◆説教2002.04.14.◆

ヨハネ伝講解説教 第111回

――ヨハネ1112-16によって――

主イエスはラザロの死を「眠り」と表現された。ところが、そのように言い替えられたことの意味が、弟子たちには分かっていなかった。だから、彼らは、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と、全く日常的な次元に引き下ろして、このことを理解しようとした。 
人は眠り、また目覚める。これは世の続く限り日毎に繰り返される日常生活的な事である。一度あった事は二度あり、二度あった事は三度ある。また他の人にあった事は私にもあり、私に起こる事はあなたにも起こる。だから、また、眠った人を起こすことは誰にも出来る。 
しかし、今、我々がヨハネ伝11章で学んでいる事件は、日常的な事ではない。誰でも、いつでも、どこでも起こる普遍的な現象ではない。日常的な眠りならば、目覚めた人はまた眠り、また目覚め、その事の数え切れぬほど繰り返しの果てに、ついに長い眠りに陥って、もう起きて来ない。彼は日常の彼方に去ってしまう。 
主イエスがここで「眠り」と言っておられるのは、何時間かの後に目覚めが来る日常的・自然的な眠りではなく、人々が普通「死」と呼んでいるものである。死と眠りの区別、これは人々の知恵にとって全く常識的なことである。そのように全く別なものを主イエスは同じ言葉で呼びたもうた。弟子たちはその意図を見ようとしない。だから、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と事もなげに言う。 
けれども、事もなげに扱ってはならない。決して日常的でない出来事が起こるのである。これは福音書にあるもろもろの奇跡の一つではなく、ただ一回しか起こらなかった奇跡である。 
では、主イエスが死を「眠り」と呼びたもうたのは、仮にそう呼びたもうただけの、一つの比喩としてだけのものであったのか。したがって、別の言葉で呼ぶことも出来るものなのか。そうではない。確かに、人々が「死」と呼んでいることを、キリスト者は必ず「眠り」と言わなければならない、という規定はない。死と呼んで良いのだ。それでも、キリスト者の間では、眠りと呼ぶことが定着した。ということは、死が日常の眠りと同じ次元で捉えられたのか。そうではない。死は死である。それは人生の最も厳粛なことであるが、主にあっては人々の言うような意味での死ではないということを表わすために、「眠り」と呼ぶのが最も適切であったのだ。 
死と眠りの違いをハッキリさせるために、14節には主が「あからさまに」言われたと書いている。「あからさまに」とは、ハッキリと、とか、公然と、とか、大胆に、という言葉に訳されるものである。 
事実、紛れもなく、確かに、ラザロは死んだのだ、と言われたのである。日常的な眠りと同一次元に引き下げて捉えてはならない、それと混同してはならない、という意味がある。死を眠りと言い換えるのは、言葉遊びではない。衝撃を和らげるための誤魔化しではない。死の本当の現実、そのすさまじさを覆い隠し、曖昧にすることでもない。死はあからさまに死なのだ。ただ、キリストにあって、その意味が抜本的に転換したのである。キリスト抜きで見るならば、ラザロの死もあなたの死も、同じく取り返しのつかない喪失に他ならない。 
ラザロの死と復活が、簡単に扱われる危険があるかも知れない。それは、彼の復活が永遠の生命への復活ではなく、彼はもう一度死んだという事実があるからである。ラザロは再び死んで、その後生き返っていない。彼の再度の復活は、終わりの日、キリストの再臨の日を待たなければならない。つまり我々と同じ条件である。しかし、イエス・キリストは御自身の復活の先触れとして、ラザロを一度用いたもうた。 
15節で言われる、「そして、私がそこに居合わせなかったことをあなた方ために喜ぶ、それはあなた方が信じるようになるためである」。 
この言葉の意味は、前回、主イエスがユダヤに行くことを引き延ばしておられるように見えることについて解き明かしたから、今は詳しく語るには及ばない。主はラザロの病気を癒すこともされず、その臨終に立ち会うこともされず、葬られるままにさせ、三日の後もなお死の中に捨て置き、四日経っても朽ち行くにまかせ、その後で到着された。 
遅過ぎる到着であった。 
死んだ人が暫くの後に息を吹き返す出来事は、ごく稀なことではあるが、絶対起こらないとは言えない。むしろ、昨今では、一旦死んだ人の臨死体験の記録が集められ、人々は興味を持ってそれを調べている。これは現代人の好奇心が昂じて、こういう事件を掘り起こすようになったからであるが、昔もそういう出来事はあった。心臓が一旦停止した後、また動き出すというようなことはあり得る。昔の人は、人間には分からないことがいろいろとあるという事実の前に謙虚であったから、興味本位に死後の状態を詮索しなかったが、そういう実例があることは知っていた。 
