◆説教2002.02.03.◆

ヨハネ伝講解説教 第104回

――ヨハネ10:16-17によって――

主は言われた、「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも私の声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。 
 「この囲いにいない他の羊」、これが何を指すかは、この語り掛けを聞いているユダヤ人には見当がつかなかったかも知れない。しかし、我々にはこれまで読んで来たところから容易に理解される。先ず思い浮かぶのは、4章で読んだサマリヤの人々の姿である。一人の女の呼び掛けで、スカルの人々がこぞって町から出て、町の外、井戸のほとりにおられるキリストのもとに集まって、御言葉を聞いた。 
 イエス・キリストが全世界の主であると理解している我々にとっては、スカルの町で起こったことは、別に驚くには当たらない事件かも知れない。しかし、ユダヤ人にとっては、彼らがナザレのイエスに深く傾倒していたとしても、驚くべき出来事であったようである。彼らにはサマリヤ人は眼中になかった。サマリヤ人を相手にすること自体、考えられないことであった。 
 「この囲い」と主イエスは言われるが、ユダヤ人たちは自分が囲いの中にいることに気付いていない。自分たちの見ているのは僅かにこの囲いの中だけであって、囲いの外の世界があることには殆ど思い及ばないのである。そういうことに注意させる指導者もいなかった。勿論、ユダヤ人たちは異邦人の存在を知っている。異邦人は経済力においても、政治権力においても、文化の力においても優れていて、それがどんどんイスラエルの領域に侵入して来ていることに無頓着でいるわけには行かない。しかし、ユダヤ人たちは異邦人に一目置くことは自分たちの存在を足元から崩すことになるのではないかと恐れ、意地になって異邦人を無視し続け、強気になってこれを軽蔑した。そして、異邦人とは言い切れないかなり近い関係にあるサマリヤ人に対しては、遠い異邦人に対するよりはもっと険しい敵意を持っていた。 
 ヨハネ伝でこれまでに学んだ範囲内で読み取られる「他の羊」は、サマリヤ人だけかも知れない。しかし、今後学ぶべきところにまで視野を拡張すると、まだまだ見えて来る。12章の20節以下を見よう。「祭りで礼拝するために上って来た人々のうちに数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところに来て、『君よ、イエスにお目に掛かりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポはイエスのもとに行って伝えた。すると、イエスは答えて言われた、『人の子が栄光を受ける時が来た。………』」。この時、主イエスがこのギリシャ人と会われたかどうかも書かれていない。謎に満ちた事件と言って良いのではないかと思う。 
 この場面について詳しく解き明かすことは今日は必要でない。それにしても、イエス・キリストの地上の御生涯において、この出来事が非常に大きい意味を持つことは、容易に読み取れるであろう。すなわち、主イエスの働きの領域にギリシャ人が関わって来たのである。だから、ギリシャ人の世界への展望が開けたのである。囲いの外の羊がまた見えて来たのである。 
 こののち、まだまだ囲いの外の羊が見えて来る出来事を我々は聖書から教えられる。例えば、使徒行伝8章では、ピリポにエチオピヤ人の求道者が示される。同じく使徒行伝10章では、ペテロにローマの百卒長コルネリオのもとに行くことが命じられる。16章では、パウロに海を渡った向こうのマケドニヤ人が示される。 
 これ以上例証を数え上げなくて良いであろう。囲いの外にも主の羊がいることを主の民らは次々に知って行くのである。それは今日の我々についても言えることではないか。 
 我々の目はややもすると狭まる傾向をもつ。自分のいる囲いの中しか見えない。自分の属する群れの問題しか感じ取れない。他の群れがどんな悩みを抱えているかに関心が向かない。教会の外の人々の問題状況が分からないで、ノンクリスチャンは駄目だ、と切って捨てることしか出来ない。もっと極端になると、自分が囲いの中にいることも見えなくなり、囲いの中の他の羊のことも目に入らなくなり、自分と自分の飼い主であられるイエス・キリストしか眼中にない個人的・内面的な、閉鎖された信仰の世界に籠ってしまうことも稀でない。 
 そんなに視野の狭いことでは駄目ではないか、という警告を聞くのではない。重要なことは、我々の主はこの囲いの外にも支配領域をもっておられることが見えなくなる危険である。キリストが世界の主でいますことが見落とされて、キリストが自分の守り神になってしまっている。 
