重大な欠陥があったのではないか。そういうことに、現代の心ある人は気づき始めている。すなわち、今日大騒ぎになっている地球環境の破壊、これは人間がこの世で事柄を解決しようとした結果である。解決が解決にならないで、解決の非常に困難な問題を作ってしまったのである。
 終わりの日の甦りの時が来れば、死人が甦る、という期待が、必ずしも空しい夢物語でないことを理解するのは、意味ある知恵である。しかし、その知恵についてこれ以上触れる必要はない。この知恵とキリストの福音の違いを知ることが大切である。
 「甦りが世の終わりに実現する」と期待させるのは、神からの何らかの示唆がないと、人間には思いつかない叡知であろう。こういう期待を、例えばエジプト人が昔もっていたのは何故かと問われると、私には旨く答えられないが、人間には人間の限界を超えたものへの憧れが授けられることがあるのだ、と言って間違いでない。ただし、その憧れに確かな保証は何もない。だから、死人の復活を期待して、莫大な費用を掛けて死後の体をミイラにしたが、その期待は空しかったのである。
 それはともあれ、深遠な議論はしりぞけて、今は素朴に主イエスの声を聞くことにするが、「私が甦りなのだ」、私を知ることが甦りを獲得することである、と教えられるのがキリストの福音なのだ。今ここで聞いているのは、人間の哲学ではない。それとは全く別のものだ。しかも、ただ信じているだけでなく、向こうの方にあるのを信じているというのでもなく、「ここにいる私が甦りなのだ、私を受け入れよ」と言われるお方を信じて受け入れることである。
 福音は信じるものである。では、理解はしなくて良いのかと問われるならば、理解は勿論信仰に伴うのである。しかし、理解できない以上信じられない、という論法を持ち込んではならない。「理解できないからこそ信じるのだ」と言っては余りにも乱暴な言い方であり、危険であるが、一面では真理に適っている。ただし、分からないから信じるのであっても、信じることによって目が開けて、分かるべきことは必ず分かるようになるのである。すなわち、信じるとはキリストを受け入れることであるが、キリストを受け入れる時、キリストの光りを同時に受け入れるのであって、その光りに照らされて、分からなかったことが分かるようになるのである。
 「私は甦りであり、命である」。これが宣言の主文である。「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて私を信じる者は、いつまでも死なない」。これは別のことがらではなく、主文の中で言われたことを、実際に適用したものである。信じたならこうなる、と言われたのである。
 「私は甦りであり、命である」と言われる。「私は何々である」あるいは「私は私である」というヨハネ伝でしばしば聞いた言い方を主イエスはここでもしておられる。その甦りである「私」が来たので、死者の場合はこうなり、生きている者の場合はこうなるのだと言われる。先ず死者の場合であるが、その例証がラザロである。
 「死者の甦り」は必ずしも明確な形ではなかったが、旧約の神の民に示されていて、旧約の信仰厚き人々は信じていた。その信じていたことが「私」において現実化する、と言われるのである。しかし、注意したい。ここで言っておられることをラザロの復活そのものと受け取っては正確ではない。ラザロの復活は、終わりの日に起こるべきことの期待が、ただの期待に終わらないことを示すものであった。だから、主イエスが「あなたの兄弟は甦るであろう」と言われた時、一般論として彼方の終わりの日を指して語られたのではなかった。ここで起こる現実を語りたもうた。
 ラザロの復活事件は、約束の主題そのものが現実となった現われではなく、約束の成就の真実さを示す徴しなのである。新約聖書の言い方では、こういうものを徴しと呼ぶのであるが、説明のために鏡を比喩として借りても良い。すなわち、我々は自分の顔を見ることが出来ないので一旦鏡に映して、それを見る。ラザロの復活は我々を悟らせるための鏡の像なのだ。すなわち、ラザロの甦りは仮の見せ掛けではなく、死人の甦りには違いないが、約束されていた当のものではない。ラザロが甦って生き続けるのではないということを見れば分かるであろう。約束されていたのは、キリストを初穂とする死人の甦りである。ラザロの甦りはキリストに始まる死人の甦りが今や現実のものとなったことを信じさせるための徴しなのである。
 旧約にはさまざまな約束が満ちているが、何か良いことが約束されたというふうに浅く受け取っては正しい理解を妨げる。もろもろの約束は中心的な約束に懸かっているのであって、キリストこそが約束されたと取らなければならない。そうであるから、約束のキリストが来られた時に、死人の甦りが始まったのである。「私は甦りである」とはそのことである。
 この理解をさらに深めるために、約束された贖い主がどのような贖いを果たしたもうかを見なければならない。それは新約聖書がハッキリ言う通り、罪の赦しによる贖いである。ヨハネは第一の手紙の2章に、「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには私たちのために助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる。彼は私たちの罪のための、贖いの供え物である。ただ、私たちの罪のためばかりでなく、全世界の罪のためである」と言うのは我々の確認を導く手引きである。死という語に罪という意味を読み入れれば、事柄がハッキリする。彼が来られて贖いは果たされたのである。罪の重荷は現実に取り除かれたのである。罪の中にいるとは死のなかにいることと同じである。罪の赦しと死人の甦りを同じものと言う必要はないが、罪の赦しを手がかりにして、死人の甦りの意味を深く捉えることが出来るのである。
