◆説教2002.03.17.◆

ヨハネ伝講解説教 第109回

――ヨハネ10:40-11:4によって――

「さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた」。
 この前の39節では、「彼らはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて去って行かれた」と書かれていた。宮潔めの祭りの出来事はこうして終わったのである。その後、主は去って行かれた。
 主イエスが去って行かれたのは、ユダヤ人に捕らえられるのを避けて、姿を隠すためであったか。そうかも知れない。しかし、別のことも考えられる。マタイ伝19章1節、またマルコ伝10章1節に、「それからイエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた」とある。これは、最終的にエルサレムに上って行かれる少し前のことであるから、余りうまく重ね合わせることは出来ない点があるが、同じ事情を指しているのではないかと思われる。それらの記事によれば、ユダヤ人の追及を逃れてではなく、ご自分で選ばれた、全く自発的な行動である。
 主イエスの地上の御生涯は最終段階に入ろうとしている。ヨハネ伝において終わりに近い頃の主の足跡を辿ってみると、ヨハネが初めにバプテスマを授けていたヨルダンの向こうの地に行って滞在し、そこからエルサレムの隣りの村ベタニヤに行って、ラザロを甦らせるという最大に衝撃的な奇跡を行ない、そこから荒野に近いエフライムに退いて暫く滞在された後、過ぎ越しの祭りの前にまたベタニヤに行き、その翌日エルサレムに入られ、その週のうちに十字架に付けられたもうたのである。
 ベタニヤでラザロを甦らせたもうた事件は、御自身の復活に先立つその前触れと見てよいのであるが、御自身のうちに復活する力があるのみでなく、復活させる力があることを示したものである。だから、十字架と復活の出来事を別として、最重要な奇跡であったと理解しなければならない。
 御生涯の中でのその最も際立った御業をなすために、主が渾身の力を傾けておられることも読み取らねばならない。その御業を起こすために、準備がなされた。ヨルダンの向こうに一旦行かれたのは、ラザロの復活のための備えと理解した方が良いであろう。準備なしでも良かったのではないか。5章25-26節で言われるように、「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。それなら、準備なしに一声掛けるだけで、ラザロは墓から出て来たはずではないのか。それはその通りである。しかし、今、御子の全き栄光が隠されている段階で、人の子として、驚くべき御業をなすためには準備が必要であったという事実を見逃さない方が良い。神の子であると同時に人の子であられることが、この事件では、どの場合よりも生々しく、またハッキリ示されている。例えば、11章33節、「激しく感動し、また心を騒がせ」、35節、「涙を流された」、38節、「また激しく感動し」という福音書の他の箇所では読むことの出来ない表現がある。
 では、ヨルダンの向こうに行って何をされたのか。「滞在しておられた」という以上のことは確実には読み取れないのではないか。しかし、次に41節にある「多くの人々がイエスの所に来て、互いに言った。云々」という記事から考えれば、人々が来て、ある感動を覚えたらしいとも見られる。また、その次に、「ヨハネは何の徴しも行わなかったが、云々」という言葉は、「それと違って、イエスは徴しを行なった」という含みであると考えることも出来る。だから、ヨルダンの向こうのベタニヤで、説教をし、徴しを行なっておられたと考えることは出来るのである。42節に、「そこで多くの者がイエスを信じた」とは、主がここへ伝道のために行きたもうたことを指していると取られる。
 マタイ伝19章、マルコ伝10章の聖句と重ね合わせれば、ますますそうではないかと思われる。
 だが、これは「ヨハネが徴しを行わなかったが、証しをした。そして彼から聞いていた証しがここに至って信じられた」という意味かも知れない。むしろそう読む方が正しいと思う。すなわち、ヨハネは徴しを行なって自分自身の力を示すことはせず、ひたすら証しに徹した。徴しを行なう力がなかったことは確かであるが、力及ばず、そうしなかったのではなく、自分を顕すことはひたすら差し控えたのである。だが、彼の行なった証し、イエス・キリストについての証し、それは正しかった、と人々は認めたのである。
 あるいは、ヨルダンの向こうに人々が集まって来て、互いに語り合ったし、イエスを信じたが、それはこの時主イエスが伝道をされたからではなく、人々がこうであったと言っただけかも知れない。主が何をされたかは書かれていない。我々が確かに想像できるのは、彼が祈って備えしたもうたということだけである。
 「多くの人々がイエスの所に来た」というところで文章は一旦切れて、「互いに言った」というくだりは別の文章で、集まった多くの人の言葉ではなく、もっと広い範囲でこう話されていた、ということかも知れない。
