◆説教2002.1.20.◆

ヨハネ伝講解説教 第103回

――ヨハネ10:14-15によって――

 
 14節の「私は良い羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊はまた、私を知っている」というみ言葉、これはすでに一度語られたことと同じ内容である。すなわち、「羊の名を呼ぶ」という言い方が3節にあったが、これは当然、名を知っていることを前提にしている。また、4節で「羊はその声を知っている」と言われた。 
しかし、「声を知っている」、「名を知っている」ということと、羊飼いそのものを知っている、また羊そのものを知っているということとは、区別した方が良い場合もあろう。確かに、今日教えられるのは、その人の何かを知ることではなく、その人そのものを知ること、つまり内的な交わりを持つことである。 
先に「声を知る」というところで用いられた「知る」という言葉と、14節で使われる「知る」とは、日本語では同じ言葉に訳しているが、ギリシャ語では別の言葉である。この二つの言葉の違いを取り立てて論じる人がたくさんいるが、用語の違いがそれほど大きいものであるとは思われない。福音書記者ヨハネが文書の全体にわたって「知る」という言葉を二つ意識的に使い分けていることは事実である。言葉の意味の違いは確かにある。けれども、羊が羊飼いの声を知るのと、羊が羊飼いそのものを知ることとは、動詞の違いとして説明しなくても、事柄が別であることは容易に理解されるであろう。 
「その声を知る」とは、他の人の声と区別することが出来るという意味である。それは知っているということの一部であって、どうでも良いことではない。けれども、大切なのは、内的な交わりの絆があることである。キリストと我々との交わりは、表面的な何かについての知識を持っていることではない。「知る」という言葉は聖書によく出て来る言い方であるが、神がイスラエルを知りたもうのは、イスラエルを何かの点について知るのでなく、その全体、その存在を知りたもうことを指すのである。声を知っているだけでは、声色を真似る悪人が来た時、見破ることが出来なくて、欺かれるであろう。 
羊が本当に羊飼いを知っているならば、声だけでなく、人格全体の雰囲気を知っているのである。 
そういうわけで、「私は私の羊を知る」という場合の「知る」を、別の言葉で言うならば、「愛する」という言葉を持って来ても良いであろう。羊飼いが羊を知るのも、羊が羊飼いを知るのも、愛することである。愛については後でまた触れるが、羊飼いが羊を知るのは、言い換えれば愛することであり、愛するとは、羊のために命を捨てることである。友のために命を捨てること、「これより大きな愛はない」と言われる。また、「羊が羊飼いを知る」という場合は、「信ずる」と言い換えて良い。「交わりを持つ」と言っても良い。 
17章23節に、「私が彼らにおり、あなたが私にいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたが私を遣わし、私を愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」という主イエスの祈りが記されるが、ここで言われていることは今日学んでいるところと多くの点で共通している。――今日は16節には触れないが、16節が無関係に挿入されたように感じられるかも知れないが、そうでなく、今引いた17章23節の「完全に一つとなる」がここで言われているのである。 
ヨハネは第一の手紙の1章3節で「私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と言うが、「父ならびに御子イエス・キリストの交わり」と訳されているのは、御父と御子の交わりがあって、その交わりに信ずる者たちが入れられるということを言う。このように、父なる神とキリストとの交わりがあって、その交わりに我々が入れられるのである。 
今の時代、「知る」ということの意味がますます浅薄になって行くのに気付いて、我々は憂えている。人々はこの複雑化した社会に生きるために、余りにも多くのことを知らなければならなくなったためであろうが、一つ一つのことについての知識も理解も掘り下げが著しく不足し、取り分け、最も大事な知るべきことについては知ろうとしないし、考えて見ようともしない。主の民の中にさえこの風潮が侵入して来て、交わりが浮薄になり、表面的になって、人と人との間の深い理解がなくなっている。我々自身にもそういう傾向があるのだから、この風潮を悲憤慷慨しても意味はない。我々は御言葉に聞いて、我々に与えられている恵みの深さ・確かさを良く捉えなければならない。 
今日学ぶ箇所での重要な点は、14節と15節の重ね合わせにある。「それはちょうど……と同じである」と言われる。これは単なる比較による説明ではない。我々がキリストを知るその知の基本構造、また根源を示すものと受け取らなければならない。すなわち、羊飼いと羊との交わりが、父なる神と子なる神との交わりの奥義に支えられており、またそれと固く結び付いているというのである。 
