◆説教2002.1.13.◆

ヨハネ伝講解説教 第102回

――ヨハネ10:12-13によって――

 
  主イエスは11節で「良き羊飼い」について述べた次の節で、これと対照的な「雇い人」の比喩を上げたもう。この「雇い人」は誰を譬えたものか。これまで見て来たところから考えると、これは9章からの続きであるから、権威ぶっているパリサイ人のことではないかと先ず思いつく。ここまでに「門」という比喩、「羊飼い」という比喩があったから、それと対照される「偽りの門」、「偽りの羊飼い」、あるいは「門でない所を乗り越えて出入りしようとする盗人」と同じ者の比喩ではないか。彼らはユダヤ人の教師、律法学者である。しかし、「雇い人」である羊飼いが、自分を守るために羊の群れを捨てて逃げるという譬えが律法学者のどういう行為に当てはまるのかと問われると、良く分からない。それとともに、ここではもう一つ、後の世のキリスト教会の牧師に対する警告の意味が籠っているとも考えられる。 
キリストの教会が羊の群れになぞらえられることは新約聖書の多くの箇所で読まれる通りである。その羊の群れを荒らす狼に対して警戒すべきことを、主イエスはマタイ伝7章15節で語っておられる。「偽預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなた方の所に来るが、その内側は強欲な狼である。あなた方は、その実によって彼らを見分けるであろう」。このお言葉は今日の学びと何かの関連があると見るべきであろう。 
主がそこで言われた「偽預言者」とは、旧約にも新約にも登場するものであって、「偽教師」と言い換えても良い。「偽預言者」というものは、一見本当の預言者のような語り方をし、語る内容も神の託宣らしく思われるのであるが、神が語っておられないのに、自分の思いや夢を語って、「主なる神はこう言われる」と教えた。旧約の歴史は、或る意味では、預言者と偽預言者の戦いの歴史であったと言えそうである。主の民は主の羊である故に、主の声を聞き分け、偽預言者を斥けて、主の声を語り伝える預言者に聞き従って来た。それは「イスラエル」と呼ばれる民族のうちの極く少数の者であったが、とにかく、その少数者によって神の言葉が聞き続けられ、神の民の歴史が持続された。 
新約の教会の歴史もそれと似ている。いや、一貫している。教師と偽教師との戦い、その戦いを通じて真理が明らかにされることが、或る意味で新約の歴史の根幹である。それは先にマタイ伝7章から引いた主イエスのお言葉から容易に読み取れるところである。同じように、パウロも使徒行伝20章29節以下で、「私が去った後、狂暴な狼があなた方の中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らすようになることを私は知っている。また、あなた方自身の中からも、いろいろ曲がったことを言って、弟子たちを自分の方に引っ張り込もうとする者らが起こるであろう。だから、目を覚ましていなさい」とエペソの長老に最後の勧告を行なっている。 
パウロは「目を覚ましていなさい」と言ったが、目を覚ましておれば、主の羊は主の声を聞き分けることが出来るのである。目を覚ましていなければ、聞き分けられなくて、真理から外れた言葉を追い掛けることになり、ついに破滅に陥ってしまうというわけである。この「目を覚ましておれ」というのが、主イエスも屡々語られた言葉であって、キリスト者にとっての一般的な激励の合言葉だということを我々は知っている。「もっとチャンとした識別眼を持て。もっと深く学べ」とけしかけることも出来るであろうが、「目を覚ましておれ」と言うのが本来の励ましなのだ。すなわち、「あなた方はすでに主の羊なのだ。主の羊は主の声を聞き分けることが出来るのだ。眠り込みさえしなければ、聞き分けられるのだ」と言われているからである。ヨハネは第一の手紙の2章24節で、「初めから聞いていたことが、あなた方のうちに留まるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなた方のうちに留まっておれば、あなた方も御子と父のうちに留まることになる」と言うがそれと同じである。 
では、どうやって本物の預言者を偽者と見分けるのかについて、二つの項目が教えられている。一つは、先のマタイ伝の言葉の中にある「その実によって彼らを見分けるであろう」とのお言葉である。口ではひとかどのことを言っていても、行ないで馬脚を現わす場合があるということは、広く知られている人生の知恵であるが、主の言われた実とは、単なる良い行ないではない。主はヨハネ伝15章5節で、御自身を葡萄の木に譬え、御自身を信ずる者を葡萄の枝に譬え、枝が木に結び付いておれば、きっと豊かに実を結ぶのだと言われた。その実である。 
見分けるためのもう一つの点は、その人の語る「教え」である。主から伝えられたままの救いの言葉が正しく語られているかどうかである。ヨハネの第二の手紙9節に「全てキリストの教えを通り過ごして、それに留まらない者は、神を持っていないのである。 
その教えに留まっている者は、父を持ち、また御子を持つ」と言う。 
