◆説教2002.03.03.◆ |
ヨハネ伝講解説教 第107回
――ヨハネ10:25-29によって――
「あなたがキリストであるのかないのか、ハッキリさせよ」とユダヤ人たちは苛立って主イエスに迫った。主は答えて言われる、「私は話したのだが、あなた方は信じようとしない」。………いったい、主イエスは御自身がキリストであることを本当に話されたのか。いつ語られたのか。どういう形でか。ハッキリ分からせる語り方であったのか。
「私は話した」と主が言われたのは、二つの意味においてであると思う。直截に語られたのと、言葉でなく業を通して語る語り方とである。「私は、父の名によってなした全ての業を通して語っていたのである。それによって十分に、私の何者であるかを証ししたではないか」と先ず説明される。「しかし、そんな徴しではハッキリ語ったことにならないではないか」とユダヤ人たちは反論するであろう。いや、あの時のユダヤ人だけでなく、今でもナザレのイエスに好意的な、しかし彼を信じていない人はそう言うのである。だから、その人たちはイエスの御業を見て尊敬するとしても、彼がキリストであり、自分の主であると信じることは出来ない。とにかく立派な方なのだから、彼に見習って行こう、と言うだけである。好意的な人はこうであったが、悪意ある人もいた。彼らは主イエスの言葉尻を捕らえようと躍起になっている。 いま、主イエスとユダヤ人のやり取りを見ているのであるが、我々がユダヤ人の姿勢に引き込まれることがないよう警戒したい。彼らの議論のどこに問題があるかを読み取って、そこから遠ざかろう。彼らは理屈のための理屈は言うが、自らの救い、その確かさについて、真剣に問う態度を欠いている。 ところで、「私は話した」と言われたのは、「私の業を見て悟れ」という主旨なのか。 主イエスのここでの答えには、そういう意味も含まれているが、実際に、言葉でもってハッキリ語られた場合もあったではないか。「私は父から遣わされた」、「私の教えは私自身の教えではなく、私を遣わされた方の教えである」という意味の言葉は、しばしば語られていたことを思い起こそう。「私はキリストである」と発言されたのではないが、それらはキリストでなければ語れない言葉であり、キリストであることを示していた。 「あなた方は信じようとしなかった」と25節で言われたが、或る程度信じた者もいたことを我々は知っている。8章30節には「これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた」と書いてあった。この「多くの人々」というのがユダヤ人であることは、次の節を見れば分かる。すなわち、「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、『もし私の言葉のうちに留まっておるなら、あなた方は本当に私の弟子なのである』」と書かれている。 この人たちは信じたけれども、御言葉のうちに留まらなかったから、その章の終わりで見る通り、石を取ってイエスを撃ち殺そうとしたのである。丁度、6章66節で、「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと行動を共にしなかった」とあったように、ガリラヤで多くの人が信じてついて来たけれども、結局、去って行った。同じことがユダヤでも起こった。 「あなた方は信じようとしない」と主イエスが言っておられるのには、信仰をもって聞き取るべきことを、信仰抜きで聞こうとしている、という指摘がある。それとともに、一時は信じたこともあったが結局信じなくなった、という意味も含めたのである。信仰を途中で放棄しては信じたことにならない。道は目的地に繋がっていていてこそ道である。方向だけは間違いなく目標を指しているが、途中で切れている道は、欺くものに他ならない。信仰も永遠の救いに繋がっていてこそ信仰である。全き救いにまで至らせる信仰かどうかを、見極めなければならない。 その信仰とは、内容から言えば、御言葉を聞いて、その言葉を信じ、受け入れること、さらに言えば、御言葉に留まることではないか。あるいはまた、その御言葉を語りたもうお方、人格を受け入れることである。言葉もしくは人格以外の事物あるいは業を信じるということはない。しかし、ここで主イエスは、御言葉が語られて信仰が起こることについては何も言われず、「私の業が私を証しして、それによってあなた方は信じなければならないのに、あなた方は信じない」と言われる。 今見たように信仰は本来の意味では、あくまで約束された御言葉または約束を与えたもうお方そのものを信じることであるが、信じるに際して客観的な証しが一つの役割を果たすのである。すなわち、その約束の言葉またはそのお方がまことであることが証明され、そこで信じられるのである。その証しが信じる者の内側でしか働かない場合がある。これが最も重要で確実な、いや決定的な証しである。すなわち、御霊の証しである。 その他に、業が客観的な証しを立てるということがある。9章から10章にかけてしきりに語られたのは、生まれつきの盲人の目を開けるという奇跡的な業で、こういう業が出来るのは、神から遣わされた人でなければならないことを証ししている。