◆説教2002.02.17.◆

ヨハネ伝講解説教 第106回

――ヨハネ10:22-24によって――

  「その頃、エルサレムで宮潔めの祭りが行なわれた。時は冬であった」。……「宮潔めの祭り」という名前を聞くことはこれまでなかった。この祭りは旧約の律法で定められたものではない。
 「ハヌカー」と呼ばれるこの祭りは、紀元前167年にアンティオコス・エピファネスがエルサレムを征服して神殿にギリシャの神ゼウス像を建ててこれを冒涜して後、マカベア戦争が起こり、マカベアのユダが勝利して、偶像を破棄し、神殿を潔め、再び神に捧げる献堂式が行なわれた。紀元前165年のキスレウの月25日から8日間祝われた。その記念が以後年々行なわれた。今の暦では12月頃になる。
 ヨハネ伝のこれまで読んできた記事は、7章以来、仮庵の祭りからずっと続いているもののようである。一旦切れたものか。確かなことは分からないが、今日の所は10章の前の部分とは繋がっていると思われる。というのは、26節に「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」という言葉があるからである。これは羊の教えの続きと取るべきであろう。
 仮庵の祭りは10月頃である。そのまま主イエスがエルサレムに滞在して、12月の宮潔めの祭りを迎えられたのかどうか確かではないが、多分そうであろう。
 この日に起こった主イエスとユダヤ人との対決の争点となった事柄と、宮潔めの祭りの意義や性格、雰囲気が何か関連を持っているのかどうか。無理にこじつけて関連を指摘することは出来るかも知れないが、確実に読み取れる証拠はない。そういうわけで、宮潔めの祭りに触れたのは、この事が起こった時期を示すだけのためと取って置きたい。
 すなわち、これは冬である。春の「過ぎ越し」まであと4ヶ月である。そして、今度の過ぎ越しは主イエスの決定的な「時」である。人々には、時が近づいていることも、迫っている時が何であるかも分かっていない。だが、主は知っておられた。我々にも、この時が何の時であるかは、聖書を読むことを通して示されているのであるから、その点を良く弁えて置きたい。
 「イエスは宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った」。
 「ソロモンの廊」という場所は、神殿の婦人の庭の東側に南北に通っている廊である。
 使徒行伝の中に出て来る。3章11節に、「彼らがなおもペテロとヨハネとに付き纏っている時、人々は皆ひどく驚いて『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まって来た」と記される。5章12節には、「一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた」とある。
 初代エルサレム教会の中心と言っては言い過ぎであろうが、少なくとも最も重要な拠点の一つが、エルサレムの宮の中のソロモンの廊であったということは考えられるのである。この廊は柱廊であって、柱の上は二階の間である。廊の東側は壁になっていたらしい。だから、冬、東の風を避けるためにソロモンの廊を歩かれたのではないかとも言われる。二階の間には礼拝に来る人の集会や寝泊まりも出来たのである。この二階の間も使徒行伝の弟子たちによって利用されていたと考えることが出来る。そして、そこから遡って、主イエスの在世中、宮における活動がここを拠点としていたのではないか、と考えて無理はなさそうである。
 例えば、マルコ伝11章27節に、これは受難週の第二日のことであるが、「彼らはまたエルサレムに来た。そして、イエスが宮のうちを歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがみもとに来て言った、『何の権威によってこれらの事をするのですか。誰がそうする権威を授けたのですか』」と書かれている。これがソロモンの廊で起こったとは記されていないが、彼がソロモンの廊を歩いておられて、祭司長たちに取り囲まれた場面を想像しても、十分納得が行くのである。
 受難週に主イエスが連日、宮の中で説教されたと共観福音書は伝えるが、その説教の場所もソロモンの廊ではなかったかと思われる。確かなこととして主張するわけには行かないかも知れぬが、それらの事情を胸に納めて今日のところを読むならば、分かりやすくなることは確かだ。
 「それは冬であった」ということから、天気が悪くて、それで廊を歩いておられたのだと考えることも出来なくない。だが、その日の天気の状態までは考えなくて良いであろう。冬であったとは、寒かったには違いないが、寒かったことにどういう意味があったかは考えても分からない。やがて過ぎ越しの祭りが来るという意味だけが分かるのである。
 「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った」……。このユダヤ人がどういうユダヤ人であるかの判定も難しい。これまで読んで来たところから考えて、ヨハネ伝がユダヤ人と言うのはキリストに対する悪意を持つ人という含みがある。ハッキリ言うならば祭司長・長老・律法学者たちの構成する議会の中心メンバーを指す。