「それはちょうど、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」と主は言われる。父が私を知り、私が父を知ること、この交わり、それが原型、あるいは基礎となって、その基礎の上にキリストと我々との交わりが成り立つ。 
その交わりは、ここでは双方から「知る」ことだと言われるが、我々の側からは「信ずる」こと言えば分かり易い。キリストの側からは、「御自身を与えたもう」と言うのが最も適切ではないであろうか。 
御父と御子の結び付きは永遠なるものであるから、そのように我々のキリスト認識またキリストとの交わりも永遠なのである。羊が一時的に羊飼いの姿を見失うことがあるとしても、それはあくまで一時的であって、見失ったものは必ず見出される。「私を遣わされた方のみこころは、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」と主イエス御自身、6章39節で言われた。一人も失なわれないこの確かさは、キリストが私を捉えておられる確かさだと言っても良いが、キリストを遣わされた方と遣わされたキリストとの結び付きが永遠であることによると理解した方がより確かであろう。 
すでにヨハネ伝の冒頭において「言葉は神と共にあった」と言われたが、この「言葉」とは父の独り子のことである、とヨハネ伝の序文は言明している。「永遠の父と独り子なる神との結び付き」というような言い方は味気なく、何の興味も感じない人がいるかも知れない。しかし、ここに我々の救いの確かさがあり、同時に、ここにこそ救いの理解への近付き易い道がある。 
近付き易い道と今言ったが、少しも近づき易くないではないかと疑問に感じる人もあろう。だから、人間は一人では立てず、人と人との交わりが必要だという所から話しを始めれば分かり易いのではないか。すなわち、交わりが真実であるためには何が必要であるかを論じ、キリストと私との交わりに進み、そこからキリストと父なる神との交わりへと深まって行った方が分かり易いのではないか、下から上へ行くべきではないかと考える人の方が多いであろう。 
分かり易いように感じられるということはその通りかも知れない。しかし、分かり易そうに見えても、この理解の道は忽ちに行き詰まって瓦解するのである。すなわち、人と人との交わり、相互理解は、なければならないものであるが、実際は理解を求めても求めても、無理解に終わり、裏切りになり、善意であるつもりでも誤解になり、交わりを追求して孤独を味わう結果になる。人と人とが交わり、知り合うことは幻影なのだ。人と人との交わりから出発しようとしても、出発点そのものに行き着くことがない。上から出発した方が良いのではないかということになる。 
ところが、「父が私を知り、私が父を知る」と言われても、理解出来ないし、そこから出発することは途方もなく困難ではないか。確かに、「父が私を知り、私が父を知る」ということは、考えても考えても分からないであろう。これは考えて分かるというような種類の問題ではなく、啓示によって示されるものである。我々はその啓示を受け入れるはかない。 
では、理解できないままで鵜呑みにするほかないのか。そうではない。信ずるところには理解が伴う。信ずれば分かって来るのである。だから、理解を求める祈りが必要である。神は石に刻むようにして言葉を押しつけたもうのでなく、聖霊を与えることによって信ずる者を内面からの理解に導きたもう。 
「羊飼いが羊を知り、羊が羊飼いを知る」という相互関係と、「父なる神がキリストを知り、キリストが父なる神を知る」という相互関係との、深い結び付きが理解されなければ、我々の信仰は試練に際して十分堅固に持ちこたえられないかも知れない。もっとも、その理解が足りなくても、「私の父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、私はその人々を終わりの日に甦らせるであろう」と主イエスが6章40節で言われた通り、主イエスはその羊を一人残らず救ってくださるであろう。だから、救いに関する知識が不十分であることについて、不安にならなくて良いのである。それでも、キリストの羊が一つも洩れなく終わりの日に甦らせられることが、御父と御子との間で定まっている事実を知らされているのに、それを知ろうとしないのは確かに怠慢である。 
「羊飼いが羊を知り、羊が羊飼いを知る」という相互関係と、「御父が御子を知り、御子が御父を知る」という相互関係とは、譬えを借りるならば、表裏一体と説明される。 
「羊飼いが羊を知る」という方が普段は表に出ている。これだけで一応用が足りると言っても、間違ってはいない。だから、主は「私に来なさい」、「私を見なさい」、「私を知りなさい」と言われる。そして「私を見た者は父を見たのである」と言われる。私を見たならば父を見るには及ばないのである。つまり、子を見ることによって父を見なくても御言葉を信じたのであり、5章24節で聞いたように、「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる者は、永遠の生命を受ける」のである。 