ルカ伝7章11節以下に、ガリラヤのナインという町の門の外で、寡婦の一人息子の葬列に出会って、主イエスが「若者よ、さあ起きなさい」と言って起こしたもうた奇跡が記されている。この場合、死の直後ではないが、その日のうちに墓に葬ろうとしていた。死人が息を吹き返すことは滅多にない事件ではあるが、あり得た。奇跡でないと言いたいのではない。これは矢張り奇跡である。特別な力が働かなければ起こらない事件であって、特別な力の持ち主であられるナザレのイエスが、その若者を起こしたもうこととしてでなければ説明がつかない。話しに聞くだけでは信じられないとしても、実際を見れば受け入れざるを得ない。 
主イエスは今回のケースをナインの事件とは別の種類の事件として示しておられる。ラザロの死体は腐敗を始めていた。死んだだけでなく、体が腐って、それでもまた生きて来たというような臨死体験は、これまで味わった人がいなかったというだけでなく、そもそも起こり得なかったのである。 
死んで間もなく起こされることなら、実例はまことに乏しいが、ごく稀にあり得ることとして説明がつく。実例が挙げられるなら、受け入れないわけには行かなくなる。カペナウムの会堂司ヤイロの12歳の娘の場合も同じである。しかし、今回は、あり得ることとして解釈する余地がない。あり得ることとして説明出来るなら、信じなくても納得出来るであろう。 
「それはあなた方が信じるようになるためである」。主イエスはこれまで、数限りない奇跡を弟子たちに示したもうた。彼らは「それを見て信じた」と書かれていた。だから、彼らを信じさせるためには、もっと有り触れた奇跡でも良かった。しかし、ここでは奇跡の中でも特別な、空前絶後の奇跡が扱われている。 
説明を聞いて、あり得ることと納得する、という場合と殆ど同程度の信じ方もある。そこからもっと堅固な信仰へと成長する場合もあるのだから、それがいけないというわけではないが、こういう場合の信じ方は、かなりアヤフヤな信仰である。すなわち、一応信じたことにはなっているが、その信仰は容易に消滅する。そういう信仰では救いに達することは出来ない。 
「あなた方が信じるようになるため」と言われた時の信仰、これは厳密な意味での信仰である。頭で分かったと思うのと同程度のものではない。25節で「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われるそのような信仰である。すなわち、その信仰によって生きるのである。 
この信仰とは、説明を聞いて納得したり、奇跡を見て反論出来ないままに受け入れたりする程度の信仰ではない、ということを承知して置きたい。すなわち、一時的に信じたのではなく、持続的に信じ、御言葉のうちに留まるのである。7章38節で聞いたように、「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われたことが現実となっている信仰である。すなわち、渇けばまた飲みに来れば良い、というのでなく、渇くことがなくなるのである。信じることによって人間が変わるのである。新しく生まれ変わるのである。永遠の生命を獲得するのである。 
ただし、弟子たちがラザロの甦りという事件に接して、その場で生まれ変わったというわけではなかった。14章25節26節で、「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである、しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを悉く思い起こさせるであろう」と言われる通り、聖霊の降臨によって現実化するその現実である。 
その信仰とはどういうものであるか。すでに見たように、説明されて納得するというのとはハッキリ区別される確信であることは言うまでもないが、信じる内容を明らかにしなければならない。第一に、それはキリストを信じる信仰である。単に超越者なる神を信じるだけでなく、神の遣わしたもうた御子を信じるのである。 
第二に、聖書の約束、とりわけ死人の甦りの約束を信じることである。この死人の甦りがイエス・キリストの甦りにおいて成就したと把握することである。 
第三に、その死人の甦りが、確かではあるが遠い彼方の末の日のことと見るのではなく、キリストにおいて現実になっていると信じることである。 
今挙げた三つの点は、25節以下でマルタとの対話の中で明らかにされる事柄であって、そこでまた改めて学ぶ事項であるが、「あなた方が信じるようになるためである」と言われたことの意味として、触れて置くことは余計な議論ではない。 
「では、彼のところに行こう」。ここまでは、ヨルダンの彼方のベタニヤを出発される時のお言葉である。 
「すると、デドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った。『私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか』」。 
これは主イエスの言葉への応答と言うよりは、弟子仲間の語り合いである。呟きかも知れない。励まし合いかも知れない。 
