◆説教2001.12.23.◆

降誕節ヨハネ伝講解説教 第100回

――ヨハネ10:7-10によって――

9章から10章へと読み進んで来て、10章に入った時に感じられた文章の調子の変化がある。すなわち、9章ではキリストの恵みのもとにある人、特にその内面に焦点を当てていたのに対し、10章では専らキリスト御自身についての宣言をしているのである。 
生まれつき盲人だった者が、キリストと出会うことによって目が開かれ、それが単に肉体の目の開眼でなく、むしろ心の目、信仰の目を開くことであり、したがって、彼は目を開いて下さったイエス・キリストへと次第次第に接近して行く。その接近を妨げようとしてこの世の力が働くが、目を開きつつある彼にとっては、妨げが妨げとならず、却って決断を促進する機縁になる。――こういう物語りを引き込まれるようにして読んで来たのは、この盲人はほかならぬ私自身のことであると思われたからである。確かに、自分自身の姿をここに重ね合わせて読むことは大切である。 
こうして、我々の側のことに思いを向けさせられ、キリストの前における自己確認を促されつつ読んで来たのであるが、10章に入ると、ガラリと変わって、もう自分自身に思いを傾けている余地はなく、キリストに全ての思いを集中しなければならなくさせられる。自分自身に目を向け、自分が見えるようになった恵みに感謝し、その恵みに応答し、さらに、見えると思い込んだり、言い張ったりする危険に陥らないよう、この後も内面を掘り下げ続けなければならないのは確かであるが、キリストそのものを知ることはさらに重要だと弁えなければならない。 
だから、目を開く教えは9章で終わったのでなく、10章でも、別の意味ではあるが、目を開かれる教えが続くのである。キリストに向けて目が開かれなければならない。 
さて、前回学んだ10章1節から6節の内容は、我々を新しい地平に引き上げて教える教えであったが、今回のところは謂わばその繰り返しである。ただし、繰り返しと言っても、単なる反復ではないし、また解説でもない。前回の学びはすでに重要な宣言であったのであるが、今回は本格的な宣言である。 
10章の初めで、「よくよくあなた方に言っておく」と言われ、それから重大な宣言が行なわれたのであるが、それは比喩であり、しかも三人称で語られた。7節では先ず、「また言われた」と書かれているが、「また」、「再び」言われたのである。繰り返しを強調するものであるとともに、繰り返しを越えたものがあるという指摘がなされる。語られたことの内容は、1節から5節までと、7節以下とは同じであるが、今度は一人称で語られているのである。「私は何々である」と言われる。 
7節は「よくよくあなた方に言っておく」という前置きで始まるが、言葉としては、1節で言われたのと同じである。だが、この言葉の置かれている場面が違うというか、我々との距離が違うというか。したがって、その言葉を受け取る我々の受け取り方に違いがあることを感じるのである。「受け取り方の違い」と言っても、正しい受け取り方と間違った受け取り方の違いということではない。どちらも正しいのであるが、今聞くのは、謂わば肉声で聞くのであって、文字に書かれたことを読み上げるようにして告知されるのとは別なのである。 
同じ事を別々の言い方で二度言われたのは、どちらか一方を採用すれば良いという意味ではなく、二通りの言い方を二つとも受け入れて、それによって我々の理解を深め、また固める必要があるという意味である。とにかく、我々は同じことの反復というよりは、新しく聞くという思いをもって学ばなければならない。 
「そこで、イエスはまた言われた。『よくよくあなた方に言って置く。私は羊の門である』」。 
「門」と訳された言葉はまた「扉」とも訳される。「門」と聞くと、開けっ放しの門を思い浮かべる向きが多いかも知れない。しかし、正式に言うならば、それは「開かれた門」というイメージであって、門は通るべき人や物が通るためにこそ開かれるものであり、したがって、それ以外の時には閉まっているのである。昔の人の門のイメージでは、正門はふだんは閉まっている。それを無用の長物と見るのは近代人の実利的な考え、あるいは現代人の開放的な考えの影響であって、正式の門は、ふだんは閉じられていてこそ、門としての意味がある。ふだん開いているのは、正式の門でなく「通用門」と呼ばれる通路である。 
先に我々はエゼキエル書44章2節で、「この門は閉じたままにして置け。開いてはならない。ここから誰も入ってはならない。イスラエルの神、主がここから入ったのだから、これは閉じたままにして置け」と言われるのを聞いた。門には開くという機能と、閉じるという機能とがある。閉じられることには開かれるに劣らない意義がある。門の比喩を理解するに当たって、エゼキエルに語られたこの言葉は門そのものの意味を明らかにする上で重要である。 