 ヨハネが「初めにバプテスマを授けていた所」という言い方は、ヨハネが後に場所を変えたことを指しているらしい。3章23節に、「ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである」とあるのは、「初めいた所から、水のもっと豊富なアイノンに移った」という意味なのである。では、アイノンに移る前はどこにいたのか。1章28節には、「これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである」と記されていた。すなわち、初めの場所はベタニヤと呼ばれる所であった。これは確かである。
 「初めにヨハネがバプテスマを授けていた所」と言うだけで、その場所の名前が書かれていないのは、一つには、読者にすでに聞いたことを思い起こすように促すためであったと考えられる。「行って、聖書にこうこう書いてあるのが何の意味であるか、考えてみよ」と主イエスが語られた場合がしばしばあることを我々は知っているが、主だけでなく、ラビたちの教え方が一般にそうであった。答えを与えるのでなく、問いを発して、自分で答えを思い起こさせるのである。こういう教え方の優れた効果を考えて良い。
 ここでは、福音書を学んで来た人なら、その地名を思い起こすことが出来る。思い起こして何か思い当たるところがある地名である。もう一つ言えるのは、ハッキリ語って置かねばならない程の主要な教えではないから、名前を挙げなかったのである。
 ヨルダンの向こうのベタニヤに戻って行かれたのである。すなわち、主イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった出発点に戻られた。人が一世一代の勝負をしようとする時、自分の故郷に帰るということは稀ではないから、そういう意図があったと考えて良いかも知れない。ただし、その想像は自由であるとしても、余り意味はない。
 むしろ、その地名がベタニヤであったことに我々の関心は引きつけられる。ヨルダンの向こうのベタニヤに行って準備し、それからエルサレムのそばのベタニヤに乗り込まれたのである。ベタニヤからベタニヤへである。では、福音書記者ヨハネは、ベタニヤという名前に意味があることを考えさせようとしたのか。そうかも知れない。しかし、ベタニヤという名の意味は良く分からない。「不幸の家」という意味ではないかと推定されるが、確かではない。「不幸の家」から「不幸の家」へということから何かを感づくように示されたと取って、納得することも出来なくないが、不確かである。
 結局、我々は何を学び取るのか。とにかく、「ベタニヤからベタニヤへ」である。それは主イエスが御自身の出発点に戻って心を新たにして出直すという意味ではない。ベタニヤでヨハネの立てた証しに戻るのである。それを再確認させるのである。「この方こそ神の子であると証しをしたのである」と1章34節にヨハネの言葉が書かれているが、ヨルダンの向こうのベタニヤで証しが立てられた。その証しを人々はなかなか信じなかったが、10章の終わりに至って、かなり多くの人々が信じるに至ったのである。そして、今度はエルサレムのそばのベタニヤでイエス御自身のなしたもう御業によって証しが立てられる。それで人々が信じたことは11章45節に書かれている。ベタニヤにおいてバプテスマのヨハネが先ず立てた証し。10章の終わりに書かれている主イエスのベタニヤ行きによって先のヨハネの証しが人々によって確認されたこと。そして、主イエスによってベタニヤで起こされたラザロの甦りという大いなる証し。この三つのことを我々は一連の事として把握するのである。
 こうして11章に入って行く。
 「さて、一人の病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村、ベタニヤの人であった。このマリヤは主に香油を塗り、自分の髪の毛で、主の足を拭いた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった」。
 初めに主要登場人物の紹介がなされる。先ず、ラザロである。それからマリヤ、そしてマルタ。その他にベタニヤの村人、またエルサレムから行った弔問客がいるが、彼らはそこに居合わせただけで、人数は多くても、積極的な意味は持っていない。
 マタイ伝26章6節以下に書かれている記事を思い起こすのであるが、「イエスがベタニヤでライ病人シモンの家におられた時、一人の女が高価な香油が入れてある石膏の壺を持って来て、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎ掛けた」と書いてある。
 一人の女が香油を注いだ出来事は、ヨハネ伝では12章の始めに出ていて、その女の名はマリヤであると書いてある。マタイ伝の方では名前は出ていない、香油を注いだ部位もマタイ伝では頭と書かれ、ヨハネ伝では足と言う。それらの違いがあるが、違いについて詮索することは今はしなくて良い。同じ事実についての記事だと見て置く。ただ、12章になってから出て来る出来事を11章の始めで使って人物紹介をするのはやはりおかしいから、この香油の事件はただこれだけで、一つのかぐわしい物語りとして、キリスト者の間に伝わって、かなり広く知られていたので、それを取り上げて「あの有名な香油を捧げた女性がこの人だ」と言おうとしたと考えた方が良いかも知れない。ある女が主イエスに香油を注いだという物語りで、似てはいるが全く別なものが、ルカ伝7章の36節以下に記されている。ある町で罪ある女が、食事中の主イエスに泣きながら香油を捧げたという物語りである。この種の物語りが流布していたと考えられるのである。
