◆説教2002.1.06.◆

ヨハネ伝講解説教 第101回

――ヨハネ10:11-21によって――

10章の初めに、主イエスは羊の門と羊飼いの組み合わさった譬えを語りたもうた。次に、7節で「この門は私である」と教え、続いて11節では、「羊飼いは私である」と説明された。門という譬えによって、羊の出入りするのは唯一そこだけであり、羊のもとに羊飼いが入ってくるのも唯一そこを通してだけであると言われた。 
門の譬えには二つの面にわたって注意を喚起する意図が含まれている。羊たちはそこからのみ出入りし、そこ以外から出入りしてはならず、そこから出入りしてこそ救われまた生きる。正規の羊飼いもそこからのみ出入りし、それ以外のところから出入りするのは、みな盗人であり強盗である。したがって、我々は第一に、自分たちの出入りすべき唯一の門、出処進退の原理、あるいは行動力の源泉がキリストであること、すなわち、逆に言えば、キリストによらずに自分勝手に思いついたり、あるいは外の声にうかうかと乗せられて、門以外の所から出入りしては、破滅であることを弁えさせられる。 
第二に、その反面であるが、門以外のところから出入りする者は受け入れてはならないと教えられる。「私よりも前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった」。この門から入らない者とは、言葉通りにとればキリスト以外の者全部ということになるが、キリストがご自身の名によって遣わされない者は全部と解釈した方が、主の意図にかなうであろう。 
さて、「私は良い羊飼いである」と宣言したもう。「良い」という言葉はいろいろな意味に取ることが出来るが、この宣言は先ず前の章との続きとして解釈するのが正しい。 
パリサイ人たちは宗教的権威を盾にとって、盲人だった人をさんざんにいじめた。彼らはイスラエルの指導者のつもりであった。彼らもイスラエルの唯一の牧者が神であることを知っていたはずであるが、神の言葉を人一倍研究している自分たち律法学者は、一般民衆に対しては羊飼いなのだという使命感を持っていた。彼らは、主イエスによって目を開かれた人が、自分を癒してくれた人を悪人であるとはどうしても考えることが出来ないと言い張るので、これを呪詛して、イスラエルの共同体の中から追放する判決を下した。これはもはや神の羊ではないと断定したのである。パリサイ人たちがそういう判定をしたのは、安息日に何の業もしてはならない、との律法の規定に主イエスが外れたことをされたという理由によるのであった。 
9章の終わりで、主イエスは彼らに言われた、「もし、あなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある」。彼らが律法について人よりも良く知っていると自認しなければ、彼らの罪が問われることはなかったであろう。ところが、彼らは「律法とその解釈について人よりも遥かに良く学んでいるから、人には見えないところも自分たちには見えるのだ」との気負いを持っていた。「民の羊飼いなのだから、自分たちには見えなければならない、また見えるのだ」という気負いが、彼らを見えなくさせていたのである。それが悪しき羊飼いである。 
第二に、良い悪いの評価の問題を離れて、したがってパリサイ人との比較というような中途半端なことは考えず、単純に、本来「羊飼い」とは何かということを見たい。つまり「羊飼い」について理解すべき基本である。 
ダビデが詩篇23篇で「主はわが牧者」と告白したように、またイザヤが40章11節で、「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊を抱き、その懐に入れて携え行き、乳を飲ませているものを優しく導かれる」と言ったように、主なる神こそが本来の羊飼いであるというのが聖書の示すところである。すなわち、「善き羊飼い」と言うのは、マルコ伝10章18節で主イエス・キリストが「善き者は神の他にはない」と言われる通り、「善き者」と呼ぶに真に価する唯一のお方である神ご自身が、羊飼いになりたもうたという意味である。もっとも、マルコで使われている「良い」とヨハネ伝のここの「良い」は別の言葉である。しかし、その違いを無視して良いと思う。 
ダビデが歌ったのはまことに素朴な神信頼であり、神への信頼の典型がそこに示されている。ところが、イスラエルの長い歴史の間で、本来神にあった牧者の任務が人間によって代行されるという思想が育ち、その務めを持つ人を牧者、羊飼いと呼ぶ慣例になったのである。これは必ずしも間違った考えによるのではない。神の或る意味の権能が一部分、神の立てたもうた人間に委託され、代行させられるということは、確かに御旨に適って遂行されたのである。だから、王たち、司たちを「牧者」と呼ぶのはイスラエルにおいて通例のとこであった。 
ただし、牧者と呼ばれる者たちの実情が、そう呼ばれるに価するかどうかは全く別問題である。列王紀を読んで見るならば、そこに牧者と呼ぶに相応しい王は殆ど出て来ないことを我々は知らないではおられない。だから、彼らの国は滅びた。ゼカリヤ書11章16-17節にはこう言われている、「見よ、私は地に一人の牧者を起こす。彼は滅ぼされる者を顧みず、迷える者を尋ねず、傷ついた者を癒さず、健やかな者を養わず、肥えたものの肉を食らい、そのひずめをさえ裂くものである。その羊の群れを捨てる愚かな牧者は禍いだ。どうか、剣がその腕を撃ち、その右の目を撃つように。その腕は全く衰え、その右の目は見えなくなるように」と言われる。これは預言者ゼカリヤがバビロン捕囚から帰還した人たちに向けて語ったものであるが、まだ回復の時は来ておらず、禍いな牧者が立てられて民の苦しみはまだまだ続くのである。 