ところで、「教えについての判定は、高度な知恵と知識を必要とするものであるから、一般の信者は関与出来ない」という見解がかなり広く行き渡っている。だが、これは違う。「羊は羊飼いの声を知っているので彼に随いて行く。ほかの人には随いて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」と言われた主の御言葉によって考え直さなければならない。 
少し言葉が過ぎるかも知れないが、偽教師、あるいは確信を持たない教師は、自分に向けられる批判の矛先をかわすために、「主の教えを語るように任命され、その務めのために教育を受けた者でなければ、何が主の教えであるかも分からないではないか」と言う。一見もっともらしく聞こえるかも知れない。じっさい、「主の教えが正しく宣べ伝えられているかどうかを検討しなければならない」と言っている者が、自己顕示欲に駆られるだけである場合も少なからずあるのだから、各自はへりくだりの修練を忘れてはならないのである。けれども、「私の羊は私の声を知っている。ほかの人には随いて行かないで逃げ去る」と言われた主イエスの御言葉をシッカリ心に刻もう。我々がキリストの言葉を受け入れ、自らをキリストのものとして表明した初めの日に、主の声が我々のうちに謂わば刷り込まれたのである。先ほどヨハネの第一の手紙2章で聞いた通りである。キリストの民の心は白紙ではない。何でも書き込みが出来るのではない。 
だから、教えのどこがどう違うかについては、十分説明が出来ないとしても、「これは主の御声ではない」、「これはヘンだ」ということは極く極く素朴な信徒にも分かるのである。この見分ける力は、長年掛けて精進して積み上げて来たものでなく、キリスト者となった初めの日に主から注ぎ入れられたのである。 
さて、今、主イエスが「まことの羊飼い」と「雇い人」とを比較しておられるのは何のためか。一つは教えに関する警告である。間違った言葉を受け入れさせないための注意である。「羊飼いは羊のために命を捨てる」と主は言われる。御自身の命を捨てて下さる方こそが我々の救い主であるという教え。すなわち、十字架の贖いの教え。この教えを説かない教師は、どんなに分かり易いまた有り難い説教をしてくれても、偽者であるという意味がここに籠められている。 
第二にその「実」によって見分けられるその実、これが大切であることを知らせるためである。教師は言葉を託されるのであるから、間違いのない教えを伝えなければならない。教師は行ないによって感化を与えるのではないが、それでも、御言葉を宣べ伝える者が実を結ぶことをなおざりにしてはならない。この実は「良い行ない」というのとはいささか違う。行ないと言うよりは姿勢である。狼が襲って来る時に逃げてしまう羊飼いは、羊飼いではなく、雇い人である。ここに羊飼いと雇い人が対照的に描かれているが、雇い人も機能的には羊を飼うことをしていたので、ちょっと見ただけでは見分けがつかなかった。狼が襲って来たというような時になってはじめて、本物の羊飼いか、それとも偽者であるかが明らかになるのである。 
ところで、主イエスが他の箇所でこれと類似の譬えで語っておられる場合の「狼」は、すでに見て来た通り、キリスト教会に入り込んで来る偽預言者、偽教師、異端の指導者、主の羊をあらぬ方向に導いて行き、救いを得させないようにする者である。しかし、この12節で雇い人の守っている羊の群れに襲い掛かるのは、偽教師である場合もあるだろうが、それよりもむしろ教会を暴力的に壊滅させるローマ帝国の権力である。 
主の予告された通り、教会に対するローマ帝国の大迫害が間もなく始まり、4世紀まで続いた。その間に教会の牧者や信徒が数多く殺された。主の命令であるから、羊の群れを守って毅然として殺された牧者は多い。しかし、信徒が殺されているのに、逃げて生き延びた牧者もいたことは事実である。これは迫害の止んだ後の教会にとって大問題であった。 
主が譬えとして挙げておられる「雇い人」としての羊飼いは、その時代には珍しいものではなかった。元来、神に選ばれたイスラエルの民は、代々、天幕に住まって自分の羊の小さい群れを自分で飼って、生産性の低い、財産の増加の余りない、つましい暮らしのうちに一生を送ったのである。ところが、条件に恵まれると羊の群れは増える。また、稀に才覚のある人が財産をうまく運営すると財産が増える。これはアブラハムの生涯においても、特にハランにいた頃のヤコブの行動においても見られたことである。羊が増え過ぎると草を食い尽くして、草地は砂漠になって回復出来ず、豊かな生活は自滅するので、余り増え過ぎないよう羊の数が調節されたようである。それでも群れは大きくなる。群れが大きくなると、一人の羊飼いでは手に負えなくなるから、人を雇う。あるいは羊飼いが身体的にその作業に耐えられなくなると、人を雇ってやらせる。「羊が自分のものでない雇い人」と12節に言われているように、雇い人は確かに主人ではない。 
主人の代行者である。 
「良き羊飼い」と言われたのであるが、それと対比される「雇い人」は必ずしも「悪い雇い人」ではない。狼はつねに悪い狼であるが、雇い人は必ずしもつねに悪くはない。 
すなわち、この譬えには省略があって、狼が来ても逃げないで狼をやっつける良い雇い人もいるということは省略されている。また、忠実な雇い人がいなければならないということは暗黙のうちに言われている。ただし、良い雇い人であっても、彼にとって羊は自分のものではない。彼は羊を守って狼と戦って死ぬことがあるとしても、主人が死によって羊に命を救ったのとは同じでない。彼は雇い主に忠実であった。羊を愛したではあろうが、羊を愛したから死んだのではなく、雇い主を愛したから死んだのである。 
