◆説教2002.03.10.◆

ヨハネ伝講解説教 第108回

――ヨハネ10:29-39によって――

  29節の「私の父が私に下さったものは、全てに優るものである。そして、誰も父のみ手から奪い去る者はない」と言われた御言葉、これは難しい箇所である。言葉としては、別に難しくなく、その通り、と受け入れられるであろうが、「父が私に下さったもの」、これが何を指すのかで考えこんでしまう。そして意見が分かれる。
 まず、こういう意見がある。前からの続きを辿って来ると、主は「私の羊」について論じ、「私の羊は私の声に聞き従う」と断言されたが、さらに「彼らはいつまでも滅びることがなく、また、この羊を私の手から奪い去る者はいない」と約束したもうた。だから、「父が私に下さったもの」とは、この羊のことであると考えられる。かなり多くの人に支持される解釈である。
 さらに併せて思い起こされるのは、6章37節で「父が私に与えて下さる者は、みな私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒まない」と言われた御言葉である。同様の意味の言葉である。だから、キリストの民、キリストの羊とされている者の救いは全く確かである、とここで聞き取ることが出来る。
 ところが、キリストの羊である我々が「全てに優るもの」であると言われる。そのような誉れを得ていることを有り難く思わぬ者はないが、「本当にこの読み方で良いのか」と躊躇いを感じる人も当然いるであろう。神が我々に全てに優る賜物を与え、我々をそれによって全てに優って高めて下さることはその通りであるが、今そのことをここに挟む必要があるのか、という問題は残る。「全てに優る」と言われるのは我々以外のことと見た方が良いのではないのか。
 「父が私に下さったもの」、これを別の角度から考えるとすると、次の30節に、「私と父とは一つである」と言われるのであるから、そこから推し量って、父と御子の本性が同一になるように、父が御子に与えたもうた栄光とか力とか神性を考えることが出来るではないか。ここでは、直ぐ前のところで、「私は彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らを私の手から奪い去る者はいない」と言われた。その永遠の命を与える権能、これが父から御子に授けられた、と言っておられると取ることも出来るのではないか。
 今言った主旨のことを、主イエスは5章で語っておられた。その25節から27節にかけてであるが、「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして、子は人の子であるから、子に裁きを行なう権威をお与えになった」と言われた。父は御自身のうちにあるものを御子に授けたもう。そのところとここと主旨が合致するように思われる。
 ところが、「私に下さったもの」という言葉をその意味に取るように読むことが出来るかどうかという言語の上での問題がある。気にしなくても良いかも知れない。
 今、日本語に訳されたことばを追って考えて来たのであるが、原典に当たって見ると、まだまだ疑問が出て来る。この箇所に関しては原典の異本が幾通りもあるからである。
 その幾通りもの中の一つを選んで、日本語に訳したものを我々は読んでいる。
 面倒な問題を扱いたくない、と誰も思うのである。また、こういうことを調べても、それで霊的な満足が得られるわけではなく、信仰の確信に役立つともいえない。細かな違いは無視して良いのではないか。そう思う人は多い。確かにどう読もうと我々の救いの道が変わることはない。ところが、疑問を伏せたままで聖書を読み進んで、あとで行き詰まることがある。だから、誤魔化しでなくて、一応納得出来る道を見つけなければならない。
 神の言葉は書き留められ、書き写され、さまざまな破壊の行なわれた歴史の中でも、聖書は人間の手で守られて伝えられた。だが、人間というものは忠実ならんとしても完璧に正確な仕事をやり遂げることは出来なかったという事実も認めなければならない。ただし、聖書が全面的に誤って書き写され、原形をとどめぬものになったか、と心配することは要らない。聖書本文の99パーセント以上については、写本は一致している。だから難しいことを考えないで、素朴に信頼して読みを深めれば良いのである。
 しかし、書き写すことに限って言うならば、それは人間の業であるから、間違いが起こり得ることは否定出来ない。また翻訳に関して言えば、誤訳することもあっただろう。
 アラム語で語られた主の言葉がギリシャ語になるとき、正確に翻訳されなかったことがあるかも知れない。書き写す場合に勘違いして書き間違えることも起こり得たであろう。一般の例を考えて見ても良い。文章を公けにする時は校正をしなければならない。最低3度、別の人の目で見直さなければならないというのが常識である。それくらい間違いは起こりやすいのである。そのことを考えるならば、昔の聖書の写本製作者が如何に細心の注意をこめて書き写してくれたかを偲ぶことが出来る。彼らは祈りつつ書き写した。それでも完璧な業ではなかった。