 「取り囲む」というものものしさは、敵対の意志を持った威圧の姿勢であると取ることは出来なくないが、答えを直ぐ傍で聞こうとして寄って来たのかも知れない。直ぐ前の19節以下の記事で見たように、ユダヤ人の間で意見は分かれていたのである。主イエスに対して比較的好意的な人と、頭から否定しようと言う人が論争していた。しかし、結局、好意的であろうと、敵意に満ちておろうと、「あなた方は信じようとしない」と主イエスは25節で断定されたのである。彼らの考えが様々に違うとしても、その違いを取り上げることには意味はない。
 39節では「そこでまた彼らはイエスを捕らえようとした」というが、これが結末である。そこで彼らの本性が露呈されたのである。一時的には、また部分的には、イエスに同情的・好意的であったとしても、「好意」ということと「信ずる」ということとはずいぶん違うのである。好意をだんだん煮詰めて濃度を高めて行けば、信仰になる、というようなことはない。
 彼らは言う、「いつまで私たちを不安のままにして置くのか。あなたがキリストであるなら、そうとハッキリ言って頂きたい」。
 彼らの心のうちには「ナザレのイエスがキリストであるかも知れない」という完全に打ち消すのが難い思いがわだかまっていたのである。彼らは主イエスから屡々こっぴどくやられている。それゆえ恨みに思う者もいたが、敵にまわす踏ん切りのつかない人もいた。あのような徴しは誰にも出来ないからである。人間として一応まともな判断だと言えるのではないか。しかし、それ位で感心しても空しいのである。
 しかも、主イエスがご自分について何もハッキリしたことを言っておられないと彼らが言うのは、どうしたことか。主はハッキリ言っておられたではないか。7章の26節に、民衆の言葉として、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と、すなわちハッキリと、語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを本当は知っているのではなかろうか」という言葉が記されている。
 「いつまで不安のままにしておくのか」。ここで「不安」と訳したのは適切でなかったかも知れない。救いの対象としての「不安」ではない。未定の状態、懸案の状態、どっちつかずの不安定な状態に吊り下げられていること、例えば、就職の試験が済んで、結果は出たはずだが発表はされていない、というような、落ち着かぬ状態に置かれていること、そのイライラのことである。
 詩篇の中にしばしば「主よ、いつまでですか」という重苦しい呻きが聞かれる。これは魂かけて主に呼ばわったのに、主が答えたまわず、光りが見えてこない、絶望と紙一重の状態に信仰者が置かれていることを表わすものである。ユダヤ人が「いつまで我々をイライラさせるのか」と主イエスに迫ったのは、詩篇の詩人の「主よ、いつまでですか」と叫んだのと似ても似つかぬものであると承知して置きたい。
 我々のうちにも、イエスは慕わしいお方である、私の命を預けても良いお方ではないか、と考えつつ、その決断に至らない中途半端な時期を過ごした経験者がいると思う。その煮え切れぬ中途半端さに、ある程度意味があると考えてはならない。光りを求めて、まだ見えて来ない状態と、単なるイライラは全く別なのだ。
 「あなたがキリストならハッキリそうと言って頂きたい」。これは真面目な要望のように聞こえるかも知れない。そうでないと見抜く眼識を具えたい。彼らは真剣に求めもせず、呼ばわりもしていない。
 「キリストかも知れない」という期待を持っていることは正しかったのではないかと言う人がいるであろう。そういうケースもあった。例えば、サマリヤのスカルの女は、この人がキリストであろうという期待をもって町の人を呼び集めた。集められた人たちは「この人こそまことに世の救い主である」と確認した。
 サマリヤの女の場合は自分の恥も曝して、「私のことを何もかも言い当てた人がいる。
 さあ、来てごらんなさい」と積極的に人々に呼び掛けていた。エルサレムのユダヤ人は積極的な動きは何もしない。「キリストであるならそうと言いなさい、ハッキリさせなさい」と言う。我々が信じないのはあなたの方でハッキリさせないからである、という姿勢が露骨に見えている。
 確かに、人々の側の期待がどんなに熾烈であっても、その期待からメシヤ信仰が紡ぎ出されるわけではない。キリストが現実に来られ、目の前に立たれ、キリストが我々に語り掛けられて、応答としての我々の信仰が始まるのである。信仰は向こうから来る。「求めよ、そうすれば与えられる」とはいえ、こちらがイニシアティヴを取って強引に求めるという考えは差し控えなければならない。しかし、今見るユダヤ人のように、「あなたがキリストであるなら、ハッキリそう言いなさい。そうだと分かれば信じよう」という態度は、信仰的に間違っているというだけでなく、人間としての姿勢が崩れてしまっている。まるで役人が、「必要な書類を揃えて出せば、許可してやる」と言う姿勢のようである。