 「この囲い」、これはイスラエルを指すと見て良いであろう。そんな姑息なものは意味がないから無視せよ、と言われるのでは必ずしもない。「ついには一つの群れになる」と言われる通り、小さい囲いはいずれ撤廃されねばならない。エペソ書2章11以下で教えられるように、以前は「隔ての中垣」というものがあった。異邦人は唯一の神を礼拝に来ても、その中垣を越えられなかった。しかし、イエス・キリストは十字架によって差別を撤廃され、異邦人キリスト者も聖徒たちと同じ国籍の者となった。 
 しかし、今すぐにあらゆる意味での囲いを外してしまうなら、羊は散り失せてしまうであろう。旧約の時代のことを言えば、主の民が囲いの中に置かれ、律法を課せられていたことには意味があった。それはなくなったが、今でも他の意味の囲いは残っている。 
 今日でも、主の民はある意味で囲いに入れられているのだ。すなわち、個々の教会の秩序の中に入れられている。我々は東京告白教会という囲いの中にいる。そして、もう少し大きい東京中会という囲いがある。さらに、もっと大きい日本キリスト教会という囲いがある。さらに、十分機能しているとは言えないが、世界改革長老教会連盟という緩い囲いに入っている。 
 それらの教会秩序に問題がないわけではない。「主の教会」と呼んではならない群れになりはてている場合すらある。それでも、「私は私の教会を岩の上に建てる。陰府の門はこれに勝つことは出来ない」と言われた主イエスのお言葉は尊重されなければならない。そこで、これらの囲いによって、キリストの民の群れは整えられて、終わりの日に備えている。 
 また、終わりの日には一人の羊飼いになるのであって、今、牧者と呼ばれている人たちの務めはその日にはなくなる。エレミヤ書31章34節には、「人はもはや各々その隣とその兄弟に教えて『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまでみな私を知るようになるからである」と書かれているように、「主を知る知識が地に満ちる」その日には教え諭す人は要らなくなるのだ。しかし、その時までは、この務めは必要なのだ。 
 この囲いにいない他の羊について主は、「私は彼らをも導かねばならない」と言われる。誰かがその群れを私のもとに連れて来るであろうというのではない。主御自身が導きたもう。 
 「彼らも私の声に聞き従うであろう」。すなわち、4節で「羊はその声を知っているので、彼について行く」と言われたのと同じことが囲いの外でも起こるのである。羊は羊飼い自身によって、あるいはその代理人によって、「これこそが真の牧者の声だ」と教え込まれるのではない。どうして知っているのかを詮索しても無駄である。「私は憐れもうとする者を憐れみ、頑なにしようとする者を頑なにする」と宣言される通り、その理由を問うても「私がそのように欲したからである」という以上の答えはない。 
 また、6章44節で「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と言われたように、全く自発的に、自力で来る者は一人もいない。だから、ユダヤ人と異邦人の区別なく、キリストの声を予め知らされていた人でなければ来ない。ただ、誰が主の声を予め知らせられていたかは、主の知りたもうことであって、我々には分からない。 
 では、「ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と言われるのは、何を指すのであろうか。それは終わりの日の完成を指すのであるが、全き意味での完成はその時まで来ないとしても、完成は我々には約束されている。だから、約束されたことは既に成就したと同じだと見ても良い。 
 群れが一つになるとは、キリストの民のうちに差別や序列がないという意味である。旧約のイスラエルは12の支族からなり、それは一人の父から出た故に原則的には平等であったが、実際には序列がつけられた。キリスト教会の初め、ユダヤ人キリスト者を優位な地位に置こうとする動きがあったが、これは間もなくなくなった。今でもキリストの民の間に格差を設けようとする動きが何かにつけて出て来るが、謂れのないものである。そういうものはたとえて言えば庭に生えて来る雑草のようなもので、しょっちゅう抜いてやらなければならない。 
 「一つの群れ」の約束が完全に成就したとは言わない方が良いであろう。群れは様々に分裂している。一つの群れという努力目標を掲げることは間違いではないが、その努力に自らの目が眩み、形の上での一つを本当の一つだと思い込み、却って分裂と相互不信とを深めている面もある。 
 悔い改めをないがしろにし、十字架を負って主のみあとに続くことを無視し、それでいながら、キリストの教会であると言い抜けようとする風潮が強い。 