門というものが、旧約では、時々重要な意味を担う象徴として語られるのを思い起こそう。詩篇118篇19-20節は有名な聖句の一つである。「私の前に義の門を開け。私はその内に入って、主に感謝しよう。これは主の門である。正しい者はその内に入るであろう」。詩篇のこの部分は「メシヤの詩篇」と見られていた。主イエスが「羊の門」という言葉を用いられた時、詩篇のこの言葉を念頭に置いておられたと考えた方が意味の深みを読み取り易いであろう。 
門はふだん閉まったままで良いのであるが、開いたままでなく、閉じたままでもなく、開かれる時がある。晴れの日である。開かれる「時」があるという含みを読み落としたままで、そこを通って行くことしか頭に浮かばないとすれば、かなり重大な読み落としをしたことになる。重要な門ほど開かれる機会は稀である。救いの門に関して言えば、門が開かれる決定的瞬間は一度しかない。「今は恵みの時、今は救いの日」と言われるその救いの時と、門の開かれる時とを結び付けて考えて置くべきである。3節で「門番は彼のために門を開く」という御言葉を学んだが、門が開かれる時の重要さをここで味わわなければならない。時が来ているのである。 
詩篇118篇とともに、詩篇24篇も思い起こして良いであろう。「門よ」と呼び掛けられる。ここは我々の間では通常「カドよ」と読むので、今それに倣って読むが、「カドよ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ上がれ。栄光の王がはいられる。栄光の王は誰か。万軍の主、これこそ栄光の王である」。 
栄光の主のために開かれるべき門と、羊の囲いの門とはひどく違うのであるが、主イエスが「私は羊の門である」と言われる時、門のイメージを貧しい羊の門に固定してはならないであろう。 
「門」の譬えは先に「羊飼い」の譬えとして教えられたことと同一に見て良いのであるが、「羊飼い」の比喩と「羊の門」の比喩は、混同しない方が意味の膨らみが良く分かるであろう。「羊飼い」は羊の先頭に立って行き、羊はその後に従って行く。羊飼いは羊に危険が及ぶ時には体を張って戦う。羊飼いの後に従ってこそ羊は青草の野辺、憩いのみぎわに達することが出来、それ故に生きることが出来る。「私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」と言われる。 
一方、「羊の門」は、8節で意味されているように、羊の為の羊飼いが入って来る入り口であるとともに、9節にあるように、羊がそこからのみ出入りする通路である。この門を通らなければ、羊は牧草にも水にもありつけない。ここでも、門がなければ羊は生きて行けないが、そこしか通らないように規定されているという意味がある。 
11節に「私は良い羊飼いである」と言われるのであるから、7節の「私は羊の門である」と言われるのと重ねても間違いではないのであるが、比喩としては、重複する意味があるとともに、別のことを教えようとされた面もある。 
「羊の門」には先に触れたように二つの意味がある。一つは羊のところに至る門という意味である。8節で「私より前に来た人は、みな盗人であり、強盗である」と言われたのはその意味である。門である私を差し置いて接近する者は偽者である、と言われる。 
この門以外から接近するのはみな偽者なのだ。もう一つ、羊がそこからのみ出入りする門という意味である。だから「私を通って入る者は救われる」と言われる。これは救いの門でもある。 
「私は門である」と言われたお方は、8節で、この門以外のところから出入りする者は、正規の救い主また導き手の役割を持つ者ではない、と言っておられる。先に1節で「門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と言われた通りである。 
では、8節の「私の前に来た人」というのは誰のことであろうか。キリストの来られる前に、預言者が神から遣わされて来た。バプテスマのヨハネも来た。さらに、律法を与えたモーセや、ダビデもキリスト以前に来た者として数えられるが、これらの人々は盗人であったのか。そうでないことは説明するまでもない。「盗人」とここで言われる者は、神の羊の群れを奪い取るために侵入した悪者である。預言者たちやバプテスマのヨハネ、モーセもダビデも唯一の羊飼いを証しするためにこそ神から遣わされたのであって、悪者ではない。 
イエス・キリストの教えの完全さと比べるならば、モーセや預言者の教えは欠陥があったから、盗人という譬えになるのも已むを得ないという解釈はあるかも知れない。しかし、主イエスは私は律法と預言者を廃するために来たのでなく、成就するために来た、と言われるのであるから、モーセと預言者を排除するのはやはり正しくない。 