 ところで、「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」という呼び掛けは、ルカ伝22章67節にあるのと同じである。これは主が議会に呼び出されて、裁判に掛けられた時の議会側の尋問のやり口であったのである。キリストであるなら、そう明言するのが当たり前ではないか。言わないのはキリストでない証拠ではないか。
 それと同じ主旨で、主イエスを侮辱する人々は、彼に目隠しをして、後ろから叩いて、「撃ったのは誰か、お前がキリストであるなら言い当ててみよ」とからかった。一見、非常に違うと見られるかも知れないが、主イエスが荒野で悪魔に試みられた時、「もしあなたが神の子ならば、この石にパンになれと命じなさい」と言い、「もし、あなたが神の子であるならば、ここから飛び降りて見よ」と言ったのと、根本的には同じである。それはつまり神を試みることである。
 このようなやり方で呼び掛ける誘いに、主イエスが一切乗りたまわなかったことを、我々は見ているのである。気を付けねばならないのは、我々が同じ過ちをしかねないということである。
 もう一つ考えて置いて良いのは、ここでユダヤ人が「あなたがキリストであるなら、ハッキリそうと言って頂きたい」と要請したのは、主イエスを陥れる陰険な策略であったかも知れない、という点である。マルコ伝にある大祭司カヤパの尋問は、主イエスから答えを引き出した上で、「これ以上証人の必要があろうか。あなた方はこの汚しごとを聞いたのだ」と言って、一挙にイエス・キリストを断罪したやり口と似ている。「あなたがキリストなら、そう言って頂きたい」との要望は、「そうすれば信じます」という求めではなく、言葉尻を捕らえる悪巧みに過ぎなかったかも知れない。
 「ハッキリ言って頂きたい」と彼らが言う「ハッキリと」という言葉には注目して置きたい。この言葉は7章4節、13節、26節で一度注意を喚起されたものである。7章4節では、主イエスの兄弟たちが彼を良く理解しないで、「自分を公けに顕そうと思っている人で、隠れて仕事をする人はいない。あなたがこれらのことをするからには、自分をハッキリと世に顕しなさい」と勧めている。この節では「公けに」と訳されるのが今取り上げている言葉である。ギリシャ語では「パレーシア」と言う。
 この言葉は7章では屡々出て来たので、我々も不注意で通すわけに行かなかった。先ず、兄弟たちがこの言葉を使う。次に、13節に、「しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった」と言われる。「公然と」が同じ言葉である。さらにもう一度、26節に出て来る。「見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを本当に知っているのではないか」。この26節の言葉は民衆が語っているのであって、10章24節の、ユダヤ人の指導者の言葉と逆である。すなわち、民衆はイエスが「公然と語りたもうた」と受け取っているのに、指導者たちは、「ハッキリ言って貰いたい」と言う。
 7章では主イエスの肉の兄弟が理解なしに使ったのであり、10章でもユダヤ人たちが善意とは言い難い意図で使ったものであるが、キリストがキリストであることを顕したもう場合、また福音が福音として解き明かされる場合、福音を聞いている者がそのような者として証しを立て、態度表明をする場合、聖書ではこの「大胆に」とか「率直に」という言葉を用いる。例えば、エペソ人への手紙6章19-20節に、「私が口を開く時に、語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示し得るように、私のためにも祈って欲しい。私はこの福音のための使節であり、そして鎖に繋がれているのであるが、繋がれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい」と言うのである。
 この言葉は日本語に訳される時は、「あからさまに」とか、「大胆に」、「率直に」、「憚らず」、「悪びれず」、「公けに」、「公然と」、「思い切って」、「確信をもって」というような訳語が当てられる。つまり曖昧な、口籠った、持って廻った、歯切れの悪い、言い方はこのことには相応しくないのである。キリストは確かに、ハッキリと言っておられたのである。
 イエスは彼らに答えられた、「私は話したのだが、あなた方は信じようとしない」。その通りである。彼はハッキリ語りたもうたが彼らは聞かなかった。
 福音を語る時は「あからさまに」語らねばならない。ちょうど強い光線で焼き付けをするように、福音は大胆な言葉で人の心にインプリントされるのである。ただし、大音響を響かせればそれだけ良く心に刻みつけられるという意味ではない。細い声で十分なのだ。声の物理的な力によって心に滲み入るのでなく、御霊の働きとして御言葉が注入されるのである。
 その働きが起こるのは、羊飼いと羊の関係であると次に学ぶのである。
  

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