 それでも「一人の羊飼い」ということは実現しており、それが実現していることを我々は強く主張しなければならない。「一つの群れ」ということが重んじられる割には、「一人の羊飼い」ということは、言葉だけが踊っていて、真剣に追求されていないように思われるのである。つまり、自分が羊飼いになろうとする人は少なからずおり、それは必ずしも野心に駆られた業ではないのであるが、牧者が牧者らしくしようとすればするだけ、本当の唯一の牧者がハッキリ見えて来なければならないはずであるのに、そうならないで終わっている場合が多過ぎるのである。だから、牧者たちがそれぞれに努力し、尊敬を集めても、その尊敬がキリストにまで上昇しないで、牧者個人がよくやっているという賞賛で停まってしまう。どういうことかと言うと、人間としての行き届いた配慮は結構なのだが、大事なのは大牧者の声を聞かせることなのだ。羊たちは大牧者の噂は聞いているがその声は聞かされていない。 
 さて、17節に、「父は私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである」と言われるのを聞いて、前の節との繋がりが捉えがたいように感じる人がいるかも知れない。 
 しかし、「ただ一人の牧者」ということと「命を捨てる」こととが結び付くのである。 
 すなわち、我々のために命を差し出す牧者は一人しかいない。その一人の牧者においてこそ全ての群れが一つになる。 
 良き羊飼いになろうと真面目に考えて努力している牧者は必ずしも少数ではないけれども、その牧者の努力によって、却って真の大牧者の姿がかすんでしまう場合があると言った。そのことと、今学ぶこととが深く関わっているのだ。教会の牧者たちは唯一の大牧者が羊たちに良く見えるように、その御声が良く聞こえるように働かなければならないのだが、それは、主の死を良く示しているかどうかに懸かっていることなのである。 
 だから、十字架の言葉が明瞭に的確に語られているかどうか、と言っても良いであろう。「お優しいイエスさま」でなく、十字架につけられた主が示され、リアルに感じられなければならない。 
 17節に、「父は私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さる」という言葉があるが、これを誤解しないようにしたい。うかつに読むと、キリストが羊のために命を投げ出される、その犠牲的精神を愛でて、その褒美に、父が彼を愛したもう、と言われているかのように取られてしまう。国のために命を投げ出した人を国が表彰するのと同列に取られ勝ちである。だが、ここではその意味ではない。 
 15節で、「それは丁度、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。 
 そして私は羊のために命を捨てるのである」と学んだ。それと17節は同じことなのである。父と子の間には、互いに「知る」という関係があるのだが、その「知る」はまた、互いに「愛する」という関係である。愛における完全な一致に基づいて御子は命を与えたもうのである。 
 羊飼いは羊を知っており、羊も羊飼いを知り、だから羊は羊飼いについて行く。これはまた愛することでもある。それは父と子の間の愛の関係のように完璧ではない。羊の側には罪があるからである。それでも、御父と御子の間の愛に似た愛の関係が羊飼いと羊の間にあって、その愛の故に羊飼いは羊のために命を捨てる。それは単に羊飼いと羊の間の愛の関係を表わすだけでなく、父と子の愛の関係の緊密さを反映しているのである。「神は愛なり」と言われる。だから、愛の神はキリストにおいて愛をその死によって示したもうのである。 
 次に「命を捨てるのはそれを再び得るためである」と言われる。命を投げ出してそのまま帰って来ないことを覚悟するというのと違って、復活を予見しておられる。それも単なる予見でなく、先取りである。すなわち、復活が死に対する勝利であるに留まらず、死そのものがすでに勝利なのである。 
 11章で学ぶことであるが、主は「私は甦りであり、命である」と言われる。命の君がどうして死ぬのか。と疑う必要はない。死は彼にあっては勝利だからである。 
 我々の理解力が貧困であるため、死がすなわち勝利であると言われても理解することが出来ないから、死んで三日ののちの復活を一つ一つ切り離して理解する。また、父と子の完全な愛をそのまま受け入れるのが困難である場合もあるから、御父と御子を対比させて捉えて、御子が全き服従を捧げたもうた、というふうに理解する。その理解が間違っているのではないが、十字架においても、いや十字架においてこそ御子の栄光が輝き出ていることに目をそむけてはならないのである。 
 

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