 マタイ伝26章の出来事がヨハネ伝12章の出来事と同じだとすると、ラザロはライ病人シモンであったかも知れない。しかし、そこには「ライ病人シモンの家におられた時」と言うのであるから、その家が「ライ病人シモンの家」と呼ばれていたことは確かであるとしても、ラザロがシモンであると断定することは性急過ぎる。ラザロの父親あるいはもっと前の先祖がシモンであったのかも知れない。だから、ラザロがライ病であったと考えることは今は避けて置こう。また、聖書にライ病と書いてあるのが、近代においてハンセン病と呼ばれたものとは別であると言われるようになって来ているから、ライ病のことをこれ以上取り上げることはしない。したがって、ラザロの病気が何であったかを問うこともしないでおく。ラザロの姿を思い描くために最も有力な材料は、すぐ後で見るが、イエスの愛したもうた人ということである。
 ヨハネ伝にはこの兄弟のことはこれまでは出て来なかったが、姉妹たちが使いをイエスのもとに遣わしたこと、すなわち、普通の人なら知らないはずの行き先を知っていたことは、余程親しい間柄であった証拠である。36節には、「ああ、何と彼を愛しておられたことか」と言ったユダヤ人の言葉が記されているが、この人々は主イエスがラザロを愛しておられたことを知っていたようである。
 マルタとマリヤの姉妹のタイプの違いは、キリスト者の間では有名である。マリヤ的なタイプとマルタ的なタイプがあって、主はマリヤの方を愛したもうたが、それを前提にして、自分はマルタ型である、というふうに言う女性をよく見かける。ルカ伝10章28節以下の記事が非常に有名になったからである。
 11章では主イエスと2人の姉妹の語り合いだけしか記録されていないが、主イエスがこの三人の中で一番愛しておられたのはラザロであったと見るのが正しいのではないかと思われる。マルタ、マリヤの姉妹の名前は、ヨハネ伝以外では今言ったそのルカ伝10章にしか出てこない。それにしては、我々はその姉妹の名をよく知っている。それはそれとして、ルカ伝10章にあるマルタとマリヤのタイプの違いは、ヨハネ伝11章のマルタとマリヤの御言葉への対応の違いと通じるところもあるが、二人が非常に違うという先入主をもってヨハネ伝11章を読むことは避けなければならない。マリヤは御言葉を熱心に聞く敬虔な信仰者で、マルタは働くだけの世俗的な人物だと思い込むことは、御言葉を素直に読むときの妨げになるから、注意しよう。
 マリヤが主に香油を塗り、自分の髪の毛で主の足を拭いたことについては、12章で改めて見ることであるから、今日は詳しいことには触れない。ここには人物紹介がされているだけなのである。
 さて、ラザロが病気になった時、姉妹はベタニヤから使いをヨルダンの向こうのベタニヤに送って、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
 「あなたが愛しておられる者」という言い方に注意させられる。これはラザロのことをそれとなく仄めかしたのでは恐らくない。ラザロだとハッキリ分かったのである。良き羊飼いである主は、ついて来る者を全部等しく愛したもう。だから、ラザロだけが主の愛しておられる者だとするのは正しくない。この言葉は、本名ではないが、ラザロを指す一種の固有名詞であったのだ。知っている人の間でしか通用しないのであるが、固有名詞と同じ価値を持つ。
 ヨハネ伝には「イエスの愛しておられた弟子」という言葉が13章以下に頻りに出て来る。これはヨハネのことを指しているが、ヨハネ以外の弟子を主イエスが愛しておられないかのように理解してはならない。これは特定の人だけを指し、他の弟子も了解していた或る意味での隠語である。ラザロもそのように呼ばれた。
 では、この便りは、「ラザロが病気をしています」というだけのことか。そうではなく、これをもっと拡大して、愛する者への主の顧みを請い願うことに使うことが出来る。
 我々も主の愛したもう者である。姉妹たちは主イエスの愛を求めることが出来るという証しをしたのであり、主は愛をもって答えたもうた。
 主が答えたもうたその答えは、マルタとマリヤに届かなかったようである。ベタニヤに主が来られた時のこの二人の言葉には、この時の主の言葉は反映していない。
 「この病気は死に至るものではない。それは神の栄光のため、また神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。これは9章の初めで、この人が生まれつき盲人なのは本人の罪か、親の罪か、と尋ねられて、本人の罪でも親の罪でもなく、神の御業が彼の上に現われるためである、と答えたもうたのと同じ主旨である。
 死ぬほどのものではない、と言われたがラザロは死んだではないか。死んだけれども、死は終わりでなかった。死は克服され、神の栄光が現れたのである。それは我々についても言えることである。

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