しかし、その業に触れて、信じた人もいるが、信じなかった人もいる。 業が証しの力を持ち、その証しによって業を行ないたもうた方が信じられるのであるが、その証しの力は決定的ではない、ということをここで一つ押さえて置かなければならない。37節から38節に掛けて、「もし、私が父の業を行なわないとすれば、私を信じなくても良い。しかし、もし行なっているなら、たとい私を信じなくても、私の業を信じるがよい」と言われ、業を信じることが、御自身の父から遣わされたことを信じる手がかりになると言われた。それでも、業を見て一時は信じたとしても、それが見て信ずる信仰である限り、まことの信仰に至りつかないで消滅する場合もある。 しかし、主イエスは見て信じる信仰が信仰にならないことを示すとともに、信じるに至らないもう一つの原因を語られる。「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」。――つまり、私の羊は私の声を知っている。だから、私の声を聞いたなら、すぐについて行く。ついて来ないのは、私の羊でないからである。私の羊であるかないかは決まっているのである。すなわち、6章37節で、「父が私に与えて下さる者はみな私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒まない」と言われたが、神が御自身の者をキリストに渡したもうたのである。 このお言葉は非常に重大であるから、粗略に取り扱わないで、良く考えよう。現にキリストの御声は全世界に鳴り轟いている。それなら、キリストの羊として選び置かれた者は、早速、福音の語られるところに押し寄せて来るはずではないか。ところが、キリストのもとに人は来ない。キリストのことを全然語らないところに、あるいは好い加減に語っているところに、むしろ人は喜んで集まる。 それでは、「私の羊は私の声を知る」との主の言葉は間違っているのか。あるいは例外が多過ぎて十分な定義にならないのではないか。それとも、主の言葉を今聞こうとしない人は皆、主の羊でないということなのか。――これは軽々しく扱ってはならない問題である。先ず、主の言葉には偽りはないと信ずる。しかし、比喩というものは全て単純化されていることを我々は知っている。 キリストの羊はキリストの声を知っている。これは確かである。しかし、知っているその知識が錆び付いていて、聞き分けが出来ない場合が多いのではないか。実際、我々のうち、福音を最初の一声で受け入れ、これこそ私の主人の声であると確認出来た人が何人いるだろうか。 我々の多くは、その確認に至るまで、長い歳月を必要としたのである。信仰に入ってからの忍耐については良く聞かされるが、信仰に入るまでの忍耐も大いに必要だったのではないだろうか。そういう事情ではあるが、「これこそが真の主人の声なのだ」と長年に亘って教え込まれた結果、考えがだんだん変わって、聖書の言葉を受け入れることが出来るようになり、ようやく得心して、この方が主だと確信したということか。そうではない。入信までに長い期間を要したのは、譬えで言うならば、錆び付きがひどくて、錆び落としに時間が掛かったのである。御声は届いていたのに、聞こえなかったのである。長期間の修理によって機能が回復したから、羊飼いの声が良く聞こえるようになったのである。 一方、キリストの羊にキリストの声を聞かせるための装置にも、ひどい錆び付きがあるようである。だから、キリストの御声を伝えるべき器がそれを正しく伝えていないという事情もあることを考えなければならない。キリストがこれを宣べ伝えよ、と御言葉を託されたのに、託された言葉を十全にハッキリと語らない説教者もいるのだ。 「私の羊は私の声を聞いて、ついて来る」という御言葉は全く真実なのだ。その通りにならないのは、御言葉の真実を埋もれさせている人間の不真実があるからである。その不真実をどう打破するかという問題は、入信の時だけでなく、我々の一生の課題である。これは肉との戦いと言われるものである。 肉との戦いについて、今は触れなくて良いということではない。確かに今日学んでいる御言葉では、そのような項目が取り上げられているのではない。だが、今教えられていることが受け入れられないように感じられるとすれば、それはまさに、肉の知恵が逆らって、真理を素直に受け入れ難くしているからである。「我々が努力して精進すれば、キリストの声を聞くことが出来るようになる」と教えられるとすると、肉には努力の余地が残されているわけで、肉は努力を喜ばないかも知れないが、少なくも励まされる人はいるであろう。「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」と言われると、努力の余地はないので、肉は猛然と反発する。それは神に近づく道が全く閉ざされていることではないか。肉から一切の励みを奪おうとする心なき業ではないかと怒るのである。 人間というものは向上して行くことを求める。それが生き甲斐であって、それが野獣との違いであると人々は考える。