17章3節では、「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを信ずることであります」と言われるのであるが、父を信ずることと御子を信ずることとが結び付かねばならないのである。御子が与えられたからといって、御子にだけ飛びついて、それで全てであると思ってはいけない。御子を知り、次に御子を遣わしたもうた御父を知らないわけには行かない。 
さて、内的な交わりということに関して、もう一つ触れて置かねばならない点は、6章44節で、「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来る来ることは出来ない」と言われ、次の節で「父から聞いて学んだ者は、みな私に来る」と言われている点である。御子イエス・キリストの持っておられる魅力によって人々が引き寄せられるのではないという事情が説明されている。 
我々がキリストに来ざるを得ないように、キリストを遣わしたもうた父なる神は我々を引き寄せたもうたのである。父と御子との関係が謂わば裏であって、御子による啓示が表のようなものだと一般に理解されているが、それで一応良いとしても、御子による啓示があっても、来ない人は来ない。父が見えざる・力ある手で、引き寄せたまわなければ、誰も来ないのである。本人が求める・求めないに関わりなく、それを越えた力によって来させられるのである。謂わば、裏が表になる。救いの御業は我々の思いを越えて深いのである。 
この事情は今日は詳しく論じないが、キリストが我々に呼び掛けたもう以前の、永遠のはかりごとがあったのである。エペソ書1章4-5節に、「天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び、私たちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨の宜しとするところに従い、愛のうちに予め定めて下さったのである」と言う言葉がそれである。選びや予定をここに垣間みることが出来る。 
15節の後半に「そして、私は羊のために命を捨てる」と言われる。これも12節ですでに聞いた言葉である。 
12節で「羊飼いが羊のために命を捨てる」と言われたのは、一つには贖罪の死を言うものであり、また二つにはキリスト教会の牧者が雇い人のようではなく真の牧者に見習って、危険に際しても逃げることなく、羊のために命を捨てる者にならなければならないことを暗に示すものであった。 
今挙げたうちの第二の意味は、15節には含まれていないと見て良いであろう。15節の「命を捨てる」は、17節の「父は私が自分の命を捨てるから私を愛してくださる」と結び付くものである。御子のこの世への派遣は十字架の贖いの死のための派遣であった。キリストの十字架の死は神の計画が反逆の民に妨げられて挫折したことを示すものではなく、むしろ永遠の計画の成就であった。 
この羊飼いは「羊のために命を捨てる」と言われる。主イエスが道半ばで殺されたというのではなく、羊のために命を捨てることによって目的を達したもうことを言う。主イエスがこのことを語っておられる箇所として思い起こされるのは、15章13節である。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。 
これは我々が友のために命を捨てるという意味も含むが、先ず、主御自身が我々のために命を差し出し、それによって神の愛を示したもうことを語っている。そこでは、主は我々のことを「友」と呼んでおられる。その解説として、「あなた方に私が命じることを行なうならば、あなた方は私の友である」と言われる。 
その次に、御自身が友のために命を捨てたもうたことに倣うように勧めたもう。このことをヨハネの第一の手紙の第3章16節は言う。「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った。それ故に、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」。愛を知った者は、知ったことによって愛を行なう者となるのである。 
「命を捨てる」という言葉は、日本語では大抵こう訳されるのであるが、捨てるとは放棄することであるが、不要になったから捨てるという意味に取られるかも知れない。そうでなくて、これは「置く」、「与える」、「差し出す」の意味である。羊のために、という目的が明確である。 
今日は「知る」という言葉が、「愛する」とか「交わりを持つ」という言葉に置き換えられると学んだが、その一連の言葉の置き換えとして、「命を捨てる」こと、すなわち、命を差し出して交わりを結ぶことを考えて良い。勿論、これは羊飼いが羊のために命を差し出す場合にのみ言えることで、羊が羊飼いに命を差し出すことも、御父が御子に命を差し出すこともない。しかし、キリストと我々の交わりを最も深い意味で言い表す。 
 

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