しかし、神は遂にまことの牧者を立てると約束したもう。それが預言者エレミヤの語ったエルサレムの滅亡の預言の続きの回復の約束の中に出て来る。31章10節であるが、「イスラエルを散らした者がこれを集められる。牧者がその群れを守るように、これを守られる」。 
一番ハッキリ語られているのは、エゼキエル書34章である。そこでは「私自身が牧者となる」ということとともに「ダビデが牧者となる」と約束される。これはエゼキエル書37章24節で繰り返される、「わが僕ダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために一人の牧者が立つ。彼らはわが掟に歩み、わが定めを守って行なう」。 
ダビデの子孫が王となることは、先ずダビデ自身に約束された。それはサムエル記下7章に書かれている。ダビデは国の内を統一し、敵対する異邦人を平定したので、宮殿を作ったが、神の礼拝所はまだ幕屋であった。彼は主に対して申し訳ないと思い、神の宮を建てることを預言者ナタンに相談し、賛成を得た。ところが、神はその夜ナタンに託宣を賜り、宮を建ててはならぬと申し渡し、それよりも、主ご自身がダビデのために家を建てるのだと約束したもう。「『主はまたあなたのために家を造る』と仰せられる。あなたが日が満ちて先祖たちと共に眠る時、私はあなたの身から出る子を、あなたの後に立てて、その王国を堅くするであろう」。これはダビデの後にその子ソロモンが立てられることを直接には指すと取られるが、早い時代から、ダビデの子孫の王位を約束したものと解釈されていた。 
次に、ダビデの子孫がメシヤとして来るのを預言したのは、イザヤ書11章1節である。 
「エッザイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」。また、その10節、「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」。 
来たるべき牧者がダビデの家から出ることは、ミカ書5章2節以下にも語られる。「しかし、ベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから私のために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。………彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果てにまで及ぶからである」という。 
それが単純にダビデ王朝の再建、ダビデ支配のもとの王国とエルサレムの繁栄の回復を約束したものでないことは言うまでもない。しかし、新約聖書は主イエスがダビデの子孫であることを証言する。ダビデへの約束があるから、それが成就したことは証言しなければならない。そして、旧約のダビデ王国と新約のキリストの王国は単なる連続では決してないが、或る意味では王国の意味が継承されている。これは旧約聖書の中に繰り返し現われるキリスト預言の一つである。 
さて、イエス・キリストが「私は良い羊飼いである」と言われた言葉から我々が第三に考えなければならないのは、キリスト以後の、キリストから任命を受けた羊飼いについてである。上で触れたように、旧約の歴史の中では、イスラエル、ユダの王たち司たちは牧者と呼ばれた。それは神の民が羊の群れになぞらえられるからであって、どこの国でも王は牧者と呼ばれるべきだという意味はない。確かに、古代の中近東諸国で、王や偶像神に「牧者」という呼び名を与えた例は少なくないようだが、我々がそれを考慮することは要らないであろう。 
先に、「王国」の精神的意味が旧約から新約へと受け継がれていることに触れたが、ローマ書11章29節に「神の賜物と召しは変えられることなし」と言われるように、選ばれていた者が歴史の転換の際に捨てられるということは決してない。選ばれていた者はキリストの来臨によっていよいよその選びを堅くするのである。そこで、選ばれた民のある限り、彼らのために、牧者が立てられる。そして、新約の牧者は神の民が御言葉なしでさまようことがないように、彼らに御言葉を語り続ける。 
新約の時代に入って、それぞれの地の教会で説教し・指導する人のことを「牧者」と呼ぶようになった。これはキリスト教会だけが持つ呼び方であって、間違った呼び方ではない。主イエスが「わが羊を飼え」と弟子たちに命じたもうたからである。 
ただ、キリスト教会の時代、とくに近代になって、羊飼いの比喩のイメージが、聖書本来のものから大幅にずれて来ていないかどうかを検討する必要がある。旧約の時代に最高権力者を表わすものとされた羊飼いの比喩を教会の牧師に当てはめるのは確かに的外れであろう。イメージは変わった。特に、99匹を守るか、1匹を守るかに関して大転換が起こっている。 
