◆説教2002.04.21.◆

ヨハネ伝講解説教 第112回

――ヨハネ1117-25によって――

 「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロはすでに4日間も墓の中に置かれていた」。4日間、あるいは4日という言葉は、主がベタニヤに来られるまでの説明のうちで、何度か強調された。この後でも、39節にまた出て来る。福音書記者ヨハネは死んで4日経っていたということを執拗に強調する。その意図を我々はすでに教えられたから、素直に聞いておこう。この世的な言い方をすれば、主は遅すぎたのである。息を吹き返すかも知れない、との一縷の望みも絶えたのちである。肉体は腐敗の段階に移されたのである。
 18節、「ベタニヤはエルサレムに近く、25丁ばかり離れたところにあった」。ここには重要なメッセージは含まれていない。
 エルサレムから2775メートルばかりの所にベタニヤはある。日常行き来する距離である。このように近いということを述べたのは、これから語られる出来事を理解する準備であろう。第一に、ベタニヤに到着したことは、主イエスの地上の御生涯の最終段階たるエルサレム入りの一歩手前を意味する。
 第二に、ベタニヤにおいて起こったことがエルサレムの直ぐ傍で、これを足元から揺るがす重大事件であったことを分からせる説明である。47節で見るように、エルサレムでは早速議会を召集して、対策を講じたのである。
 第三に、このように近いことが、次に書かれているように大勢のユダヤ人が来ていた理由の一つのようである。
 19節に入る。「大勢のユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとして来ていた」。
 肉親を喪った悲しみのうちにある者を慰める弔問は、ユダヤ人の間で重んじられた風習であった。彼らの間では、死に勝つ復活は朧気な期待としてはあったが、確固とした信仰箇条ではない。旧約の人々の基本的理解では、死んだ人は先祖たちの行った陰府の世界に移されたのである。だから、宗教的と言うよりは儀礼的なこと、人間らしさに関することと見た方が良いであろう。死人を手厚く葬る儀礼は大切な慣習で、隣人もまたそれに心を籠めて関わるのであった。知人の死を知らされると、人々は弔問に出かけ、葬りの儀式に参列し、そして自分の家に帰って行く。あとは肉親が死者を偲んで、時々墓に泣きに行くだけで、一連の葬りの行事は終わる。
 ラザロの場合、葬られた日から4日も経つのに、まだ弔問客が大勢いたとは、例外的なことであるらしい。それがどういった事情であるかは、我々には何も分からない。この一家がベタニヤにおける名門、あるいは何らかの意味で尊敬された家柄であったのかも知れない。ただ、結果について言えることであるが、ラザロの復活という空前絶後の出来事を見た人が大勢いたということは確かなのである。イエス・キリストの甦りの事実を見た人はそう多くはない。しかし、ラザロの甦りを見た人は多かった。そしてそれはユダヤ人であったとヨハネ伝は書くのである。
 ところで、「ユダヤ人」という呼び方は、これまでヨハネ伝で見て来たように、多くの場合、主イエスに敵意を抱く者という含みがあった。8節でも聞いたように「先生、ユダヤ人らが先程もあなたを石で殺そうとしましたのに、またそこに行かれるのですか」と弟子たちは言ったのである。それが弟子たちの頭にあった「ユダヤ人」であるが、ここでもそうではないかと思われる。もっとも、11章では彼らが主イエスに対する敵意を露わにしたというふうには読めない。
 彼らはラザロのことでその姉妹を慰めるために来ていた。何か特別な関係があって慰めのために来たようであるが、彼らは語るべき慰めの言葉を持っていたであろうか。それは持たなかったのである。生きるにも死ぬにも、唯一の慰めは何か、ということを我々は教えられているが、我々が我々のために死に、また甦って下さった我々の主イエス・キリストのものであること以外に慰めはない。
 この真理を知らないユダヤ人が、善意からであろうと、慰めの言葉を述べに来ても、解決にはならなかった。彼らの慰めの言葉が上辺だけのものだと言う必要はない。誠心誠意慰めを語ったかも知れないが、そうだとしても、死と復活のキリストのいまさぬ所には慰めはなかった。
 20節に言われる、「マルタはイエスが来られたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家で座っていた」。
 マルタとマリヤの性格の違いがルカ伝10章38節以下の記事をもとにして、キリスト者の間では割合広く知られているが、このヨハネ伝11章にも、活動的で足まめなマルタと、家でじっと篭り勝ちなマリヤとの対照が描き出されている。ただしルカ伝の方では、「なくてならぬものはただ一つで、マリヤは良い方を選んだ」と言われている。それをそのままここに持って来ると、分からなくなる点も出て来るから、二人の姉妹の人物比較はここでは差し控えて置こうと思う。それでも、違いはハッキリしている。ただ、比較して評価しようとしても無駄である。また、信仰者にもいろいろなタイプがあるのだと論じてみても益にならない。