 間違いに気付いたなら訂正を加えるのは当然である。しかし、その訂正が間違って、もっと悪くなる場合もあり得た。そういうわけで、今我々が問題にしている箇所について言えば、5通りの写本の系統がある。そのいちいちを検討する時間はないし、礼拝説教のなかでそれを行なうのは場違いであるし、検討する力も私には欠けている。だから、神の憐れみに縋って、テキストが完全でなくても、御旨をここから間違いなく読み取らせて頂くよう祈るほかない。また、神の憐れみに縋って、我々が読み間違いをしても、間違いということが分かった時には改めるから、その間違いを赦して頂きたいと願いつつ一つの解釈を採択するのである。
 それでも、曖昧さを残してはならない。だから、信仰的と称して、都合の悪い意見を隠したり、結果として、誤魔化しが入り込むようなことがないようにしなければならない。人間には理性が与えられているから、これに最高の決定権があると思い上がってはならないが、与えられたものを使いこなすことは必要である。
 さて、今問題になっている箇所であるが、これは「私にそれらを与えて下さった父は、全てに優る方である。そして、誰も父のみ手からそれを奪い取る者はない」と読むのが分かり良いのではないかと思う。どうしてそのように聖書本文に手を加えるかというと、本文そのものが損なわれたと考えられるからである。この修復が絶対正しいとは主張しないが、文脈を損なっていないことは確かである。
 とにかく、救いの確かさが語られている。それが重要なのである。ユダヤ人たちはそれを見ていない。28節の「彼らを私の手から奪い去る者はない」と、29節の「誰も父のみ手からそれを奪い取ることは出来ない」は対になって我々の救いの確かさを示している。
 このように論じて、主は「私と父は一つである」と結論的に宣言したもう。これは、直ぐ後に引き起こされたユダヤ人の反論が示すように、御自身を父なる神と同一化しておられる言い方である。しかし、彼御自身のことだけでなく、我々の救いのこと、これまでに語られたことの続きとして、永遠の生命を賜わることの確かさをここから聞き取って置かなければならない。我々の救いの確かさは、御父と御子によっていわば二重に保証されているのである。
 「私と父とは一つである」。これは17章11節にももう一度語られ、「私たちが一つであるように、彼らも一つとなるためであります」と言われる。父と一つであることが救いの基本であり、交わりの基本なのである。
 「そこでユダヤ人は、イエスを打ち殺そうとして、また石を取り上げた」。「また」石を取り上げたというのは、先に8章59節に一度あったからである。あの時も主イエスは御自身を神の子と名乗ってユダヤ人を憤激させたもうた。ユダヤ人が主イエスを殺す意図はこれからいよいよハッキリする。すなわち、己れを神と等しくする不敬を犯していると見たのである。それは石で打ち殺さねばならない。
 それに対して主イエスは、「私の良い業のどれの故に私を殺そうとするのか」と問われ、ユダヤ人たちは「良い業のためでなく、神を冒涜した業のゆえである」と答える。良い業なんかはない、と言うのである。
 「良い業」と主の指摘しておられる言葉をユダヤ人たちは全然聞こうとしなかったが、我々もそれに釣られて、これを聞き流してしまうかも知れない。しかし、ここでは業というのは大切な言葉である。38節で、「たとい私を信じなくても、私の業を信じるがよい」と言われるが、主イエスの業にはそれほどの大きい意味がある。
 「私の業を信ぜよ」と言われたのは、変わった言い方であるが、私の業を通して私が何かを知り、本当の信仰に達することが出来るという意味がある。勿論、これは信仰の入り口でしかない。業を通して、彼が神から遣わされたもうたことが明らかになった。ただそれだけである。御言葉を聞いて、そこに留まらねばならない。
 だから、ユダヤ人たちが、「良い業の故にでなく、冒涜の故にである」と答えているのは何も分かっていなかったからであって、実際は主イエスの御業に躓いているだけである。御業は分かり易いはずであるが、それをも見ようとしない人がいた。
 「あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」と彼らが主を攻撃した時、主は律法の言葉によって反論された。すなわち、ユダヤ人たちは律法にしたがってイエスを殺そうとするが、それに対して主イエスは彼らの判断そのものが律法に外れていることを証明されるのである。彼らは神と向き合う機会を与えられたのにそれを見なかった。
 34節で主イエスの引いておられる聖句は詩篇82篇6節である。「あなた方の律法」と言われたが詩篇を律法に含める言い方は珍しいものではない。そこには「私は言う、『あなた方は神だ。あなた方は皆、いと高き者の子だ。しかし、あなた方は人のように死に、もろもろの君の一人のように倒れるであろう』」と歌われる。この詩篇の初めでは、「神は神の会議の中に立たれる。神は神々の中で裁きを行なわれる」と言うように、「神々」と呼ばれる者らを神は裁きたもうことが言われる。「神々」という呼び名は一応公認されているが、真の神と区別された人に過ぎないことは明白なのである。「神々」という呼び名が否定されないのは、ある意味で神の代行を勤めているから、ということであろう。つまり、これは地上の支配者たちであって、彼らは正しい裁判を行なって、弱き者、貧しき者を救う務めを持っている。そして、その任務を果たしていないなら、真の裁き主から裁かれるのである。