しかし、やたらに優しい羊飼いを想像することは、かなり勝手な解釈である。羊飼いは子供でも勤まる比較的単純な仕事であると考えられやすい。けれども、どの季節にはどこにどういう草が生えているか。その草は何頭の羊を養うだけの量があるか。どこには、どの季節には、どれだけの水量のある流れがあるか。その水質はどうか。――そのようなことを経験によって知っているか、伝承として受け継いでいなければ、羊の群れを養う務めは果たせない。また、危険に際してはどうすれば羊の群れを守ることが出来るかを知っており、群れを守る勇気を持っていなければならない。羊の病気や繁殖については子供には出来ない。 
羊飼いは羊の檻に餌を運んで来るのでなく、牧草のある場所に羊の群れを連れて行くのである。その牧草は神の言葉をたとえたものである。自分の教えを与えるばかりで、御言葉をもって羊を養うことが出来ない牧者は失格である。 
さて、主イエスは、「良い羊飼い」がどういう意味で「良い」のかを説明して、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われる。これが今日学ぶ一番大事なところである。二重の意味がここに込められている。一つは、まことの牧者は羊を養うというよりもむしろ贖う贖い主であり、しかもその贖いは、旧約の祭儀に見られたような獣を生け贄として神に捧げて、神の和解を勝ち取るというやり方によるのではない。自分の命を投げ出すのである。もう一つは雇い人の羊飼いの譬えで示される者との対称である。このことは次回に学ぶことにして、今回は羊のために命を捨てるところだけを学ぶことにする。 
この件について我々はこれまでにヨハネ伝で三度学んだ。一つは、3章16節で、「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と教えられたところにおいてである。そこではキリストの贖いの死はハッキリ示唆されているが、キリストが与えられたことが強調されていて、例えばローマ書8章3節で、「御子を罪の肉のさまで罪のために遣わし、肉において罪を罰せられた」と言うように明瞭に語られたわけではない。 
第二は、6章51節で、「私は天から下って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」と言われたくだりである。これがご自身の死によって我々の命が得られることを語っておられるのは言うまでもない。 
第三は、8章21節で、「私は去って行く。あなた方は私を捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。私の行く所には、あなた方は来ることが出来ない」。これも、続いて書かれているように、聞いたパリサイ人には何のことか分からなかった。 
しかし、我々には彼の贖いの死を語ったものであることは良く分かるはずである。 
今上げた三つの場合と比べて、今日学ぶところには非常に明確にキリストの贖罪の犠牲の死が語られている。「命を捨てる」というのは、直ぐ次の節にある、狼が来るのを見ると、命が惜しいので、羊の群れを見捨てて逃げる雇い人としての羊飼いと対比されているように取られるかも知れない。その意味も確かにある。しかし、ここで読み取らなければならない第一の意味は、17節18節で語っておられることと結び付けて理解しなければならない。「父は、私が自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが私からそれを取り去るのではない。私が自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」。 
自ら命を捨てる権能はキリストにのみある。彼にはまた命を再び獲得する権能がある。 
その権能を持っておられる方が我々の贖いのために命を捨てたもう。これは誰にも真似が出来ない。「私の行く所にあなた方は来ることが出来ない」と言われた通り、彼の死と同じ意味を持つ死を遂げることは人には出来ないのである。 
ヨハネの第一の手紙4章9-10節にこう言われる。「神はその独り子を世に遣わし、彼によって私たちを生きるようにして下さった。それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪の贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」。 
旧約においては、来たるべき牧者は少なくとも人々の理解においては、王として君臨する者である。贖いのためのいけにえは、燔祭の犠牲、過ぎ越しの小羊、贖罪の日の犠牲の山羊などの祭儀として表象されてはいただけで、贖い主そのものが犠牲としてご自身を差し出されるということを読み取れるのは、旧約にはイザヤ書53章以外には余りない。 
今日聞く「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」との御言葉は我々の贖いの特質をよくしめすものであり、福音の中心部であり、これが分かってこそ、キリストが唯一の門であり、この門を通ってこそ救われ、出入りし、牧草にありつくということがハッキリするのである。主の晩餐が示すのもそれである。 
 

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