 預言者エゼキエルに示された骨の谷の幻がある。死者は白骨化し、それらの骨はみないたく枯れていた。その骨が連なり合って、肉がつき、皮で覆われ、立ち上がり、大いなる群衆となるところを預言者は示されるのだが、これはイスラエルの回復を象徴するのであって、この幻のとおりのことが実現すると約束されたのではない。しかし、罪によって死んでいた者らが罪赦されて立ち上がるさまは、そのようであろう。
 主イエスが死人の甦りを説きたもうたことは、ここまでに再々あった。特に6章で繰り返された。例えば、53節、「よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなた方の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう」。
 「私を信じる者はたとい死んでも生きる」。すでにこれと同じことを5章25節で聞いた。
 「よくよくあなた方に言っておく。死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう」。また、これに似たことを、我々は5章28節で聞いた。「墓の中にいる者たちが、みな神の子の声を聞き、善を行なった人々は生命を受けるために甦り、悪を行なった人々は、裁きを受けるために甦って、それぞれ出て来る時が来るであろう」。
 次に言われる、「生きていて私を信じる者はいつまでも死なない」。キリストを受け入れれば、生きながらにして永遠の生命に入るのである。ただし、キリストを信じる者が二百歳、三百歳になってもまだ元気であるという状態を空想すべきではない。キリストを信じる人が祝福によって人一倍長生きすることならあるかも知れない。しかしまた、キリストを信じる故に若くして命を落とす場合もある。
 では、「いつまでも死なない」とは架空のことか。そうではない。永遠の生命は或る意味ですでに始まったのである。それを我々は罪の赦しの現実性・確実性として把握することが出来るのである。
 「あなたはこれを信じるか」と問われて、マルタは「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じております」と答えた。この言葉はヨハネ伝の中で最も充実したキリスト告白である。ヨハネ伝におけるペテロの告白は6章68節にあるが、「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命を持っているのはあなたです」と言う。真摯な、胸を打つ表現ではあるが、それよりもマルタの告白の方が纏まっている。ヨハネ自身、福音書の筆を納めようとした時、20章31節に「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と結んだ。つまり、マルタの答えは福音書の意図に全くよくかなったのである。
 さて、マルタはこう言って家に帰り、マリヤを主イエスのもとに行かせる。「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられる」と小声で言うのだが、主イエスはマリヤを呼ばれたのかどうかハッキリしない。このように言えば、マリヤも動かざるを得ないと見越したのであろうか。小声で言ったとは、その家に来ている弔問客の中に主イエスに対して敵意を持つ人がいたという意味ではないかと思われる。マルタは立派な告白を捧げたが、マリヤもそう言ったのかどうか。マルタとマリヤの信仰の優劣を比較することはむずかしい。この二人の個性の違いを見ることも我々には難しい。
 立派な告白を捧げたマルタがここで引き下がり、マリヤと入れ替わることには何か意味があるが、我々には良く分からない。
 「これを聞いたマリヤは、すぐ立ち上がって、イエスのもとに行った」。このことの意味は、家にいて彼女を慰めていたユダヤ人が、彼女は墓に泣きに行ったと思ったと31節に書かれていることから明らかになって来る。すなわち、墓に泣きに行くことと、イエスのみもとに行くこととの対照の大きさを考えさせられるのである。
 家ではユダヤ人がマリヤを慰めていた。彼らなりに誠実に、かつ熱心に慰めていたと考えられる。彼らが慰めたのは「死人の甦り」の信仰の言葉によってではなかったであろうか。その言葉は言葉として一応正しかった。しかし、教理的に一応正しいと言えたとしても、慰めの力は乏しかった。彼女がツと立って外に出て急ぐのを見て、ユダヤ人たちは彼女が墓に泣きに行ったのだと思った。
 墓に泣きに行くという風習があったかどうか我々には分からないが、ユダヤ人たちがそのように推察したのであるから、十分あり得たのである。ベツレヘムで嬰児虐殺が行われた時の母親たちの嘆きについて、マタイ伝は「子らが最早いないので、慰められることさえ願わなかった」というラケルの嘆きを思い起こして記すが、慰めを拒絶した方がまだしも慰めになるという現実があるのである。
 すなわち、彼らは自分たちの語る慰めの言葉が慰めの役を果たしていないこと、マリヤにとっては慰めにならない言葉を聞かせられるよりは、むしろ墓へ行って思いきり泣いて見たいと思ったであろうと推測したのである。それはそれなりに人間の悲しみを捉え、人間のなし得る慰めの貧弱さを弁えたものである。
 しかし、人々の解釈とは違って、マリヤは主イエスのもとに行ったのである。そこにしか慰めはない。それはマリヤの正しい選択であった。直接キリストに向き合うことによって慰めの力を得ることが出来るのである。
 
 

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