 「神々」という言い方は、旧約ではまた天使たちにも適用された。天使も神から遣わされた者である。神の代理を勤めるから神々と呼ぶ。したがって、次の節に「神の言葉を託された人々が神々と言われているとすれば、云々」と言われるのであるが、34節に引用された詩篇82篇の「神々」は、神の言葉を託された人のことではない。地上の秩序を維持する支配者である。しかし、御言葉を託された者でなくても良い。「神の言葉を託された人々」と言われるが、「託す」という意味の言葉はない。神の言葉がその人において起こった、その人、という意味である。これは預言者を指す言い方ではないかと考えられるが、もっと広く律法を正しく受け入れている人々のことを言うらしい。
 そのように、人間でありながら、間違ってでなく、あるいは偶然にそう言われたのではなく、正当に「神々」と呼ばれる場合があるのだと先ず言われる。そして次に、まして、神が聖別して世に遣わされた者が「私は神の子である」と言ったとしても、冒涜にはならないではないか。
 主がここで特に論じておられるのは、ご自分の神たるの本性の議論ではなく、遣わされて来ており、使命を持っておられることである。したがって、これは我々に当て嵌めることも出来る。我々は神の子である。
 神の言葉を託された人を「神々」と呼ぶことは我々の間では通常しない。しかし、神の代行をしているならば、その人を通して神の御旨を聞いているということは考えなければならない。あたかも神から聞くように、遣わされた人から御言葉を聞くのである。
 人の言葉をあたかも神の言葉のように恭しく聞け、ということではない。パウロはI テサロニケ2章13節で、「これらのことを考えて、私たちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなた方が私たちの説いた神の言葉を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として――事実その通りであるが――受け入れてくれたことである。そして、この神の言葉は、信じるあなた方のうちに働いているのである」と言っている。
 神に遣わされて語る人の言葉は神の言葉なのだ。そこで悔い改めと信仰が起こされる。
 人は神について論じる機会があるかも知れない。その場合、彼は神の言葉を語っているのか。そうではない。神から遣わされて語るのでない限り、神の言葉を語るとは言わないのである。
 もちろん、遣わされたならば、その人の語るどんな言葉でも神の言葉であると思うならば、神を冒涜することになる。神に遣わされて、神の言葉を語るに相応しく整えられて語る場合にのみ、すなわち自分の思いつきを語るのでなく、具体的には聖書に記された神の言葉を、生ける言葉として響き渡るように解き明かす時、その語る言葉は神の言葉として受け入れられるのである。
 しかし、今主イエスが語っておられるのは、我々の使命についてでなく、ユダヤ人たちが神と人を区別しなければならないという原理を、深い理解なしに弄んでいることについての反駁である。
 ただの人間であるとしても、神から遣わされて語っている場合は、その言葉を神の言葉として聞かなければならないのである。だから、ただのナザレ人、人間イエスであっても、神から遣わされたことが、その行ないたもう業によって証しされている以上、その言葉を神の言葉として慎んで聞かなければならない。しかし、彼らは何の恐れもなく、神の言葉を聞き流し、それに反逆している。
 さて35節に、「聖書の言葉は廃ることがあり得ない」という言葉が挟まれているが、これは主イエスの言葉ではなく、福音書記者の註釈であろう。これに少し触れて置く。「聖書の言葉は……」と言うが、これは書というよりは「書かれた言葉」という意味である。書かれた御言葉が滅びないのである。これはユダヤ教で言われていたが、主イエスもそれを受け継いでおられる。例えば、マタイ伝5章18節で、「天地が滅び行くまでは、律法の一点一画も廃ることはなく、ことごとく全うされるのである」と言われた。書かれた言葉とは言われないが、一点一画という言葉はそれが文字に書かれたことを示している。
 主イエスが言われた書かれた言葉は、我々の言い方では旧約聖書のことであるが、イエス・キリストが来て福音の宣教を始めたもうたからには、旧約、特に律法は廃れたと言うことはない。主イエス御自身はそう教えたまわない。
 ただし、旧約の言葉をあるいは文字を固守せよと言われたと理解するならば、ユダヤ教原理主義になってしまう。主イエスは単なる固守を教えたまわなかった。主が教えたもうたのはむしろ成就であった。

目次へ