ギリシャ語の「デドモ」は双子という意味である。彼は双子の一人だったらしい。主イエスと双子であったと言う伝説もあるが、主イエスに双子の兄弟があったとの記録はどこにもない。12弟子の中にもう一方がいたと見ることも無理であろう。では、「双子のトマス」と呼ばれていたのか。多分そうではないらしい。デドモというのと、トマスというのは、同じ意味の言葉だったと取るのが良いようである。トマスというのはアラム語で双子という意味であった。ヨハネ伝の記者はギリシャ語しか分からない人のために、双子という意味だと解説したのである。とすると、トマスも人名ではなく、彼につけられた綽名であったと思われるのである。彼の名は新約外典のある書によれば、ユダと言ったらしい。勿論、イスカリオテのユダでないほうのユダ、ヤコブの子のユダである。しかし、12人の表を見ると、イスカリオテでない方のユダもトマスも入っている。この問題はこれ以上は分からないから触れないで置く。 
このトマスがインド伝道に赴いたという伝説がある。そのことと今回のこと、またヨハネ伝に書かれた次に述べるもう二つのことと関係があるのかどうか、分からない。だから、彼の人柄を推し量ることは今は差し控えて置く。 
デドモと呼ばれるトマスについて、ヨハネ伝ではもう二度語られる箇所がある。一つは14章5節である。主イエスが「私がどこへ行くのか、その道はあなた方に分かっている」と言われた時、トマスは「主よ、どこへおいでになるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょうか」と答える。ここで主は「私は道であり、真理であり、命である」という重要な宣言をされる。詳しいことは今は省略するが、トマスが悟りの鈍い弟子の代表の役割を演じている。 
その次は、20章24節以下の復活の主イエスの顕現の記事の中である。トマスがいない時に復活の主が来られた。彼は後で仲間の弟子からそれを聞いて、信じなかった。自分の手で主の釘の痕に触り、指を脇腹の槍の痕に入れて見るまでは信じない、と言った。そこで主は8日の後に次に来られた時、それは28節以下になるが、トマスに「あなたの手で私の手に触れて見よ。あなたの指を私の脇腹に差し入れよ」と言われ、「我が主よ、我が神よ」と呼ばわるトマスに、「あなたは見たので信じるのか。見ずして信じる者は幸いである」と言われる。彼が疑い深い性格の持ち主だという見解がかなり広く行き渡っているが、「我が主よ、我が神よ」とはハッキリした信仰の告白である。トマスの性格分析は今はしない。 
復活の記事の中に、もう一度、デドモと呼ばれるトマスが登場する場面がある。それは21章、ガリラヤに帰ってしまった弟子の中にトマスが入っている。朝、湖のそばで主イエスに出会った弟子たちは、もう「あなたはどなたですか」とは言わなかった。 
さて、この11章においてトマスが言うのは、どういうことか。不信仰とか不真面目の言い分と決めつけることは控えるとしても、主イエスの言っておられる意味がよく分かっていないということは推測して間違いないのではないか。 
ところで、主は「ラザロは死んだのだ。私は死人を起こしに行くのだ」と言われた。それならば、とトマスは考える。自分たちも死んで、起こして貰おうか。それが主の言葉を不真面目に茶化したものなのか、単純に浅薄に受け取っただけなのか。多分、ふざけて言ったのではないと思う。しかし、理解は確かに浅い。 
主が先にユダヤで殺されそうになったことがある。今度、またそこに行こうとされる。 
主について行くのは恐ろしいことだが、主が死人を生かして下さるなら、勇気を出してついて行くことにしようではないか、と言っているらしい。 
先に、ラザロは眠っていると主が言われた時、弟子らは「眠っているなら助かるでしょう」と無理解な応答をした。今度も、「ラザロは死んだのだが、私は彼を起こしに行くのだ」と言われると、それならば、我々も彼とともに死のうではないか、とやや筋違いの答えをしている。 
ここで原文では「彼と一緒に死のうではないか」となっている。この彼を主イエスと取る人と、ラザロと取る人と二通りある。どちらに取っても良いが、主と共にの意味に取って置く。 
7節を学んだ時に気付いたのであるが、「ユダヤ人らが先ほどもあなたを石で撃ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言ったのは、自分たちは随いて行きたくないと遠回しに言ったものである。主が石で打ち殺される時、弟子たちが無事であるわけはないと彼らは思う。 
しかし、今回、トマスは仲間に対して、「自分たちも彼と共に死のうではないか」と言う。十分な理解とは言えないが、死の恐怖を克服している者の言葉であると思われる。 
これは主のユダヤ行き、エルサレム入城、それに随いて行こうという意志表示なのだ。 
死を覚悟して随いて行こうと言っている。しかし、立派な心掛けであると思うべきではない。13章の終わりで、ペテロは「あなたのためには命も捨てます」と決意表明をしている。しかし、その決意がどうなったかを我々は知っている。トマスの決意も同じようなものであった。彼も挫折し、そして立ち直ったのである。 
 

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