今日、向上して行くことを放棄して、低い方に低い方に、安易につこうとする傾向が、豊かな国に住む人のうちに見られるが、これは人間の精神の堕落また崩壊であって、黙視して良いことではない。 しかし、向上して行こうとする人間が、限界を忘れて、人間以上のものになろうとし、神の領域に踏み込むとすれば、神は怒りたもう。それは人間自らの破滅を招くことである。人間が崩壊して、人間以下のものになろうとしている今日の危機は、人間が人間以上のものになろうとした思い上がりの結末である。 人間が限度を越えたものになろうとした企てとして、聖書はいろいろな実例を語っている。例えば、エデンの園の中央にある知恵の実を食べて、神のように賢くなり、その次には、同じく園の中央にあった命の木の実を食べて、神のように永遠に生きようと意図したことがある。それは楽園を失ない、世界に死を導入する悲劇を来たらせた。また、バベルの塔を天まで建て上げようとした企てもある。そのために言葉が乱れて、一致が出来なくなった。これは神話的な言い方であるが、現代人の論じる遺伝子の解読や生命操作はこれである。さらに、今ここで考えなければならないのは、神のみが知りたもう救いの奥義たる限界の操作、手加減、救いの道の解読と読み換えがある。 「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」との御言葉は、人間の限界を示したものである。キリストの羊でない者は、キリストの声を聞きたがりはしないが、聞きたくても聞くことが出来ない。何という悲惨で苛酷なことか。神がそのような悲惨なことを計画したもうと考えてはならないのではないか、と言う人は少なくない。だが、神の意志決定は人間の努力によっても哀願によっても動かせない。キリストの羊として定められていない者は、羊ではない。一時的に感動することがあっても、また去って行く。 羊飼いと羊の関係が前もって定められているというのである。これは動かせないのである。何というひどいことよ、と恐れられるかも知れないが、別の見方をするならば、もし動かせるとすれば、救いの確かさはどこにあるか、という難問に出会うであろう。キリストの羊でない者が、一心に求めて、キリストの声を聞き取れるように修練を積んだとする。彼はキリストの声を聞くことに習熟し、この牧者について行くことが出来るようになる。しかし、自分の力で聞くようになった者は、また自分の力で他の声を聞いて、そちらに心を引かれて、離れて行くことにもなるのである。 確かさがこちら側になく、主の側にあってこそ、我々は確信に留まることが出来るのである。我々は己れの全てを投げ出さなければならない。自分の側の確かさを捨てきってこそ、恵みとしての確かさに与ることが出来る。 それにしても、羊飼いの声が分からないのは、主の羊でないということになれば、我々の多くはキリストの声を聞く以前に、絶望に陥るほかなかったのではないか。我々自身だけでなく、キリストの声を今まだ聞いていない多くの人を、救いの道から断ち切ることになって良いのか。 主イエスは12章32節で「私がこの地から上げられる時には、全ての人を私のところに引き寄せるであろう」と言われるが、「引き寄せる」という言葉を彼が使っておられるのは、6章44節で、「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と言われた時である。引き寄せるという言葉が使われる二つの場合を重ね合わせれば、深い理解が出来るであろう。 第一の箇所では、「父が引き寄せる」と言われた。第二の箇所では「私が引き寄せる」と言われる。もはや父は引き寄せたまわないという意味ではないが、御子は栄光をお受けになった時、御自身の力で人々を引き寄せたもう。すなわち、彼の遣わされる使徒たちの福音宣教によって、人々が引き寄せられるのである。 もう一つ読み取らなければならないのは、第二の箇所では、「全ての人を私のところに引き寄せる」と言われる点である。「全ての人」がキリストのもとに来たって救われると言っておられるのではないであろう。「滅びの子は滅びる」と言われるからである。 我々はここで救われる者が多いとか少ないとか論ずるべきではない。しかし、救われる者は如何にも少ないように考えることは斥けなければならない。 次に進もう。「私は彼らに永遠の生命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また彼らを私の手から奪い去る者はない」。これは6章39節40節で、「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が悉く永遠の命を得ることなのである。そして、私はその人々を終わりの日に甦らせるであろう」と言われたのと同じである。 永遠の生命は我々が獲得するものではなく、授けられるものである。勿論、授けられたものは受け取らなければ自分のものにならない。手を差し伸べなければ受け取れない。 しかし、受け取ろうという意欲があるから与えられるというのではない。一方的に与えられる。ちょうど、一方的に定められるのと同じである。一方的であって、人間の努力に依存していないからこそ、確かなのである。 |