まことの羊飼いなる主とその羊の間には特別な関係がある。羊は羊飼いの声を知っていて随いて行く。この先で、26節で学ぶことであるが、ユダヤ人に対して主イエスは「あなた方が信じないのは私の羊でないからである」と言っておられる。 
ヨハネ伝の最後の章で学ぶのであるが、復活の主イエスはペテロに「私の羊を飼え」と三度も重ねて命令しておられる。その箇所は今日学んでいる箇所を解釈する鍵になっている。すなわち、主イエスはペテロに、繰り返し「私を愛するか」と確かめておられる。教会の牧者は、謂わば雇い人のように、雇われてその仕事を請け負うのであるが、それは雇用契約、就職手続きというものではない。キリストへの愛の故にキリストの御事業に参与するのである。主イエスがペテロに「命を捨てよ」と命じられたことはなかった。ペテロがどのような死を遂げるかを主は予告されたが、それは、命令による強制や不自然な拘束ではなく、多く赦された者が多く愛する故に、主を愛さざるを得なかった者の極く当たり前の成り行きであった。 
この雇い人の譬えは、この後の教会の仕え人の職務を示唆するものであることは多くの人が気付いている通りである。雇い人だから逃げ出すのが当然であるとか、逃げ出しても已むを得ない、という意味をここから読み取るべきではない。主の羊は主のものとして全うされなければならないから、主の民を全うさせるために立てられた務めは手抜きなしで完遂されなければならない。 
託された群れを捨てて逃げる雇い人の牧者が、本当の牧者と言えないことは確かである。しかし、その雇い人によって草原に連れて行かれて草を食べた羊が、本物の羊でないということになるであろうか。偽預言者によって神の言葉でないものを神の言葉として受け入れた者が、それに従って行くことによって滅びに陥るのは当然であるが、雇い人は必ずしも偽教師ではない。すなわち、伝えるべき神の言葉は足しても引いてもならない文書になっているからである。 
雇い人に過ぎない者が、羊に間違いなく草を食べさせることが出来るかどうか。危険に際して羊を見捨てて逃げるような者は、主を愛していないのだから、そのような者に主の教えを正しく伝えることが出来るのか、と問われるならば、質問者を納得させるだけの答えは難しい。しかし、逃げ出す人かそうでないかは、狼が来る時までは分からないのである。人の目には隠されているのである。隠されていることを詮議立てしても始まらない。いざという時に逃げるのではないかと見られていた人が逃げなかったり、強気のことを言っていた人が真っ先に逃げるというような現実があるのであるから、まだ起こっていない事態について議論しても疲れるばかりで実りはない。だから、ハッキリした証拠がない限り、御言葉の青草に連れて行ってくれた雇い人の務めは、信ずる者にとって決して無駄でなかったと言い切って良いと思う。 
ただ、「牧者」という務めを帯びている者はここで多くのことを考えねばならない。先ず、自分が本当の意味での羊飼いでなく、主によって雇われて務めについているに過ぎないが、雇い人だから逃げ出しても大目に見てもらえるというふうには考えないようにしよう。――たしかに、全ての罪は悔い改める時に赦されるのである。だから、羊の群れを見殺しにして逃げた牧者でも、真実に悔い改めれば赦される。これがキリストの福音である。その赦しの確信のない者には福音の宣教は出来ない。 
ではあるが、そのことを理由に、牧者は羊を草にありつかせさえすればあとは何をしても良い、と開き直るなら、これはふてぶてしい開き直りであって信仰ではないから、罪の赦しに至ることはない。「いと小さい一人を躓かせる者は、石臼を首に掛けられて海の深みに投げ込まれる方がまだましである」と主は言われたが、羊を捨てて逃げ出すことが、小さき者を躓かせることになるのではないかと考えて見る意味は大いにある。 
「いと小さき者の一人を躓かせる」、このことが人々の考えるより遥かに大きい罪であることについて、主は注意を喚起しておられる。そこで、クリスチャンの間では、ちょっとしたことが躓きになる事情について人を戒める習わしがある。確かに、善意で語った言葉でも躓きになるのであり、その責任が問われる。 
しかし、群れを捨てて逃げるという種類の作為、あるいは不作為が引き起こす躓きは小さくないであろう。狼が襲って来ているのに牧師が逃げてしまう、または実質的に逃げたのと同じことになる沈黙に陥る、あるいは沈黙こそしないが肝心の点では言葉を濁す、このようなことによって小さき者を躓かせた実例は、例えば戦争中たくさんあった。 
このことに教会の中では余り気が付いていないが、教会の外では気が付いている人がいる。そして、何よりも教会の主がそのことに目をつむっておられる訳ではない。今はどうなのか。 
雇い人は雇い入れの条件を満たせば上々なのかも知れない。しかし、キリストを愛する故にキリストに倣うものとなり、託せられた羊の群れのために最善の奉仕をしなければならない。 
 

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