 ベタニヤにおける主イエスの御言葉と御業、これは二つの場面で示される。第一はマルタと向かい合っておられる場面で、語られる言葉が中心である。21節から27節までである。ここに非常に大事な教えがあることは言うまでもない。
 第二の場面は32節以下であって、マリヤと向き合って、それから死人に向かって呼ばわりたもう場面である。ここがクライマックスであるが、言葉そのものは僅かである。教えだけを取り上げるなら第一の方が充実している。
 マルタは主イエスを迎えに急いで行った。主は村に入らず、村の外に立っておられた。
 村の外におられたのは、特に大きい意味があってのことでなく、これから墓へ行こうとされたからであって、村の墓は村の外にあったに違いない。また、村の中に入るとさまざまの危険があると知って警戒しておられた。ユダヤ人が大勢来ていたことは危険を意味すると読み取るべきかも知れない。
 「マルタはイエスに言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを私は今でも信じています』」。
 これは立派な信仰の表明だと見られるのではないか。そう思われ勝ちである。しかし、主は喜びたまわなかった。すなわち、模範解答であるかも知れないが、生きた信仰とは言えないのではないか。謂わばガラスケースに入った標本である。間違いはないのであるが、生きて働くものではない。
 マルタはすでに主イエスを信じ、その教えを受け入れていた。彼女は学び取ったことを披瀝する。第一に、もし、あなたがいてくださったなら、あるいはもっと早く着いて癒して下さったなら、私の兄弟は死ななかったに違いないと信じています。あなたは大いなる力を持つお方です、と言うのである。これは主イエスの絶大な力に対する信頼を語ったのであって、いて下さらなかった恨みを述べたものでは決してない。
 第二に、兄弟ラザロは死んだが、だからといって主に対する信頼が消え失せたわけではない。あなたは依然として信頼されるに相応しいお方であり、私は今でも信頼している、と言う。
 どこに欠点があるのか。別にどれといってない。では、このままで良いのか。いや、これでは良くないのである。先に、ガラスケースに入った標本を譬えに引いた。それ自体間違いのない模範解答であるが、生きたものでない。標本を見せて、これはこういうものだと説明することなら出来る。その説明は間違いではない。けれども、それで生きることが出来るか。力強く戦うことが出来るか。……出来ないのである。
 ガラスケースから出さなければならない。説明によって分かるというところを越えて、さらに飛躍しなければならない。理論の言葉から、命の言葉に変わらなければならない。キリストにある現実が、彼方に置かれて、説明され・理解されるに留まるのでなく、ここでの現実とならなければならない。
 マルタが間違いを犯したのか。そう考える必要はない。彼女が言い表したことは間違っていない。しかし、彼女が教えられたことをよく覚え、よく理解し、申し分のない答えをすることで十分だと自ら思ったとすれば、完全に間違いなのである。絵に描いた餅を考察しているだけである。餅の絵として完璧に書かれていても、それでは生きることにならないのである。
 もっとも、マルタが信仰の表明を十全にしたかというと、教えられたことに十分応答していないと思われる点がある。それはしばらく後で述べることにする。
 主イエスのマルタに対する御言葉は第二段に進む。23節に入って行こう。「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟は甦るであろう』。マルタは言った、『終わりの日の甦りの時、甦ることは存じています』。イエスは彼女に言われた、『私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』」。
 「あなたがどんなことを願われても、神はかなえて下さると私は信じます」とマルタは言った。全面的に信頼したと思われるのである。しかし、その全面的信頼に問題があることが明らかになる。「あなたの兄弟は甦る」と主イエスが言われた時、それは今日起こることを言われたのに、彼女は適切な答えが出来なくて、「終わりの日の甦りの時に甦ることは存じています」という答えしか帰ってこない。これは不十分であって、彼女が最終的に、「主よ信じます」と答えた時と大きく隔たっている。
 「終わりの日の甦り」を彼女は信じるには信じていたのである。それは主イエスの教えを聞く以前から教えられていたと思われる。これは二つの要素からなっている。一つは「終わりの日」の教えである。もう一つは「死人の甦り」の教えである。彼女はパリサイ派の教えを受け入れていたようである。マルタがそう信じていたとは、マリヤも、ラザロも信じていたと理解して良いであろう。復活はないというサドカイ派に対して、パリサイ派は復活信仰を主張し、両派の争いが起きていた。