では、「私より前に来た人」と言われるのは誰のことか。そういう人が時々いたことは、主イエスのこの時の教えを聞く人には分かっていたらしいのである。例えば、使徒行伝5章36-37節で、律法学者ガマリエルが、「先頃チゥダが起こって、自分を何か偉い者のように言い触らしたため、彼に従った男の数が四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者も皆四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起こしたが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった」と言っている。このように人々の記憶の中にも世を惑わす偽キリストのような人がいたのである。これは単に革命の試みと失敗を言っただけかも知れないが、チゥダの場合は、自分を偉い者と言い触らしたのであるから、「偉い者」はユダヤ人の間ではキリストを指したと考えることが出来る。だから、偽キリストである。 
さらに、ユダヤの歴史のうちには、偽預言者が多く現われた。彼らは革命家でない場合が多かったかも知れない。自らキリストであると名乗ることはなかったかも知れない。 
しかし、神から遣わされたのでないのに、「神はこう言われる」と宣言し、真の預言者を通じて神が語りたもうことを否定したのは、結局偽キリストと同類になる。 
預言者は全てキリストの証し人として生き、かつ殺されたのであるが、それとは逆に、キリストを押しのけて、自分がキリストになろうとする人は珍しくなかった。「来たるべき者」という言い方があったことを思い起こしたい。これはメシヤと言うのと同じ意味があった。だから、「私の前に来た人」とは「私の前に来て、自分こそ来るべき者である」と自己宣伝した人と取れば良いであろう。 
さらに、「私より前に来た人」というのは、時間的に前の人というだけでなく、キリスト以後の人も含み、キリストを通じて救いをなそうとする神の計画に反する者のことである。ヨハネは晩年に書いた第一の手紙の2章18節で、「子たちよ、今は終わりの時である。あなた方が、かねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現われて来た。それによって今が終わりの時であることを知る」と言っている。 
そこで、キリスト以前だけでなく、キリスト以後においても、キリストの意図に反する教師たちがいることも、ここで考えなければならない。キリストの教えを曲げる偽教師が出現するのである。そしてキリストが教えたまわなかったような教えを与えて、キリストの羊をキリスト以外の所に連れ出すのである。 
12節に、「羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人」ということを言われるが、これはキリスト以前でなく、キリスト以後の正しくない牧者のことを指したに違いない。我々は主イエス・キリストが復活の後、ペテロに現われて、「シモン・ペテロよ、あなたは私を愛するか」と問われ、「愛します」と答えるのを確かめた上で、「私の羊を飼いなさい」と命じたもうたことを知っている。イエス・キリストこそが真の牧者であることは確かであるが、彼以外の者は牧者になってはいけないというのではなく、キリストを愛する者は、キリストからの命令によって牧者となるのである。主イエスがここで「羊飼い」という言葉を使っておられる時、これ以後の教会における牧者の務めのことを視野に入れておられることは確かである。だから、我々もキリスト以前のことを考えるだけでなく、以後のことも考えねばならない。 
キリスト以後のことを考えるとすれば、福音を宣べ伝える者は、唯一の門であるキリスト・イエス以外の門を作って、「こちらの門の方が入りやすいから、さあ、こちらに来なさい」と呼び掛けるようなことをしてはならない。唯一の門をシッカリ守る牧者でなければならない。 
ただし、本来の門の他に勝手に門を作って、「羊たちよ、さあ、ここから出入りせよ」と呼び掛ける人が現われることを余り恐れる必要はない。5節で、「羊は他の人には随いて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」と教えられ、また8節でも、「羊は彼らに従わなかった」と言われる通り、甘美な呼び掛けをしても、キリストの羊はキリストの声を知っているから、ほかの人には随いて行かないのである。甘美な誘いに乗るような者はもともとキリストの羊ではなかった、と看倣して良いと言えるであろう。 
もっとも、羊飼いの務めを委ねられた者が、主の羊は主の声しか知らないのであるから、どんな誘惑の言葉があっても動じることはないのだと安心して、手を抜いて良いということにはならない。羊の皮を被った狼が来ると警告されている。羊たちも呑気にしていてはならないが、羊飼いは自分の職務を忠実に遂行しなければならない。 
まことの羊飼いは羊に命を豊かに得させる。その事実を羊は知っている。それは知識として教えられるだけでなく、事実によって確認するのである。我々は今日、まことの羊飼いが来たりたもうたと言うだけでなく、事実によってそれを確認するのである。 
 

目次へ