 旧約聖書には、死に勝つ勝利のメッセージが、あちらこちらに散りばめられている。けれども、旧約において復活はかなり象徴的に語られていて、明確な形で「死人の甦り」という信仰箇条として打ち出されている所はない。だから、死人の甦りを読み取ったパリサイ派と、読み取れないサドカイ派の食い違いが生じるが、この点に関してはパリサイ派が断然正しいわけである。新約聖書においては、全ての福音書、全ての使徒書が死人の復活を信ずべきこととして教えている。主イエス・キリストの復活という決定的な事実の上に新約の使信は立つからである。
 少し前に戻るが、ラザロの死んだことで大勢のユダヤ人が来ていたというのは、具体的にはパリサイ派の人々が来ていたということかも知れない。とするならば、この弔問客は死人の甦りの教えを繰り返して、彼女たちを慰めていたと考えられる。
 こういう教えを受けていたことは、ラザロの甦りの準備であったが、「終わりの日の甦りを信じる」というだけのところで足は留まってしまい、それ以上に踏み込めなくされたのではないだろうか。
 ラザロは死んだけれども、終わりの日が来れば、他の死者たちと共に甦る。そのことは依然として確かだから、彼の死によってはマルタの信仰は揺るがなかったかも知れない。それは立派な信仰だと一応言える。しかし、主はそれを立派な信仰告白であるとは見たまわない。ここに二つ問題がある。その修正が迫られている。一つは信じ方に関してである。マルタの表明を聞くならば、パリサイ派の主張が繰り返されているのと異ならない。彼方のこと、終わりの日のこととして捉えているだけで、今のことになっていない。
 兄弟が死んでも、信仰が揺るがないのは一応筋の通った信仰なのだが、死とその克服という問題について、説明し、納得しているだけではないのか。この人生の中で死と戦って勝利を獲得するというのでなく、勝利は終わりの日に来るまで待たなければならないということで承知し、戦わないで、解決を先送りしているだけではないのか。
 確かに、終わりの日が来るまでは完全な解決はない。それが我々の状況である。既に全うされたと考えてはならない。しかし、解決は彼方のことで、この世では、現実には、諦めしかなく、戦いから手を引くほかない、と言うのが正しいのであろうか。そういう考えは我々の間にも根強いのであるが、確かに間違いである。
 繰り返し聞く聖句だが、主イエスは16章33節で、「あなた方はこの世では悩みがある。
 しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われた。主は、この世では、とても叶わぬから、かの世に、あるいは終わりの日に、問題を先送りしなさいと教えたもうたのではない。勝利の主を信じることによって、すでにこの世で信仰の勝利を味わえと言われる。
 もう一点、マルタの信仰にはその内容に関しても問題がある。主イエスが5章25節でこう言っておられるのを思い起こそう。「よくよくあなた方に言って置く、死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。――これをマルタが聞いていたかどうか、それは分からないが、この教えは安息日にベテスダの池で癒しをされたのに続く説教の中に出て来る。ベタニヤからほど遠からぬところで語られたのである。マルタが聞いたかどうかはともかくとして、主イエスはすでにこう教えておられた。そしてマルタはそこに達していなかった。
 今日の箇所で、気を付けて学ばねばならない要点は今挙げた二つなのだ。我々も間違い易いところである。その注意を踏まえた上でよく御言葉を聞こう。
 「死から命に移っている」ということを主イエスは5章24節で語られたのだ。これはキリストの教えの根本的な部分であることを我々は認めざるを得ない。この完成は終わりの日を待たねばならないであろう。しかし、キリストに出会うことによって終末的事態は始まったのだ。だから、終わりの日の甦りの時に甦ると承知しているだけでは、肝心の今の命が抜けている。たしかに、主も「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」と言われ、終わりの日の甦りの実現を強調しておられる。しかし、上に見たように、終わりの日を待たず、すでに始まっているという面がある。
 要は、キリストが甦りであり、命であり、そのキリストが我々と共におられるところでは、甦りと命が、願望としてでなく、事実として始まっている。そのことを期待というのでなく、確認しなければならない。キリストのおられない所では、甦りも、命もない。終わりの日の期待はあるかも知れない。しかし、その期待は単なる空想の気休めに過ぎないかも知れない。キリストと共にいるとの確かな確認が必要である。「あなたはこれを信じるか」。
 

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